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ナウ タイムス
NC旋盤の前で スイッチ押すごとに 自動的に 硬い鋼が刻まれて その度に製品ができ上がっていく 自分はもう スイッチ押して 材料を入れて 製品を出すだけの 機会の一部として作動をし続けている あと数百 同じ動作をし続ける 旋盤の下に 切り子がいる ヒルコのような 屑が いる 捨てられる 出来損ないが いる 製品を作る犠牲として 奈落へ行く お前たちのオノゴロ島は そこなのか 切り出された製品よ 均一な性能で 世に出て 人々を救え 切り子よ ヒルコとして 恵比寿となって帰って来い モノクロ映画の中で 機械の一部のようになった人間を揶揄されていた 人々の為に 苦痛を除く製品を作る事に 誰が人格を否定しうるだろうか 機械の一部となった先の 作り上げられた製品よ 菩薩となれ 切り子よ 早く帰って来い 材料となったお前を 彫り上げる また一日 機械の一部となる 材料と製品と切り子を見守り 異状を調べ またスイッチを押す
ナウ タイムス ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2014.1
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2021-01-14
コメント日時 2021-01-22
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ただ今、職業訓練学校の企業実習で、NC旋盤の一部の様になっています。 予想以上のお褒めの言葉、感謝です。 >作り上げられた製品よ 菩薩となれ 元自衛官の元牧場従業員なので、機械製品が問題なく稼働する事のありがたさが身をもって感じているのです。 上手く作動しない銃器ほど絶望的な物体もなく、牛糞を運び出す機械や搾乳機の修理を待つやりきれなさもないので。 無事に生き抜く助けをしてくれる機械は菩薩のように思えます。 その材料になる鉄は、そう思うとあまり無下にできない気もします。 チャップリンは好きなんですが、「モダン・タイムス」の人間が機械の一部として働く事への疑問視も理解できるものの、それがそこまで苦じゃない上に、かつての自分みたいな奴への助けになるのならいいじゃないかとも感じまして。 掃除を一心にすることで悟りに至った、釈迦の弟子のチェーラパンダカの境地にもつながりそうですし。
2うーん。どうなんだろう。労働によって作り出された製品は社会に流通することで、利用する消費者の生活を助けることにはなるけれど、それって近代的・合理的な経済システムと生活者とをより強固に結びつけてきたわけですよね。 そういうシステムの中では労働者もシステムを機能させる部分として見做されるというのが、それこそフォード式の頃からあったわけで、人は人格をもった個人というよりも労働力として考えられてきたと思うんです。その結果として豊かになったモノ社会というものを私も享受している一人ですが、その延長で持てる者・持てない者の格差を拡大させた面もあると思うんです。そういう点では語り手の考えていないところで、人々を助けることはできていないように思う。というか、そういう部分に目を向けないで、システムの一部になることを自ら選んで自足しているようにも読めるんですよね。そういう自らのうちに埋没していく感じってどうなのかなあ、というモヤモヤがあります。
2>その延長で持てる者・持てない者の格差を拡大させた面もあると思うんです。 確かにそれはありますね。ただ、同時にそのすばらしさ心強さは何ものにも代えがたいのもまた事実です。 こうした機械なしに酪農はもはや無理ですし。畑作や稲作もそうでしょう。 人間はもう北海道の開拓時代には戻れません。 また持てる者・持てない者の話に戻ってしまいますが。 >そういう点では語り手の考えていないところで、人々を助けることはできていないように思う。 持てない者は助けられなくても、使う人と飼われている牛は相当数助けられるので、矛盾を抱えつつ肯定したく思います。 今まで死んでいってしまうしかなかった牛を、機械や工学的な道具で何とか出来た現場を見てきたので。 (難産の牛から子牛を引っ張り出す助産用の滑車や立てない牛を立たせる重機や道具、使い方次第で相当な用途に使え場合によっては牛の命も助けられるバケットローダーなど) >人は人格をもった個人というよりも労働力として考えられてきたと思うんです。 そこはチャップリンが茶化して否定した箇所ですね。 ただ自分の場合、自分とはある意味では幻であり仮であるという仏教思想の影響もあるのでしょう。 自分自身が満足し納得し苦痛を感じないで誰かの助けになるなら、そこまで大きく人格を重視する必要もなく、行の様に労働するのは良いのではと思っております。 >そういう自らのうちに埋没していく感じってどうなのかなあ、というモヤモヤがあります。 つまり好きでやってます。単純労働が性にあうのです。 知性は余暇に存分に発揮すればよいですし。 禅海和尚が30年かけて彫り上げた青の洞門のミニチュアと思っていただけたらなと。
2返信ありがとうございます。私のコメントは羽田さんの仕事やモノに対する考え方に向けたものではなくて、あくまでも提出された詩作品に対して向けたものなのです。 かなり大雑把に書いたのですが、近代の科学をもとにした諸学問の発達によって得られた知見と技術は、さまざまなモノの開発と流通を可能にして経済を大いに発展させたわけで、先も書いたように私もその利益を受けているのですが、一方で核兵器まで造り上げたんですよね。資本主義経済の筆頭といわれたアメリカがグローバル化を推進するなかでは中東地域に持たざる者が増えて、抑圧からの解放とされテロル(殺戮)につながったという面もあります。小林さんへの返信に《上手く作動しない銃器ほど絶望的な物体もなく》とありますが、「上手く作動する銃器であるがために絶望的な物体」を生み出してきたのもこの社会であるのです。すでにそのような状況である現在において、この「作品の語り手」も羽田さんのように《好きでやってます。単純労働が性にあうのです。》というのであれば、他はどうだろうと知ったことじゃないよ、と言っているようなものではないかということです。生活している現実としては元に戻ることはできないにしろ、作品として読んだ場合、語り手自身による批判が含まれていてもよかったのではないかと考えた次第です。
2そう言われると、近視眼的だったのは否めませんね。 その点を自覚した描写や多少なりとも功罪がある事を自覚する書き方をしてもよかったです。 自分の視点が一労働者(自分が基本的にそうだからなのですが)の視点に偏ってました。 思い至らなかった点です。
2単純労働を繰り返すこと、機械のように働かされることに対して、批判的な作品が多い中、この作品は新鮮でした。 私が素敵だなと感じたのは、第三連から始まる、切り子についてです。 味気なく言ってしまえば、切り子は資源節約とコストダウンのためにリサイクルされるだけなのでしょう。 しかし、作中では切り子の行方が、一編の物語ように語られていて、詩の表現の面白さを感じました。
3今までの仕事が割と単純労働が多かったのと、個人的にそういう仕事が好きなのが肯定的に書いた要因ではあります。 切り子は相当出る場合があるんですが、形が諸星大二郎の妖怪ハンターに出てくるヒルコに似ている事がたまにある事や、切り子と語感が似ている事、あと福の神の恵比寿になったという話が印象的だったからこうしてみました。 あまりない視点ですし、再生されるなら無下にもできませんしね。
2本当に機械と一つになればそれはそれで良いのかなとは思います。製造関係の機械を扱う作業に従事した経験があれば事故の可能性や原因などに注意深くなりますし、起きるときには起きてしまうと覚悟も必要になってはくるかと。だからこそモノであっても愛おしさの気持ちも深くなるのでしょうか。細かな部分にまで一心に集中する姿はたしかに祈りに近いのかもしれません。人間と労働について考えさせられる作品でした。 最後のチャップリンの映画についての記述は無いほうがよいかなとは思いました。
2自分なりの労働観が強く出た作品となりました。 視野が狭かったのは否めないのですが、こういう視点も悪くはないかと。 チャップリンの映画については、思えば20年は昔、「チャップリンは人が機械に使われるような現状を批判した」みたいな文章を読んだ記憶がありました。 それが半ば無意識的に出ましたね。 その文章と対照的な労働観なので出しました。 無くても良かったかもしれませんが、書きたくなってしまった箇所です。
4人はヒトの為に銃口を人に向けます。熊にも向けます。という話はこの詩とは特に関係はありませんが。最初にざっと読んだ時は映画「プラダを着た悪魔」の「仕事は家賃の為に」と言って乾杯するシーンを思い出しました。それから「下町ロケット」…は噂でしか知らないけど。「はたらく細胞」とか。 つまり私は語り手が自己を肯定する作品として受けとめました。 >機械の一部となる 個人的にはこの感覚、分かる気がします(私は祈らないタイプですが)。 全体を通して語り手=隷属する人というイメージがあり、ヒルコや菩薩に対して弱く、無責任にさえ見えます。弱いからダメ、とかそんな簡単な話ではなく。この作品は、家賃以上の価値を、救いのようなものをどこかに求めたいという雇われ人や研修生の自画像であり、この立場のアンバランスさも含めてモダン・タイムスへの反論なのかもしれないと思いました。 で、少し気になったのが……第二連の「機会」と、第六連。モダン・タイムスの知名度と読者を信じて省くなり、まだ何かできそうに思います。例えば、モノクロ映画と言い換える必要はあったのかなぁとか。
0語り手が自己を肯定すると言うより、語り手が徒労のような日々の労働を「祈り」「恍惚」の方向で肯定すると言う方が正確かと。 自分自身がある意味で機械の一部となって希薄になってますし。 救いを求めているのではなく、菩薩になりうるものを作り上げている、その過程で出てしまったヒルコも恵比寿として戻ってきてくれ、となっているのである意味仏師のようなイメージでした。 揶揄されるようなことは何もない、という意味でのモダン・タイムスへの反論のつもりです。 立場のアンバランスさは確かですが。 藤一紀さんのご指摘通りの問題はあるわけですし、ブラック労働の犠牲者になりかねない思考ではあります。 二連目の「機会」は誤字です。やらかしました。すいません。 今までモダン・タイムスもチャップリンも知らない人に多く接してきました。 ビーレビューの閲覧者なら知っているでしょうから省いてもよかったかもしれませんが、それをする勇気がなかったです。 考えてみればこういう言い換えが癖になってましたね。 ここはもう少し考えてみてもよかったです。
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