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『詩の日めくり』讃──在りえそうにないもの
ぼくも日記というものを書いたり、書かされたりしたことがあります。日記というと、だいたいは一日の終わりにその日を振り返って書くものだと思っていたのですが、いざ書こうと振り返ってみても、なかなか思い出せなくて、いや、事細かに精確には思い出せなくて、結局、「学校から帰って、野球の練習に行って、それからテレビをみました。晩ごはんはカレーでした。おいしかったです。」のようなものになるのでした。子どもの言語化能力でいえば割りと一般的な部類に入るんじゃないかと思うのですが、現在でも、誰とどこで会い、どんな話をして、その時の動きや表情がどうだったかというところまで細かく記憶できていないと思います。記憶というのは本当に笊のようだなあ。しかし、田中さんの『詩の日めくり』シリーズは、とにかく事細かに、精確に言葉にされていて、そのために、現に進行している事柄のように味わうことができます。そして、その細部を具に書くこと、精確であることが作品をひとつの世界として存在させることにも繫がっているように思います。敢えて言うならば、作品の語り手が実際に生きている作品世界及びその時空間がたしかに存在し、語り手はまさにそこで語っているのだと思わせてくれます。なので、こちらの世界には存在しない六月、九月、十一月の三十一日も作品世界では本当にあるのだろうと不思議と受け入れることができる。本来、日記は書き手と結びつき、書き手の生きるありようが味わえるからこそ日記文学も成立しえたのではないかと考えますが、「詩の日めくり」シリーズにおいては在りえそうにない世界と日常を存在させ、且つそこでの生活者でもある詩人をまざまざと感じさせる点で大いなる虚構と呼べると思います。
『詩の日めくり』讃──在りえそうにないもの ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1136.0
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2020-12-08
コメント日時 2020-12-08
ご批評くださいまして、ありがとうございます。 過分のお褒めのお言葉、まことに光栄に存じます。
1こんにちは。作品がボクに与えてくれたことをどのくらい言葉にすることができたかと思うと苦笑いすら出ません。笑って収めていただければ幸いです。
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