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たかが体裁、されど体裁
この世界は閉じている。 我々の住む場所とは全く別の機序が働く。 感情の機微を失った白くまっ平らな印象が、なぜ曲がり角の数を間違えたら消えてしまうのかという意味のわからない問題とともに、終始つきまとう。 老婆が母親の記憶を想起させるように、母親の役割を担うわけであって、亡き母への思慕の念が老婆を生み出したのではないかと感じる。 だから老婆は背中につかれても涙で濡らされても何も気づくことはない。 母からの教えである「数をかならず数えること」これを忠実に守ろうと、正の字がノートに足されていくたびに、そんなものが必要なかった頃の、生きていた母親の背中が老婆のそこへ強く意識されてきて、母が死んだことをよりいっそう自覚することとなる。 これは仮定であるが、亡き母親の死因は、曲がり角で数を間違えたからではないか。だから語り手は正の字を足して間違えることを選択しないたびに、あらわれないもの、つまり死んでいるものとの距離をまざまざと感じられてしまうのではないか。 我々は時に自己の感情を理解仕切れないが故の苦しみを感じる。言語化されれば、それだけでも癒しにつながるのだろうけれども、最も大きな苦しみはそれが言語化されず、つまり理解不可能であるが故の、同情のなさが孤独を拡大する。 しかしその一方で、表面的な感情が入り込む余地の無い文章が、深い感情に入り込んできて、同情をかき立てられることがある。 敢えて句読点の省かれた、心象のたれ流しのような文章は、読解を拒むようでそのじつ、それでしかあり得なかった表現方法なのではと私は思う。 と、ここまで書いて私はぜんぜん言い足りていないような気がして、勝手ながらも他の方の感想を一部引用したい。 うるりひとさんの感想 >シリアスでセンチメンタルな亡き母というテーマにも関わらず、改行のない語り手にせかされるような感じがします。 大井美弥子さんの感想 >句読点のない、子供の頃の記憶がそのまま止めどない記憶の想起と悲しみを書き表しているようで、心に迫ってくるような心地でした。 お二人ともに共通しているのは文章の体裁についてで、そして上記のように感じられている。文章の体裁という表層的なことが、読み手の感情を動かすこと、我々が理屈で生きていないということを語る上で、これはとても重要なことである。
たかが体裁、されど体裁 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1694.3
お気に入り数: 1
投票数 : 1
作成日時 2020-11-14
コメント日時 2020-11-22
>敢えて句読点の省かれた、心象のたれ流しのような文章は、読解を拒むようでそのじつ、それでしかあり得なかった表現方法なのではと私は思う。 考えることや話すことと同じはずなのに、なぜ書くことだけはあらたまってしまうのか、という疑問がまず最初にあり、できるだけあらたまらない表現にしていきたいと思いました。ですから r さんの「それでしかあり得なかった表現方法」でありたいと切に願いますし、たとえ間違っていてもそれはそのときまた修正していければいいかなと思っています。ありがとうございました。
0我々は時に自己の感情を理解仕切れないが故の苦しみを感じる。 日々、自己の感情を理解しきれないぼくには、この詩句に出合って、それが苦しみであったことに気づかされました。苦しいと思っていました。読んだあとに、わかったこと、感じ取れたことです。
0考えることや話すことと同じはずなのに、なぜ書くことだけはあらたまってしまうのか、という疑問がまず最初にあり、できるだけあらたまらない表現にしていきたいと思いました。 考えることと話すことと書くこととはみんな同じ回路を使っているのだから、特段あらたまる必要はありませんね。でも逆にあらたまる必要というか、あらたまる、あらたまらないは、その人の個性なのだと思います。だからそれが正解か間違っているかなど気にせず、今後もピムさんのやり方でつき進めてもらいたいものです。
0日々、自己の感情を理解しきれないぼくには、この詩句に出合って、それが苦しみであったことに気づかされました。苦しいと思っていました。読んだあとに、わかったこと、感じ取れたことです。 個人的な文章の響きが他者である読み手の思考にも響いて、読み手のなかの未だ言語化されていないなにかを呼び覚すこと。何かを感じてもらえることとして、これ以上のものはないかもしれないと思えました。
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