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下手くそが書くバラッド
外はどうせ雪が積もっているのだろう 今日こそは本を読むとか豪語しておいて 男は携帯をいつまでも触っていた 友人から飯の誘いがきて その後はなんか動画見ていた 最近はAIが見る動画選んでくれるんだって へえ 外はどうせ雪が積もっているのだろう 別の男は今年はどうなるのかと悩んでいて それを見かねた妻はこう言った だからあなたは新年早々顔色が悪いのよ まぁその通りだと思うし良い奥さんだわな あ 妻とか奥さんって禁句なんだっけ はい死にまーすごめんなさーい 外はどうせ雪が積もっているのだろう 女は昼寝をしようと目をつぶるものの マジ面倒明日からもう仕事だしマジ 明日の朝絶対凍ってるでしょ運転ダッる と思っては目を開くのを繰り返している マジやばくない? それはのいろおぜですぢゃ だしね誰も外を見ていないのよこれが 外はどうせ雪が積もっているのだろう ちなみに僕は 糞して寝よおかな、あ爪が長くなったなあ、詩を書かなきゃ、んーわかんね、漫画読みてえ、くっそ舌に口内炎できとるしニキビもできとるがな、口内炎が出来たのは久々だし書いちゃえ、えいえい と思ってこれを書いている ほんとだってば ウケるね そんな僕らにビタミンB群 きまりだね (補遺:この作品の脇にあった下書きのようなもの。鉛筆の類でがしゃがしゃと塗りつぶし損ねている。) 外はどうせ雪が積もっているのだろう 雪の粒が乱反射するほどの光はない 曇天は曇天のままで 人が歩く影は薄いのも ゴム長の歩く音は虚しく聞こえるのも 分かっているのだ 公園のブランコは全然使われていなくて そこには雪が積もっているのだろう 歩道の脇は(✱ここで筆が途絶えている)
下手くそが書くバラッド ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1864.3
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 4
作成日時 2021-01-03
コメント日時 2021-01-10
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合ポイント | 4 | 4 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 1 | 1 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 1 |
総合 | 4 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
コメントありがとうございます。 狙い通りの評でございました。僕としては大成功であります。 饒舌に作者が語り過ぎてはならぬので、詳しい話をもし聞かれたければ直接どうぞ……。
0沙一さん、コメントとても嬉しいです。 その「いやらしさ」を感じていただければこの詩の目論見はある意味、大成功であります。(私からはこれ以上多くは語りませんが……) ありがとうございました。
1こんばんは。バラッドという形式に照らして読んでみると、 〈(補遺)以降に書かれた詩句〉 いかにも詩情を孕んでいるように読めるものの独白めいており単調な作りである。 〈(補遺)より前の四連からなる詩〉 それぞれに、 ・一行目が反復されている。 ・登場人物が現れて会話や行為が行われるといった体で「物語」が嵌め込まれている(内容は世俗的)。 ・文体にかなりくだけた口語が用いられている。 ・最後にまとめ(オチ)がある。 また各連が直列的な関係をもっているというよりも並列的に並べられている。 以上のことから(補遺)以降の、いかにも詩情を醸しているかのように見える詩行より、詩としては失敗していると思われかねない(補遺)以前の詩の方が、実際はバラッドのありかたに非常に近いといえます。 あまりに露骨な(普段遣いの)口語体であるた(補遺)以前の詩は、詩情を感じさせず、結果的に対比として(補遺)以降の詩行があたかも詩的であるように思えてしまうのですが。 しかし、(補遺)以降の詩行は畏まっていて、すでにどこかで読み慣れた、経験済みで、ゆえに感じにくい詩行になっているともいえます。なんとなく読み慣れていてなんとなく共感できたような気持ちになれる、安心して読める詩。 そんなものに閉じこもっていたくない。という気持ちが、書きかけていたものを自ら損ねさせ、中途で終わらせずにいられなかった。そして最初の一行を用いてバラッドを作った。そんな印象を受けます。あるいは次のようにも読めます。雪が降るのは冬であれば当然という土地に暮らしている人々からすれば、降ったところで大して驚きもしないだろうし、あえて確かめることもしないでしょう。日常に馴れるというのはそういうものです。でも、その「雪」に美しさを感じる人はいるかもしれないし、日常のなかで慣れてしまった「雪」というものや語に、言葉によって新しい感触を与えようと試みる詩人がいるかもしれない。ところがそれをしようとして彼は気づく。どうせ誰も雪が積もってるかどうかなんて気にもしてない。外なんて見ちゃいないんだ。自分の生活のことしか。畏まって詩を書こうとしていたことが突然馬鹿馬鹿しくなって、塗り潰してしまう。ええい、そんなら……ということで開き直って書きはじめられたのが(補遺)以前だ、と。まあ、ほぼ個人的妄想的読みです。 そうして考えていくと、バラッドの中の「僕」も、語り手ではなく、語りの中にひとりの登場人物として嵌め込まれて、他の登場人物と話していることになり、(補遺)以前と以降を合わせた全体としては入れ子の入れ子という構造といったやや込み入った作りになってきます。 ここに生まれる距離感と対比とが(補遺)以降の詩行ではでてこない味をつくりだしているように感じるのです。 分けて考えると(補遺)以降はバラッドとしては下手くそが書きそうな詩行でしょう。そしてバラッドであると断っているにもかかわらず、そちらに詩情を受け取ろうとするのも下手くそな読みになります。詩として失敗だと思っている(補遺)以前こそバラッドなのだということかもしれません。 とはいえ、全体としては(補遺)を付けなければこの作品の面白味が薄らいだことを思えば、やはりこの作品はタイトル通り『下手くそが書いたバラッド』に違いなく、そして、『下手くそが書いたバラッド』をこれだけ上手く書けるということは、上手いバラッドも書けるに違いありません。次回はそれを期待します。新年早々長々と失礼しました。駄文初めということで寛容のほど宜しくお願いします。
3詳細に見ていくと長くなるのでポイントを2つにしぼります。 1.「外はどうせ雪が積もっているのだろう」というリフレイン この言わばセリフのような言葉は、「どうせ」という投げやりな決めつけです。実際に外を見て雪が積もっていることを確認しているとしたら、「のだろう」という推量を使うことはありません。「外には雪が積もっている」とでも言うでしょう。つまりは、屋内にいるということを示唆しており、「雪が積もっているのだろう」と思わせるぐらいに気温が低い場所であるということを暗示させられます。 この当たり前のことを明記した理由も、補遺に繋がるからです。補遺以前は、全て屋内で起こりうること(あくまで「うる」こと)であって、補遺以後は屋外にいること、もしくは、屋外からもたらされることが書かれています。「公園のブランコは全然使われていなくて/そこには雪が積もっているのだろう」と、ここでも「だろう」が使われているため、現地に行って確認しているわけではないことがわかります。そして続く「歩道の脇は」と、これも屋外です。つまり、この補遺が途切れざるを得ない必然的な理由がこの「だろう」という推量によってもたらされているのであり、実際に屋外に出て現地を確認しておらず、想像で書こうとすることに苦慮しているという、語り手の姿が浮き彫りになっています。もし外に出ていろいろ街の景色を見たとしたら、「だろう」という推量や「鉛筆の類でがしゃがしゃと塗りつぶし損ねている」こともなかったのかなあ、と思われます。 2.誰に向けられた語りなのか 「1」で述べたのは、屋内にいることについてであり、そうすると他者との出会いは、屋外にいることより制限されます(全くないわけではない)。しかし、語りは自己に向けられているというよりは、誰かに向けられているように感じられます。「今日こそは本を読むとか豪語」できるのは、他者がいるからであり、他にも「別の男」「妻」という登場人物が出てきながらも、「妻とか奥さんって禁句なんだっけ/はい死にまーすごめんなさーい」というのも、他者から見られた自己の倫理・規範の表明であります。つまりは、「他者」を想定した語りになっているのではないかということです。だからこそ、最終的に僕が「僕ら」という複数形になっていることも納得ができるなあ、と、下手くそが書く評でした。
2コメントありがとうございます。 入れ子構造についても、バラッドらしさについても、だいぶ意識して書いておりました。 ある意味これは、ポエジーで勝負することをやめている作品だと思っております。 丁寧に筆を尽くして、鋭い指摘をしてくださいまして、大変嬉しく思います。
1コメントありがとうございます。 語り手の位置という視点で読んでくださいました。普通のいわゆる叙情的な詩を、部屋の中で書こうとすることへのフラストレーションがあり、その反動が本文だと解釈することも出来ると思いました。 叙情詩を捨て、(といいつつもバラッドに習おうともしている訳ですが)自動筆記的な口語体にはなっているのですが、でもどこか見られることを気にしている、そういう語り手を設定しました。 そして、この詩は「叙情詩」の装いに失敗し、「ネット詩」的な装いをしながらも、そのバラッドも装うとしている、一種の文体練習としてプロダクトした作品だと自分自身では考えています。
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