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ファイブ・ペニーズ
ベンチ 耳を澄ましていた ただ耳を そっと じっと 動かずに 夜更けの三時に誰かが夕食をたべるときも… そっと …ただ その噴水の音だけを聴いていた。 埋めたい距離を隔てた 目の前にある 《こちら》 に、 彼女が、時折激しく語りかけるから。 リエゾン 恐ろしく近い場所 離れ離れの者たちの屋根の下 朝の ほとり 何かを通わせたい僕と君 は、 他には絶対に居ないひとり きり の ふたり 悲しいほど遠いところまで の 繋がり オレンジの道 甘橙(Orange)売りの手押し車が一台 アマダイダイを山と積んで通る。 陽射しの暑さは、とうに限界を超えている。 男は立ち止まり、干枯びたオレンジを一個取った。 それで、ほんの少し渇きを癒すと すぐにまた、ふたたび荷車を押しはじめる。 だが男はそれから山とあるオレンジに一つも手をつけぬまま、 猛暑の道を黙々と歩きつづけた。疲労と頭痛で意識が朦朧としてきて、 もう、荷台からオレンジが一個、また一個と道に落ちてゆくことにも 男は気づかずに黙々と歩いた。 「このまま何処かへ辿り着かねばならない」気がして。 マグネシウム 女性の浴衣姿は美への憧れを呼び覚ます。また線香花火には詩への誘惑がある。その二つを一挙に独り占めできた幸福な瞬間が、かつてあった。まだ私がとても幼い頃のことである。 女の人は二十ニ歳くらいの、当時の私から見ればずっと大人のお姉さんだった。その女(ひと)が持つと不思議なことに、短気な私とは違い、線香花火は延々と落ちることなくいつまでも続くのだ。私は、浴衣の美人が横向きにしゃがんだまま、白い指先をあげて摘んでいる線香花火が、じぶんの持っているものよりはるかに、妖しくもあり、激しくもあり、哀しげでもあり、そして、それが永遠に続くかのようでもある、その光景に宿り咲いて生きている美に撃たれた。 でもそのとき、私には、笑顔と、瞳でしかそれを表現ができなかった。すると、その女(ひと)は、「こんなに続くの、わたしも初めてなの、不思議ね」と言い、私の眼をみた。見つめ合ったまま、私は、そのとき初めて、理由もなく大人でないことがひどく残念な気がした(十歳にもなってないのだから当然だ)。そう感じていながら私は、目の前で大きく見開かれた魅力的な、女らしい瞳に、ただ精一杯子供らしい笑顔を見せていた。そして、そうしながら、相手に、私がこどもであると、あらためて思われたことを察した。 《あらゆる火花のエネルギーを吐き尽くした火球は、もろく力なくポトリと落ちる、そしてこの火花のソナタの一曲が終わるのである。あとに残されるものは淡くはかない夏の宵闇である。》 線香花火の最期を寺田寅彦はそう締めくくる(「備忘録」『寺田寅彦随筆集第二巻』岩波文庫)。線香花火の奏でる音楽に比べて、洋風の花火がいかに粗雑なものであるかに触れたところでは、 《近代になって流行りだした〔…〕なんとか花火とか称するものは〔…〕なるほどアルミニウムだかマグネシウムだかの閃光は光度において大きく、ストロンチウムだかリチウムだかの炎の色は美しいかもしれないが、始めからおしまいまでただぼうぼうと無作法に燃えるばかりで、タクトもなければリズムもない。それでまたあの燃え終わりのきたなさ、曲のなさはどうであろう。》 「ナントカ花火」の華のなさを嘆いた文の終わりは、こんな風に結ばれている。 《われわれの足元に埋もれている宝をも忘れてはならないと思う。しかしそれを掘り出すには人から笑われ狂人扱いにされる事を覚悟するだけの勇気が入用である。》 サハラ 砂漠の三叉路 昼に炎の 夜に氷の 、立ち竦み迷う十代の俺 時折立っている墓を目印に 歩きつづけた 二十代 砂漠の舗装路を遠く 一直線の彼方へと… その道を遠く 遥か向こうから 陽炎を背に 駱駝に乗った男が やってくる あれは? 俺か” 水の入った金属の壺を、頭に載っけた美しい女のことを 想いながら男は、熱暑の砂地に孤立した涼しげな巨樹の影に休んだ。 ふと見上げると、そこは、 ぬばたまに群れた鴉の巣であった *
ファイブ・ペニーズ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1053.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2017-08-03
コメント日時 2017-08-23
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ファイブ・ペニーズ、この題名が喚起する借景のようなイメージ・・・親娘の情愛、悔恨、音楽への情熱、絶望と奇跡のカムバック、尽きることのない友情・・・に、作品がどのように関わっているのか。 五連構成で、ひとり、が耳を傾けるところから始まる。ひとり、が感じる〈埋めたい距離〉は、ふたりなら埋まるのか・・・そっと、じっと、といった促音が生むリズム、読みの呼吸に合わせた流れが美しいと思いました。 二連目、〈何かを通わせたい僕と君〉ふたりのリエゾン・・・2人でいるのに、あるいはいるがゆえに、さらに深まる孤独の影。〈居ないひとり きり/の/ふたり〉言葉を途切れるように配置していくリズム、ほとり、ひとり、ふたり、悲しい、遠い、繋がり・・・いの脚韻が緩やかに綴る余韻。 三連目、オレンジ売りを、なぜ〈アマダイダイ〉と読ませるのか、疑問が残るが・・・才を持て余しながら枯渇させていく(他者に手渡せない)男の旅路を描いているような、寓意性の強さが印象に残りました。 四連目、音楽でいえばクライマックスに当たるところに挿入された散文詩・・・。〈美への憧れ〉と〈詩への誘惑〉がテーマの章ということになるのでしょうか。初恋というよりも初美、とでも呼びたいような、早熟な体験の記憶、大人の女性と線香花火が作り上げる一瞬の美、そこに〈宿り咲いて生きている美〉を認めた、まだ10にならぬ少年。その記憶を、大人になった今、寺田の文章などを援用しながら、理智によって確かめていく過程が描かれているように思います。埋もれていた、美と遭遇した折の記憶を思い起こす行為、それが詩情を見出す行為である、そんな詩論的なものを感じさせる部分。 五連目、オレンジ売りと同様、寓意性の強い連。四連目との関連でいえば、少年期から青年期までの歩みを、詩情と遭遇する過程にまで純化させた上で、砂漠で〈水の入った金属の壺を、頭に載っけた美しい女〉に遭遇するのを心待ちにするイメージに凝縮して描き出す、詩空間の作り方が美しいと思いました。象徴性の強さで読むなら、鴉は死の暗喩なのでしょうけれど・・・美と出会う時、それは死の瞬間である、というような想念が背後にあるのか・・・最終行のイメージの飛躍が、いささか唐突な印象も持ちました。 一連目、二連目のプロローグというのか、導入部分と、題名も含めた全体が有機的にからんでいるのかどうか・・・一、二連は、日常で感じる孤独を、ひとりとふたり、その質感を変えながら、音楽的な言葉で捉えた印象。三、四、五は、寓意性や象徴性、思弁性の強い断章形式・・・この構成そのものは非常に魅力的だと思いましたが、ファイブという題目にあわせての五連なのか、映画のイメージと重ねているのか(だとすると、かなり無理もあるような気もしますが)題名の喚起力の強さが、うまく全体に作用しているのかどうか、その部分に関して、私にはうまく読み込めない印象が残りました。
0こんにちは。 短編で刻んでは、搾り出す詩言とも感じましたが、舞台背景は雄大でもあるし、深遠でもあろうかとも思いを馳せました。描写対象としても、優美な叙情を傾けていた温感のある孤独が映しだされていました。立体的にも奥行きを深く感じる叙情と言いますのも、様々な角度からの丁寧な叙述があり、なお時間軸について計算された焦点の移ろいが孤独の儚さを味わい深くさせていたと思います。この詩では、温感についての叙述が美しくもしていました。敢えて、太陽とかたぎる情熱と言う熱量を多く感じさせるような温感の描写が控えめになされていたことが、線香花火の温度を切なく繊細にもさせてもおり、素敵でした。
0まりもさん 読んでいただき有難うございました。 >題名の喚起力の強さが、うまく全体に作用しているのかどうか、 >その部分に関して、私にはうまく読み込めない印象が残りました。 作者から解題してみます。 題名「ファイブ・ペニーズ」に籠めた作者のイメージのうち、 大きなものを取り出せば、 次の二つになります。 (1)これは小銭の集まりに過ぎません、という謙遜です。 もちろんアイロニーですが、 《金銭的価値のない小品に過ぎません》というのは、金銭が神である現代にあってみれば、 時代へのアイロニーを同時に含んでいます。 また、この(1.2.3・・)という構成を採ると、だいたい識者の方がきまって言われるのが「全体としての統一感がうんぬん」という事なので、それは(=バラけてるよ)ってことですから、それを事前に見越して、ペンスではない ペニーズ で、《はい、バラけてる硬貨ですがそれが何か?》という意味合いも籠めてあえて採用しています。ただし、バラけてはいても、同種の硬貨であるように、バラけた話のようでも、同じ作者が書いてる以上、統一があるに決まっています。それが読めないのでは、作者のことが解らなかった、ひいては作品が解らなかったと言っているのと同じですよ、という反骨精神も籠められいます。 それでは、いったいどんな統一があるのかね、と問われれば、それは、 《人生はアイロニーに満ちている》ということ。それが全編を貫いていることは言うまでもありません。 5篇ある内の、最初の話だけ補足(要らないとは思いますが)しておくと、動けないベンチと、やはり距離を縮められない艶やかな噴水が恋をしています。互いの目の前、すぐ近くにいる相手であり、強く愛し合っているのに、それ以上傍に寄り添っていくことができない。皮肉な関係に置かれています。 タイトルが、横文字でバタ臭いと思われるかもしれませんが、これも、内容との関連で、第4篇が日本情緒のある話で、あとは、様々にバラけている。これは、多国籍というか、無国籍な感じにしたかったからです。自分の少年時代の実話を出したのも、寺田寅彦という懐旧感のある引用をしたのも、これは、地理的にも、時代的にも(敢えて)バラけるように、ということで、それは、つまり、普遍性を志向しているからです(こう言うと硬直的な脱構築派には驚きかもしれませんが)。 何処でも、何時の時代でも、《人生はアイロニーに満ちている》というのが(この私の)実感ですから仕方ありません。 その意味では、あまり苦労のない人生を生きているような現代の読者は、この作品を貫いてるものが読み取れないかもしれませんね。 作者が籠めた諸々のイメージの内、大きなもの2つ、のうちの一つ目が、何故か、だいぶ長くなってしまいましたが、2つ目についても長くなります。 (2)これは、まりもさんご指摘の通り、有名な映画の題名とも掛けています。 映画の主人公は、非人間的な成功よりも、人間性を選んだことで、落伍者のような境遇のなかで人生をすり減らしてしまう。そしてそれは、どこまでもありふれた絶望でおわるかに見えた。 しかし、最後、主人公は祝福される。世に言う成功を自ら捨ててしまった男が、通常では得られない家族や友との深い絆を手に入れる。つまり、《人生はアイロニーに満ちている》。 本作の場合は、確かにHappy Endingではないカンジではありますが、これもアイロニーなのであって、映画のエンディングを踏まえた寸止めの終わり方になっています。 「鴉」ですね。 もちろん、「死」のイメージもあります。でも、それで尽きるわけではありません。私が使う象徴は、ただ単純な象徴ではありません。一定の解釈を許さない強度のある隠喩と反対でありながら、多様さにおいて似てもいる、そんな、《靭やかな象徴》です。それが、わたしが作品で使う象徴です。 「鴉」 かつて、私がまだ20代のころですが、IT関係のある特殊な専門分野だけを勉強するために、新宿の学校に通っていた時期があります。花園神社の辺りで、ゴールデン街を抜けていくのが通学コースでした。ホームレスが何人も寝ていて、鴉が何羽も列をなして、通勤する人達の顔を覚えるように見ている中を、サラリーマンの行列に混ざってそそくさと早く歩いていく、そんな毎日でした。ある朝、交通量が増え始めた時間、見るからに遅刻したと思しきサラリーマンがひとり、点滅が終わりかけた信号に構わず横断歩道に突っ込んでいきました、急ブレーキとクラクションの轟音がして完全に大惨事だと思いましたが、靴が片方脱げただけで、その人は横に滑って助かりました。鞄を車にみごとに踏まれてましたが。 その時、 私が驚いたのは、車でも人でもなく、その轟音の一件を一部始終観ていた一匹のカラスでした。鴉は、直後、その被害者の真上を大爆笑しながら飛んで去っていったのでした。普通の鳴き方とは明らかに異なる、人間の大声の大爆笑ですね。それを上空から被害者に浴びせかけて、飛び去っていった。 そのときから、わたしには、鴉=《都会人の象徴》なのです(下衆な現代人の象徴と言ってもいいかもしれません)。 もちろん、私の経験の中にあるイメージを、読者にそのまま読み取れ、とは言えませんから、微妙に異化しか感じが残れば、詩はそれでもいいかな、と思ってもいます。 ただ、本作のラストでは、「鴉」は、《現代人》を象徴しています。 現代人がみな下衆なわけでもないし、鴉にもいい奴はいるでしょうから、わたしも、鴉=悪とは単純に考えませんが、そういった全てのイメージを含んだ、本作のラストは、その寸止めによって、鴉と、映画で最後に友情の象徴として登場するルイ・アームストロング他の友人達が対比されて、作者から読者に、問いかけられているわけです。 本作第5篇の主人公は、鴉にまず当然「死」を予感しつつ、しかし「仲間」かもしれないとも柔軟に妄想(映画ですね。鴉次第です)しなくもないが、しかし、さて現実はどうだろう? というわけです。 本作の主人公には、どうせこんな人生なら、せめてこの身を鴉のエサにしてやろう、という友情(?)もなくはない。それほど、この主人公も語り手も作者も、鴉に期待していない。そういう心裡と諦観のうちに、寸止めして問いを投げています。 現代人への暗い諦めの予感が漂っている。しかし、まだ終わってない感も残って、漂っている。 そこで、中途で終わっている。では、もし、6が続くとしたら・・・ そのイメージに接続するのは、ゴーギャンをモデルにした、モームの『月と六ペンス』の世界です。(花緒さんは良い感覚で嗅ぎとったなあと思います) 私は、シュールとかキュビズムより、一枚の画布の中に、並行にいくつもの宇宙が描かれる、ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』に興味があります。隠しモチーフとして意識(無意識ではなく)しています。ただ、そっちはあくまで絵画なのでどこから鑑賞してもいいですが、文章だと音楽のように、鑑賞する順序がどうしても構成上できてしまうので、1.2.3・・のようになります。 ただ、6で絶望してしまうその、一歩手前に立戻って、というか、5に、巻き戻して、現代人というものと直面してみる、というのがこの作品のもう一つのラストのイメージです。 本作のラストは、映画のラストと対比をなしていて、 現代人と、美しい、あるいは、深い絆を持つことはできるのか。それは、モームの小説(ゴーギャン)のような最期ではなく、巻き戻して、問い直してみたら、 もう一度、絶望的ながら直面してみたら、 という、そんなイメージですが、抽象的に現代人というのを考えているのではなく、 現に、交わる、具体的なその人、その人、(この場なら、コメントを交わす一人一人) が現代人なわけです。そういう人達に、いまも、私は、この人生の途上で、直面している わけです。で、現在のラストシーンの先がどうなるのかは、だから、まだわからないわけです。 釈迦は、「人生は苦である」と言い、死を前にして「この世界は美しい」と言って死にました。 私はこの作品で、《人生はアイロニーに満ちている》と言っています。 この先が一体どうなるのかは、だから、まだわからないわけです。 なので、この作品を釈迦が読んだら、ラストにこんな一行を書き加えて読了してくれるかも知れません。 《その後、一人の砂漠の旅人が見上げると、真っ黒な鴉の群れの中に、一羽だけ、全身が真っ白な鴉が樹上に留り、美しいうたを歌っているのを聴きました。》 そして、現実はそうでないかも知れません。
0花緒さん 漠としたヒントから、「月と6ペンス」を想起されたのはさすがでした。 本作5篇め『サハラ』の「俺」の様な、作中世界に拘束される《一人称》の語り手は、真実を知らない観察の主体ですから、ユートピアが鴉の巣であっても、そしたらまた、それならまた、そこからまた、「俺」は出発するしかないですね。
0鈴木 海飛さん そういえば、『5つの銅貨』も、『ストレイト・ストーリー』も、実在の人物の逸話を元にした話ですね。 芝刈り機に乗って大急ぎの旅をする そのDryで、Wetな旅姿が、 「一番最高さ」 と言える感性をどんな時代であろうと持っていたいと思います。 よきコメント感謝します。
0竜野欠伸 さん こんにちは。 美しく、かつ、きちんと読んでいただいて、とても嬉しかったです。 私は、〇とか×じたいは、左程気にしませんが、書かれているのが 均整のとれた〇なのか、×なのか、を興味深く読ませていただきます。 その人が、丁寧に読んでくれたかどうか、評者の認識を誠実に、そして、 やはり丁寧に語ってくれているかどうか。ですね。 竜野さんのコメントに、その両方の丁寧さをを感じることが出来たので 作者として心からお礼を申し上げることができます。 >温感について 「描写」と《展開のリズム》は、相反する関係があるので、なるほど、と思いました。 私は性格的に短気な方ですから、描写を厚くするより、展開に速度を持たせるのを好みますが、 いちど、すごく厚く塗ってみようかな、と、ちょっと面白課題のヒントを頂けました。感謝
0蛾兆ボルカ さん 映画の『ファイブペニーズ』は、失意からの飛翔ですが、本作品では、失意で終わっていて、飛翔の部分がない(あるとすれば、鴉の飛翔)。なので、おやおや、と思わせますが(思うのはちゃんと読んでいるからこそです)、敢えて、作者が失意で切っているのは、小説『月と六ペンス』への暗示であり、同時に、その直前でのストップモーションだから、でした。 『月と六ペンス』が持ち出されるのは、ペンスとペニーという言葉の上のヒントからと言うよりも、むしろ、アイロニカルな悲運の《失意》で幕を閉じる、そこに、《芸術家の運命・詩人の運命》ということを感じとり、そこから、モームのあの小説が想起される、という自然な連想の流れがあるからです。 >タイトルは、「6ペンス(現実)の1ペンス前に」という含みに解しました 最後まで読むと、題名に、そういったニュアンスが隠れているのが解る人にはわかるだろうな、という感じでした。 『月と六ペンス』にいく一歩手前で、映画の『ファイブペニーズ』 でありたいけれども、・・・どうなんだろうね現代人、そして詩人の運命よ、と。 わたしには、《詩人の運命》というのは、非常に重いテーマなのです。 思い浮かぶ作品の系譜も多いですね。『月と六ペンス』以外にも、中島敦『山月記』、『老人と海』もそうです。よく、知られているのは、『フランダースの犬』のラストシーンでしょう。 ですから、 >いつか砂漠のオアシスで一緒に美味しいジュース飲みたいね。 というのは、定休日で閉まっているお店を、親切なご主人が出てきて開けてくれた ような感じの潤いのコメントでした。 * 私が敬意をもって最も憧れている詩は、河井酔茗の「ゆずり葉」です。 いつか、私も、倒れているマッチ売りの少女が思わず起き上がるような詩を 書いてみたいなあ、と思っています。 蛾兆ボルカさん 竜野欠伸さん 鈴木海飛さん 花緒さん まりもさん ありがとうございました。 * 追伸 (わたしは、正解はこれです、という意図で、解題していませんので、面白い解釈はすべてOKだと考えています。ー念のため)
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