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嬉しい荷物
声を抑え泣く姿を隠し 私は救われたと経験としての事実がある この世を恨もうとしても 懸命に呼びかける声がする 私は積極的な意味を見出せないから 死の世界にやってきた そこで拾った物である 重たい荷物 よっこいしょよっこいしょ 明日まで持っていけるなら よっこいしょ これは何だろう 軽い気持ちを持つために捨てられたものか 冥界に置かれたものであったか 私は手ぶらでは悔しくて 引きずりながら持ってきた 誰もいない部屋 ぴったりのオブジェクト それを説明するにはまだ心が暗すぎて 明るい電気の部屋が明るい闇で 心の中に新しいものがやってくる 鳥よ渡れ時を翼に乗せて 新しい呼びかけに答えられるものよ 私は重いものに縛られるのを良しとして あなたは身軽でどこまでもメッセージを運んでいくよ 子供が生まれたっていうの それは祝福の中でも最も嬉しい出来事 この荷物を開いたときは なんだか今まで会った人の全てが要約されて詰められていたみたい 私は一人だけど 本当の物語を探し始めてる その物語を開くのは 新しい言葉や新しいまなざし そして私の中にもある信仰と赦し つまるところ十分に頼ることが出来るような意志の構造 ちかちかと鳴く神々しいスピードに 私は走りながら手を振って呼びかける 悲しみを悲しみとして自らを大切にするのだと 喜びを喜びとして自分よりもっとみんなと共有したいと みんないなくなるよりもっと楽しいことを ろうそくの炎がはじけるよ囲んでハッピーケーキ
嬉しい荷物 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1040.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-26
コメント日時 2017-08-30
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
〈私は救われたと経験としての事実がある〉この、回りくどいような行が面白い!あえて引っ掛かりを作ろうという部分なのか?と思うと同時に・・・ほかにこんな言い回しが無いので・・・という経験としての事実、とか、なにかそんな「言葉抜け」があるのかな、とも思いました。 〈この世を恨もうとして〉〈死の世界にやってきた〉〈私〉に〈懸命に呼びかける声がする〉この声は、どこから、聞こえてくるのだろう。もしかしたら、〈重たい荷物〉そのものが〈私〉に呼びかけているのかな、という気もします。 〈鳥よ渡れ時を翼に乗せて〉ここから先は、いつもの(というのも変な言い方ですが)黒髪節というのか、黒髪スタイルで言葉が繰り出されていく、歌っていく部分。前半の、生きるための重荷のようなものを、あえて引き受けてこの世に帰ってきた、という(比喩的な)死からの生還の部分は、比較的叙述的で情景が良く見える。 〈鳥よ渡れ~〉の部分と、前半部分との間に一行アキやアステリスク(*)などを置いて、二部構成にしてもいいかもしれない、と思いました。 最後の〈ハッピーケーキ〉は、新たな生を祝福する誕生日ケーキ、なのかな・・・生きる選択を引き受けることは、捨て去りたい重荷を引き受ける事、でもあるかもしれないけれど・・・そして、その重荷は自分自身に関わることであると共に、他者に関わる、自分ではなんともしがたい事柄、であるのかもしれないけれど・・・他者の物語をも、自らの物語(人生)の一部として生きて行くことができたら。 重さ、が、充実、に変わるかもしれない。そんなことを思いました。
0まりもさん コメントありがとうございます。心の中で、いろいろ遊んでみると、価値がある。言わずもがなをあえて言うのが スタイル。表面だけでは子供のまま。かっこいい生き方をしたい、いやむしろ、楽な生き方をしたい。 このようなことを思いながら書きました。他人を意識することも、取り分けて言う必要もなく、大事ですが。
0花緒さん コメントいただき、ありがとうございます。 自分の物語を作ってみました。詩の作り方としては、とりわけチャレンジしたような理論はないのですが、 それでも、書いているとなんとなく筆は進んでいきます。だから、今は、少し詩学について勉強をしようと 思っています。それは、力になるはずなので。自由に描いていけるはずなのにできない、これは僕には 課題として残っています。ハッピーな詩、と読んでいただけて、とてもうれしかったです。
0棄教、あるいは転ぶともいい、退転という呼びかたもある。遠藤周作原作映画沈黙を映画館で観てからというもの、頻繁にそれについて考える。先週はヘルマンヘッセの知と愛を読んだ。これも軽度ではあるけれでも(いや、重度かも)転びの話。黒髪さんの今作を読んだら、なんだか、また転びについて考えてしまった。私が転びについて興味が湧く理由は「自分が幸か不幸かなんて、自分で決めてる幻想でしかないんじゃないの?」という疑問があるから。転び・棄教だって、一面からみれば、敗残者で、逆な面でみれば解放を得た勝者だという。 黒髪さんの今作からの言葉でいえば、 つまるところ十分に頼ることが出来るような意思の構造 つまり、赦しだ。他者の憎悪までも抱きしめる強い強い自己依存。自分を赦すとはそーいうことではなかろうか。三浦が自分大好き人間だというのは有名な話なんだけれども、他人から向けられる憎悪なんてまったく大丈夫。だって、自分に依存してるから。 すみません。自分語りしてしまいました。 読んでよかった作品。
0三浦果実さん、コメントありがとうございます。 『沈黙』、小説を読んだことがあります。風邪で学校を休んだ日にでした。 >自分が幸か不幸かなんて、自分で決めてる幻想でしかないんじゃないの? 幸か不幸かと悩むことは、実質を欠いているのだし、自分で決めて良くなることでもないのだ、 ということでしょうか。 疑問に思ったのは、棄教、転ぶ、退転といったものを、救う視点は、人にはなく、神様はやはりそういう人も、 見捨てないのだろうということです。そのことについては、他者が棄教者を打ち砕くのが信仰者のあり方である、 といったような、人間の有限な能力が、そうした現実への表れとして出てきているものだろう、と。 「自我は憎むべきものである」という自己否定が、近代的自我にはあったそうですが、おそらく、自我の存在が ある限り、神への信仰とは別のものが生まれてしまうのである、と言う風に、僕などは幼稚なままでそういう風に 理解してしまいます。僕の考えなどタンポポの種の様に軽いものなので、吹けば飛んでしまうもので、宗教 からもお断り、と言われそうです。まあ多くの人は、神のために生きるということを、考えずに済ましている 時代と場所であるでしょう。 話がずれました。 >そして私の中にもある信仰と赦し >つまるところ十分に頼ることが出来るような意志の構造 この部分について感想を言ってくださったのですね。 自分に頼れれば、信仰も自家用にできる。そんな自我もあっていいし、それがぴったりくる人もいるかもしれない。 そんな気持ちを持っていました。こんなにまじめに感想をいただけて、とてもうれしかったです。 まだ言いたいことは多くあるのですが、上手く言葉にできないのでこの辺で。
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