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うちで踊ろう
6月16日 月曜日 今日は私の誕生日でした。外はいい天気でしたが、一日中家にいました。大好きなお人形遊びをしていると、お父さんが突然ペンギンの人形に声をあてて、「僕のことを乱暴に扱わないで」と言いました。私が悲しくなって号泣すると、目尻からは逃げるように白い綿があふれていきました。 6月16日 火曜日 今日は私の誕生日でした。お母さんに塗り絵の本を買ってもらい、それで遊びました。私が女の子の肌を黒色で塗ると、その子は「やめて!」と叫んで私のクレヨンを避け始めました。私は自分の腕に名前ペンでその女の子の絵を書きました。彼女はそれを本の中から黙って見つめていました。 6月16日 水曜日 今日は私の誕生日でした。とても暑かったので、私の好きなスイカを食べました。面倒だったので、種は出さずに飲み込みました。そうすると、お臍から途端に芽が出てきて、私はそうやって、自分がまた一つと大人になったことを実感するのでした。 6月16日 木曜日 今日は私の誕生日でした。好きな音楽を流して踊っていると、隣の住民が家の扉を蹴り飛ばしました。私は、扉だったので、とても痛くて泣いてしまいました。私にとって私の家だった場所は、あなたにとっては何だったのでしょうか。考えてもわからなくって、私は音量を上げてそれを隠そうとしたけれど、そうしたら両隣の住民が私を蹴り飛ばしました。 6月16日 金曜日 今日は私の誕生日でした。パソコンを開くと、インターネットのお友達が私のことをお祝いしてくれていました。私は彼らに誕生日を教えたつもりはなかったのですが、どうやらプロフィールに自動で表示されていたらしく、彼らは私ではなく、プログラムを祝っているのだろうと思いました。 6月16日 土曜日 今日は私の誕生日でした。体の中の血を入れ替えようと思って手首を切っていますが、なかなか血が出てこなくって、私、みんなに遺書まで書いてきたのに、死ねなくって、グロくなった手首から目をそらすと、遺書が、わたしの足先から永遠に続いていて、それが、止まることがなくて、何か、どうでもいいものばかり通り過ぎていく気がして、五回くらいゲロを吐いた。 6月16日 日曜日 今日は私の誕生日でした。外が雨だったので一日中友達とセックスをしました。彼が、私のことを突くたびに衝撃で声が漏れてしまうのですが、彼はそれを喘ぎ声だと思い、喜んでいて、かわいいなと思いました。彼が必死になっている最中になんとなく天井を見ると、そこからペンギンの人形や、黒くなった女の子や、スイカの芽や、家の扉や、プログラムや、遺書が、私のことを見つめていて、私は、それらが幻覚であることにもう気づいていて、私は、私が幻覚であることにもう気づいていて、泣きそうになりながら、こどもを妊娠しましたが結局泣きませんでした。帝王切開をしましたがそこには誰もいませんでした。
うちで踊ろう ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1942.0
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2020-06-04
コメント日時 2020-06-27
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 1 |
前衛性 | 3 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 1 | 0 |
技巧 | 1 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 2 | 1 |
総合ポイント | 10 | 4 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0.7 | 1 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 0.3 | 0 |
エンタメ | 0.3 | 0 |
技巧 | 0.3 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.7 | 1 |
総合 | 3.3 | 3 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
ノンフィクションです
2たもつさん的な、諸星大二郎がたまに描くショート漫画のような光景が、同じ日付で曜日だけ一週間分続いていく。 最後の方で幻覚だと気づいているものの、幻覚ではない現実がなんだか揺らぐ感覚に襲われてしまう。 木曜日の情景で私は扉になっているが、シャーマンの様に乗り移ってしまったのだろうか。 むしろ描かれたのはどこかの誰かに乗り移った記録なのかもしれない。 印象に残る作品でした。
0フィクションの作品を作るのって難しいですよね
0夢うつつさん、こんにちは。 毎日が誕生日。 最初の一文を固定して作品を作ると、 おおむねつまらなくなってしまう作品が多いように感じるのですが、この作品は面白いなと思いました。 >目尻からは逃げるように白い綿があふれていきました。 >そうすると、お臍から途端に芽が出てきて、私はそうやって、自分がまた一つと大人になったことを実感するのでした。 >帝王切開をしましたがそこには誰もいませんでした。 淡々と語られる口調はなんだか絵本的、メルヘンチックな雰囲気が全体に漂っている。 アニメーションにもなり得そうな作品で、読んでいて映像がすぐに浮かんできます。 その鮮やかさがこの作品を引き立てているように思いました。 >私は、私が幻覚であることにもう気づいていて、泣きそうになりながら、こどもを妊娠しましたが結局泣きませんでした。帝王切開をしましたがそこには誰もいませんでした。 「わたし」の不在を描いているこの一文。 性行為中もその行為に夢中になれず、涙も出ない、生殖としての機能も自分にはない。 まるで人形のようになってしまっている自分に対して、 「うちで踊ろう」という題が掲げられています。 ぼくは音楽がほんとうに大好きで、フジロックやサマソニなど何かしらのフェスに行くんですが、 踊りというのはひとりひとり全然違うんだなあということを思ったりします。 踊るというのは、とても自律的で、個人的、そして無意識な行為に見えます。 そして、踊ることは何かを目的にして行う行為ではなく、踊ること自体を目的としているんですよね。 祈りにも似たような踊るという行為は、もしかしたら生きることに近いのかもしれません。 気になるのは、作中の主人公は「うちで踊る」ことができているのかということでした。 それはぼくがとてもお節介だからなのかもしれません。 とにもかくにも、読んでいてちょっと切なくなる作品でした。 すてきな文章を読ませていただき、ありがとうございました。
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