作品を読む
自分の言葉は他人の言葉
自分が発する言葉、つまり書いたり話したり考えたりすることにオリジナリティは存在しない。それはすべて他人からの集積だからだ。 >ことばの刻みは 他人の顔で しかもいつかの私の顔だ この最終連の末尾で、他人から一周回って「私」の顔と表現されるところが妙である。語り手は「僕」から「私」へと変化し、自分自身も他人たちの一部として還るのだ。簡単に言ってしまえば、自分も他人の一部だよねってことだが、ここでは語り手が一人称内で変化することによって、その還元がより自然に行われることになる。 己の言葉が他人からの言葉で成り立つならば、それは当然、思いもよらない、害になるような、鋭利なものも含まれる。 >ことばの刻みの断面は 黒曜石の濡れた色 言葉は、自他共に人を傷つける力を持つ。それは「断面」と表現されるように、ほんの少しの部分、エッジのようなところでさえ、である。 「僕」はそれを吸い込まないよう(読んだり聞いたりしないよう)に注意している。 しかしそればかりではだめだ。前述のとおり、自分が発する側でもあるから、 >だから僕は僕の中から 僕を漏らさぬべきだった このように自制しなければならない。 作者は当然、作品を書くにあたって、言葉を使っている。そのなかにギラギラしてどす黒い、黒曜石の濡れた色はなかっただろうか。少なくとも私には感じられなかった。作品自体が、作者の言葉に対する意識や姿勢を語っているのである。 このような作品が生まれることによって、黒曜石の濡れた色を世界から消していけないだろうか。それは無理な話かもしれない。しかし、「黒曜石の濡れた色」との言葉自体が、言葉のエッジを丸くしているような気がする。だって「黒曜石の濡れた色」なんてすごく良い響きじゃないか。
自分の言葉は他人の言葉 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2374.5
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2020-10-29
コメント日時 2020-11-10
よい選評、よい詩に出会えた気がします。 言葉とはどこからくるのか、言葉はどうやって生み出されるのか。その遠い場所に思いを馳せて、言葉を生み出したい気持ちがあります。しかし、どうやっても自分のエゴや限界を通してしか、表現ができないもどかしさを常に感じます。 この詩の中に出てくる「僕」は、私のそうした悩みを共有してくれる存在だと気がつくことができました。 どうやったら、純粋な、それこそ「黒曜石」のように真っ黒で純粋な言葉を生み出すことができるのでしょうか……。
0拙い批評に目を通していただいてありがとうございます。 対象とさせていただいた作品を、私が誤読している可能性が大きいため断言はできませんが、自分の言葉と思っているものは、実は他人からの集積物であるから、大塚さんの仰る「自分のエゴ」は他人のエゴでもあると思います。 話は変わりますが、私の別に書いた批評文で、「自律した言語体系」というものの多くが、他人からの集積物であると考えられます。逆に、「身体が感知するもの」はまだ言語化されていない(できない)領域なので、大塚さんの言う「純粋」(間違ってたらごめんなさい)な言葉はそこから生まれるのではないかと感じます。
1批評ありがとうございます。自分の書いた文章について、他の人が書いたものを読むことはとても嬉しいです。 批評への感想ですが、私がこの詩を書いたときは「他人の言葉は実は自分の言葉だ」、という意識で書いた記憶があるのですが、rさんの批評には「自分の言葉は実は他人の言葉だ」という見方が書かれていると思います。誰かから受け取る言葉も、さらに誰かに発する言葉も、実は全部自分の中にあるのだ、という意味ですよね。私の詩についてrさんに書いていただいた文章から私が感じたことですが、これは面白いと思いました。
1こちらこそ、他の方の作品の批評などおこがましい限りのことをしてしまいましたが、書かずにはいられないキッカケをくださったことに感謝しています。そして喜んでくださり何よりです。 言うまでもなく、言葉のやりとりは、コミュニケーションを支える大切なものでもありますね。傷つける言葉というよりも、その奥にある感情を減らしていきたいですね。
0「他人の言葉は自分の言葉」「自分の言葉は他人の言葉」そうか、それらは裏返しだったのか。と気がつく。単純なことなのに、よびなさんのコメントで初めて気がつきました。 私が言った「純粋」は確かに身体に近いところにある、リズムや感覚に基づいている気がします。表現ではそれを目指したいと思っていますね。 しかし、「自立した言語体系」という言葉も面白くて、言葉がそれ自体で自立して文法や語幹で新しいものを生み出すことができるならば、自分のエゴを介していないという意味で純粋さがあると思います。 身体に近いところでは、意識が届かない意識以前の純粋さがあって、言語そのものに接近すると超意識的な純粋さがある気がします。 そして、その純粋さは円を描くように、つながっている気がします。
0私の書き方がとてもわかりにくいせいで、誤解を招いてしまったようです。 「自律した言語体系」というのは、身体が感知する以前に、既に言葉として存在してしまっているものです。変化したり、成長するものではなく、すでに完成されていて、動くことのない言葉です。ただ、私たちの感覚とはかけ離れてしまっていることが多いので、「自律した」という(もっと良い表現があるのだと思いますが)名前を私はつけています。 たとえば今この瞬間、私達が五感を通じて感じていることは無数にあるわけですが、それを全て言語化するのは難しいわけです。だから、既成の言葉でとりあえず語る。それは別に良いとか悪いという話ではありません。 作品をつくるにあたって、この「自律した〜」は、わかりやすさや、勢いやリズムを作ったり、良い面もありますし、これを使わないことは無理です。 しかしほんとうに良いものは、そこからではなく、身体が感知する、身体性から生まれてくるのだと思います。
0>自分が発する言葉、つまり書いたり話したり考えたりすることにオリジナリティは存在しない。それはすべて他人からの集積だからだ。 >ことばの刻みは 他人の顔で しかもいつかの私の顔だ 上が批評 下が作品 上を読んでから下を読むと 下の切れ味が増したように 下を読んでから上を読むと 下の不透明さが補正される ベクトルは微妙に上下で違う しかし両者が醸し出す力学は 不思議に相補的で強固なもの
0