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「名前」禁止令
"名前" は便利でしかも不滅のように思われる。 ここにある「名前だけくるくる踊って覆いかぶさる」という詩を読みながら、それをふたたび考えていこう。 >名前だけくるくる踊って覆いかぶさる しょっぱなから脱線するのだが、筆者はちょっと詩の名前について敏感になっている、 タイトルと詩文の距離ということを カオティクルConverge!!貴音さん さんが選評で述べられていたのを読んでからだ。 無題という問題があると思う。詩を書いたあと、それにタイトルをつけるということは、 たくさんの詩があってそのなかの特定のひとつを識別するしるしをつけるということに類比できるが、実はこの行為は詩にとっては無題であるのと変わらない。 タイトルありきでつくられなければタイトルのある詩ではないようだ。実際、筆者もタイトルをつけるときあまり迷わず、自然に詩の方から特定してくるという感じがある。 ・・・たぶん今、筆者はだいぶレベルの低いことを書いている。時を戻そう。 筆者はこの連は不要か、最後に加えるべきだったと考える。作者はタイトルを含めたままコピペしてしまったのだろうか。 はじめに「僕」という主観の視点を置くことでより可読性が増すはずだ。 ちなみに、この種の『僕』とは部分的に作者と異なるか部分的な作者であることが常であり、よって明らかに端的な作者ではない。 いいかえると、 "誰の人生も書かれたものではない" 。 ここに一人称で詩を書く困難がある。でも、今のところ筆者はこの方法でしか詩が書けない。 第二の理由は、単に、タイトルと重複しているから。 >僕の前の人は点数付きの名簿を持って >白い怒りを吐いている、蛍光灯みたいな >べったりした光が照らして、顔に汗をかく ここで作者はいくつか技を使っている。 「白い怒り」という表現について、筆者は「僕」の「前の人」に対する無関心を読み取った。(きっとそれは単に「僕」には「前の人」が端的に見えているからだ。) 「白い」が「蛍光灯」を導き、「べったり」が「汗」を導いているといった手法について、筆者はフロウが生れていいんじゃないかと思うが、それぞれが単独で用いられていたら無意味に終わっていただろう。 名簿を持ち出してくるのは、最高。 >眩しさを恐れるのは獣であるが >果たして人は「獣よけ」を照らし続けるのであった 学校の教室の一番前の蛍光灯には黒板をよく照らすためのおおいがしてあって、それは筆者に「ハエよけ」という言葉を思わせる。 もしや「点数付きの名簿」とは先生の出席簿のことか、わからないがとにかく言えることで注目すべきはここで作者は道具の "名付けが許されない時点" の姿を描いている。 しかもここには名付けの時点が過去現在未来を通じて唯一であるといった退屈な思想はみられない。 「僕」は目に見える「獣よけ」の下で、目に見えない「獣」にあこがれ、それを妨げていて目に見える「人」を嫌悪している。 だから思うに、作者は「獣」をもっと印象づけるよう演出すべきだった。 あと、この「人」は実質人ではなくて「僕」なのかもしれない、こういう読みは世に溢れているので書いていて嫌になるのだが。 ※ "見えるもの" に対する嫌悪と "人" に対する嫌悪が峻別されなければならないのは、見える/見えないの対立と人/獣のが違うのと同様にそうだ。また、見える/見えないの対立というのは筆者の引いた補助線で、正確には美/非美の対立のこと。ここでどんな補助線を引くかは作者の美学とのズレを考えなければならない。 >名前だけくるくる踊って覆いかぶさる >幻覚は光によって熾きる(闇による幻覚はない) タイトルにもなったこの一文は、意味が全くわからないのにかかわらずめっちゃいい、と感じさせるパワーがある。 それにしても、それにしてもだ、 作者は "見えないもの" のなかでも "名前" を選ばなければならなかったようだ。 美なるもののなかでも "名前" が選ばれなければならなかった。 その理由を考えることこそがこの詩自体のパワーを決めるので、重要な考察だ。 作者はその名前にまで "名" をテーマにすることを貫いているので、重要な考察であるべきだ。 しかし、その実、 この「名前」は便利だといわれ使われている!これはかなり危険なのではないか?詩が「名前」に飲み込まれようとしている。 ここでの「幻覚」は詩の源泉としてのそれではなく、作者は何も見えない「闇」のなかの事実を書くことを宣言しているように思われる。この言い換えはあるべくしてある。 >光速の分子は踊りながら貫いている たぶん よびな さんの詩作の方法は筆者のそれと似ていて、気に入った文章を貯めておいてそれが連なりはじめるのを待っているのだと思う。 いいかえると、たぶん、われわれは "麻雀詩人" だ。 >あらゆる動きのうちで美しいものが踊りと呼ばれる 最後に踊りという現象のネーミング(覆いかぶせ)をしてこの詩は結ばれる。名付けが許されない「名簿」との対比が素晴らしい。 やはり「僕」は見えないものの(不可視な!)動きだけが美しいかのように書いているように見えるが、作者の美学はわれわれのあずかり知らぬことだ。 ネーミングはディフィニションの意味をはらんでいるので、優れた名付けを行う詩は新しい語彙項目を生んでしまう。 では、この詩はどうか?ここでは "名付け" そのものが名付けられようとされる、循環定義が行われていて、非常にいやらしい。筆者はこれはズルだと思う。 第一には、 "名前" をテーマに据えたばかりに、その強い印象に作者の主張はかき消されてしまう。 第二には、 "名付け" の循環定義という詭弁が熾きてしまう。 このような困難がある。 よって、詩人はもう二度と "名前" を使ってはいけない。 参考:「【お知らせ】5月選考結果発表-フォーラム」( https://www.breview.org/forum_blog/archives/1005 )
「名前」禁止令 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1731.1
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作成日時 2020-07-17
コメント日時 2020-07-31
批評ありがとうございます。このような種類の作品があることを知らず、読み飛ばしてしまっていました。 鳴海幸子さんの批評と、僕がこの詩を書いた時の意図をいま照らし合わせてみると(それが自分の詩への批評の正しい読み方なのかということは分かりませんが)、全体の抽象的な意味は大体僕の思っていることと同じだと思いました。そこから表現の具体的に表すものになると、僕が想定していなかったような意味まで汲み取られていて参考になりました。 「獣」というのは美しいものでもありますが醜いものでもあると思っています。「獣」は実は人間の側にもあるものだと思っていて、例えば犯罪者など、それも倫理に逆境するような、万人に人間扱いされないような、まさに倫理という「言葉」によって断罪されるもの、があります。人は言葉によって断絶してしまうことがあるように思うのです。獣はますますその「眩しさ」を恐れて闇へ逃げていきます。それがどうか、ということまでは言えませんが僕は詩にそう言ったことを書きたいと思っているかもしれません。「言葉って全部何かの名前なんじゃないか」ということからこの詩を書いたので大体そのような意味です。
1ああー、わかるわ。 いや、わかります。 ありがとうございます。 そんだけ、ふぁいと。
1自分の詩を読み返していて思うところがあり、どうしても気がかりなのでもう一度コメントさせていただきます。 「白い怒りを吐く人」への無関心を読み取った、とのことでしたが私は 「白い怒りを吐いている、蛍光灯みたいなべったりした光が照らして、顔に汗をかく」 までをセットのつもりで書いたのです。つまり前の人が吐く、蛍光灯のような白い怒りのべったりした光に照らされて、顔に汗をかいているのは僕です。怒りが光なのです。 タイトルに関しては小説など表紙にタイトルが書いてあって、本文にはあまり干渉しない感がありますよね。僕としてはそのような感覚です。 人間は必ずどこか獣であるのに、なにからなにまで点数付き名簿なんとかなるだろうと考えられている感がありますね。 かっこいい文章を書くという快感が創作の目的でありたいです。 それから、そうです。もしかしたら言葉の先に「詩(文学?芸術?美?)」があるという意識を僕は持っていますし(あらゆる芸術は近似値であるべきです)、この詩は名付けへの名付けだ!と言われるとその通りなのですが、それを認めてしまうと詩的な観点からこの詩が死んでしまうような気がするので、ノーコメントにします。
1詩の死を知ること、強いてあげるね。 読みました、わかんねえわ。 いいえ、わかりません。 あなたは何が気がかりなんですって? でも、そういうものこそ僕がやりたかったことなんですよ。詩はただあるだけでは言葉に過ぎず、読まれなければ詩ではないが、読まれた瞬間に詩は亡骸になってしまうかのように見える。僕は、かの詩をほとんど殺せるかのように思ったので、それが動機です。 問題は次の段階で、詩は作者のプライドにかけて回復するに違いなく、僕はほとんどバラバラに分節化した詩ちゃんを、それこそ評者のプライドにかけて完全に解体しなくちゃいけなくなる。そういう闘争が見たいのにやってないから、僕はプレイヤーになったんです。それが動機。 ははは、あなたは気がかりになるべくしてなったんですよ。 (ありがとうございます。) というわけで、全ては冗談! そんだけ、ふぁいと。 P.S. あなたは明らかに「僕」のことは見ていて、獣だと分かるが、もしかしたら人を見ることを自分に許さない。人は獣じゃないから吐くのでは?ただし、これは思想であってプライドの問題じゃないので、僕たちは会話不能に陥ってしまうかもしれない。
これ以上の返信は野暮ですね。はい。 ええ、芸術は誰かが殺さなきゃいけません。芸術が現実への殺意から生まれたものならば、芸術も殺意を持って受け止めて然るべきでしょう。殺されずに神棚に祀り上げられたら芸術じゃありません。 人間は「反」獣ですが「非」獣ではないと思っています。僕の思想、というか悪癖ですが(こんなものにいつまでもつきあっていただけるとは思ってません)。
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