夜雨、傘をさした父は地獄へ帰った。
漆塗りの碗をふところにして。
かの場所の吹きっさらしは
赤い砂で汚れているけれど
彼を憂うつにはしないだろう。
もろい涙は手にぶら下げた桶が掬うから。
僕らが横たわるベッドは血で染まり
二人の遊びが体を噛んで
飲み込んだのを教えてくれる。
腹の中へと入ってくるのは蓮の花。
そいつの茎はアリの巣を
根絶やしにするくらい丈夫だから
僕らが痴呆でも構いはしない。
楽園へ行こう、楽園へ行こう。
聖者の行軍が進む。
群衆のしゃれこうべを持って。
人はそれが独裁者の首だと
信じて疑わなかったし
それが自分自身の頭骨だとは
思いもしなかったが。
スズメが烏に銜えられて
青い体液をこぼす。
それがあまりに陰惨だったとしても
みんな無関心だから
どうせ何もかもが無為だから
別に悪いことじゃない。
体液が
こぼれ落ち
地面にじんわりと、じんわりと沁み渡る。
沈殿。沈殿。沈殿。
墓を目の前にする母はじき天国へ帰る。
そこでは錆びた看板に
「HAPPINESS SINCE 2020」
と書かれているだけだから
悲しいことは何もない。
僕らは汚れたシーツを洗い
裸にへばりついたDNAを
土葬するだけだ。
楽園へ行こう、楽園へ。
男性の根っこは神経を逆撫し
人を争わせる。
それでもアタッシュケースに入った証券は
所詮、燃えて灰になるだけだから
それよりは幾分かマシだろう。
楽園へ行こう、楽園へ。
楽園行きD51-F857が
僕らの腕に焼き印を刻んでも
それは切符代わりだから
仕方ない。
生ぬるい土砂は綺麗に掃除されて
胃の中へ。
喉に引っかかったピルケースは
腸へと落ちる。
幸せの車輪は
肺の底。
窓の外一面に見えるのは黄色い仇花。
汽笛の音が耳をつらぬき、煙は気管を濁す。
だとしても。
部屋の隅の荷物はそのままに
パソコンのフォルダも空のままにして
僕らが家畜やチリ屑同然に扱われても
楽園へ行こう。
さぁゆったり、急いで。
光の見える
楽園へ。
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 1867.6
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2020-04-18
コメント日時 2020-04-23
#現代詩
#画像
#縦書き
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 4 | 4 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 4 | 4 |
総合ポイント | 10 | 10 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 2 | 2 |
総合 | 5 | 5 |
閲覧指数:1867.6
2024/12/04 02時30分50秒現在
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これはコメント以前に僕自身が気にしていることなのですが、詩における「舞台」をどれだけ読んでもらえるのかが大切なのかなあ、と最近思います。たとえば子供たちにこの世界について語るとき、まず太陽があって、次に地球があって、ぼくたちが住んでいて、とここまでは順調だったとしても、地動説と天動説があって、とか、じつは地動説は昔からあったんだけどごたごたしてて、とか話しているうちに、意外とみんな興味を失くしてしまうみたいなんです。好奇心の効果がどこかで切れるのかな。 詩にもそんなことがあって、詩にしたいことに限って膨大な説明が必要になるし、それを読んでもらうのは、なんか大変みたいだと最近よく思います。「奥深さ」みたいなのって、案外シンプルにその説明パートの量ってだけのこともあったりするから、なんか、良い詩を書くためには「あまり読まれない部分」も必要になるとかいう矛盾がある気がします。というかあるんです、他の方についてはわかんないですが、僕に限ってはよくあります。(設定的であるよりも、開き直って説明的、または逆になんにも言わない方がいいのかなと最近は思うのですが、よくわからないので、こういうことに挑戦する詩はずっと書いてません。) という前置きをしてみると、この詩の場合は序盤が舞台設定的でやや重たいかなとちょっと思います。でも冒頭はズバっといってるのですが。でも舞台についての理解が何となく深まってきた効果なのか >楽園へ行こう、楽園へ行こう。 >聖者の行軍が進む。 >群衆のしゃれこうべを持って。 からの展開に馬力を感じます。まさにデゴイチがうなって動き始めるような、物語の前進を感じます。わかりやすくするために、僕だったらこのあたりのどこかに空白行を入れたかもしれません。しかし、そうすると逆に重たく見えるときもありますが。 それから「信じて疑わなかったし」「思いもしなかったが」という対句(?)だけでいきなり詩っぽさがアガる、他にもそういう行がいくつかあるのですが、不思議なワザだと思いました。 >楽園行きD51-F857が >僕らの腕に焼き印を刻んでも >それは切符代わりだから >仕方ない。 この部分とかも良いと思いました。こんなものがあってもどこにも行けやしない、と始め思うようなものだったとしても、実際、確かにどこかには行くものだ、と思います。 僕の場合は単純でキャラが動いてると物語も動いてる感じがすごくあるので、デゴイチの動作パワーがもう少し見たかったなと思いました。
0いすきさん、コメントありがとうございます!そうですね。この作品は「the father」「頂きへ」に続く敗北、家族三部作の結末であり、集大成でもあったんですけど余り評価が高くなかったですね。陰鬱な状態、身体状況を描き切ろうとしたのですが残念です。この詩は病人あるいは死の間際にでもあるような人が幻覚症状的に見る夢、幻想、願いといったものを描いています。虚ろな表情で決して幸せとは言えない楽園をそれでも求めるなんてなかなかに悲壮感があって良いでしょう? D51の躍動感が欲しかったとのことですが、確かにD51を選んだからにはもっとパワフルさ、全てを踏みにじり、蹂躙するD51のパワーのようなものも描いても良かったかもしれませんね。だが本旨はそこではなかったのです。詳しくは省きますがこの詩がなかなか人に届かなかったというのは思うところが少しあります。何れにせよ弾けたコメントを入れてくださりありがとうございました。
0三部作読ませていただきました。父の面影だけを追う身となっている者として、惹きつけられる前前作からの展開でして、是非何か…と思いながら、なかなか書けずにいました。「The father」も「頂きへ」も私には眩しすぎて、どうにも何かを伝えることはできませんでした。私には、ステレオ様がおっしゃる「陰鬱な」世界の方が読みやすかったようです。ただ、個々だと読みにくいと感じたものも、三部作を通すと、遠くを見つめている一作目、舞い上がるような二作目、地に這いつくばる三作目という展開の中で見ると、バランスのとれた世界の一部であったのかと感じさせられました。写真に関しては、確かにサムネイルですと爽やかですが、作品ページで見ると下部にある一種毒々しいとも思える多色に変わっている小石の部分がこの作品の不穏さに合っているようにも思いました。
0沙一さん、コメントありがとうございます。発想は本当に素晴らしかったですよね。私もそう思います。小説的な内容と詩の言葉がケンカ。私も一部把握出来るところではありますが、その点是非とも次作以降に活かしたいですね。サムネも効果として今一つだったかもしれませんね。しかし花はどれだけ美しく咲こうとも、花開こうとも、希望の象徴たろうとも何れ散るという点において、この詩に相応しいかと判断したのです。ご容赦を。沙一さんの『汽車』拝見しましたが良かったですね。急停車した汽車内における小さなドラマ、人の繋がりそして汽車がまた動き出した時の歓喜。時間の流れを感じさせる良作だったと思います。
0白川さん、コメントありがとうございます。三部作全て目を通してくださったのですね。ありがとうございます!。「the father」と「頂きへ」が眩しすぎるとの評、歓喜の極みです。さてこの最終作ですが私自身の陰鬱な身体的、精神的状況をこれでもかとばかり掘り下げた作品でもあるのです。だから「暗く重い」。その方が読みやすかったという評はある意味目から鱗でもあります。陰鬱でダークな音楽が時に心地よく響くように、白川さんには上手く作用したのかもしれません。この作品の成功ポイントは亡者に近い人物の幻視的状況を描き切ったこと。上手くいかなかったポイントはそれこそ陰鬱すぎたこと、同時に筆者としては含意のある「父は地獄へ、母は天国へ」という表現を納得させる形で読ませられなかったことだと思っています。まだまだ精進ですね。最後に石が毒々しい多色に変わっていること、よくお気づきになりましたね!これは偶然の賜物ですが、美しさの陰にある悲壮を表すのに最適だったと思っています。ありがとうございました。
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