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一粒の麦よ
埋もれた一粒の麦のことを 考えている 踏み固められた大地から 顔も出せず 根をはることもなく 暗澹とした深い眠りのなかで 郷愁の念を抱いているのか 夏天に輝く手を伸ばし 希望の歌がこぼれんばかりに 大地を豊穣の海へと変えた あのころを 冬天の下、霜枯れていく山里よ 幼き日に友たちと駆けた 黄金色の迷い路の夢も枯れて またひとり、またひとりと人々は去り 整然と均された荒野と鬱蒼と茂る緑が ただ広がっている 農夫よ何処に行ったのだ? わたしはかえりみる 縁側で眠るように座していた あの年老いた農夫を 節くれた傷だらけの手の厚みを あの埋もれた一粒の麦の声に その耳を傾けていたのか わたしには聴こえない どこで間違えたのか あの黄金も希望の歌も忘れてしまった 失くしてしまった わたしは農夫になれなかった無能もの 真実を求め麦酒を飲み 言葉のなかで一粒の麦をさがして 酔いつぶれていくのだ
一粒の麦よ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2534.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 53
作成日時 2019-12-12
コメント日時 2019-12-28
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 17 | 17 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 10 | 10 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 16 | 16 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 10 | 10 |
総合ポイント | 53 | 53 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2.4 | 3 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1.4 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2.3 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1.4 | 0 |
総合 | 7.6 | 5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
農夫が詩人、一粒の麦が詩の言葉(本当の言葉)、私が飲む麦酒が詩的でない言葉(偽物の言葉)のメタファーだとするならば、それを意識して、郷愁の像を膨らませたり、現実の無能な農夫の像を膨らませたりすると、より良かったかもしれない。 言葉のメタファーに気付き詩を書いた帆場氏を評価するとともに、これからの飛躍に期待したい。 帆場氏は優れた詩人になる可能性を秘めた人である。
0これは帆場さんだからコメントするのですが、余り良い詩ではないと思う。使われている単語一つ一つでもうお腹一杯です。意味を汲みとる、楽しむ前に読み手が飽和してしまいます。読んでいるといつの時代かの教科書に紛れ込んでしまったかのよう。それがストレートに良くないことではないのですが、この詩は古い時代の定型的な詩を思わせる。変な言い方をすると、帆場さんが詩を書いている時のトランス状態から、冷めた視点で見ているもう一人の帆場さんも必要かなと、そう思わせる詩でした。いや、帆場さんはこの地点?この作風?で終わる人とは思っていないので、ややキツメにコメントしてしまいました。よろしくどうぞ。
0読んでいて「一粒の麦」と「わたし」が混ざったり離れたりという感覚になりました。語り手は「わたし」なんだけど。 でも、「埋もれた一粒の麦」について考え、想像を伸ばすことが、「埋もれた記憶」にも触れて、幼少期やその頃の風景が呼び起こされる仕掛けは面白いと思います。ここで「一粒の麦」の郷愁と「わたし」の駈けた風景(それぞれの「黄金」と「希望の歌」。「わたし」の場合は「子ども時代」というところでしょうか)とが言葉のうえで重なるんですね。 《言葉のなかで一粒の麦をさがして/酔いつぶれていくのだ》とあるように、農夫が耳を傾けるようにするならば、言葉の地面(表面)を通してそこから隠れた深いところに意識を傾けるか、さもなくば潜るしかないのだけど、酔いつぶれるかのように酔いのなかに埋もれていくところも好きです。 呼びかけや言葉の用い方に酔った感じがするのは否めないけど、ビール飲んで酔ってる(設定)のだから、アリだと思います。
0往還するイメージ われわれ「中間地帯」は「往還するイメージ」に接続=アクセスする。 「埋もれた一粒の麦のことを 考えている」現在としての私の視点は過去に遡及する。「一粒の麦」それ自体が過去時制を必然的に要請するのは粒としての麦が未だ像として結実しない不定形な「粒」でしかないからだ。この「粒」を目の前にした作者は二連目にいたり過去イメージへ後退する。 「麦」はここで作者の不安定で病的な貌を持つ像そして糢糊とした記憶として現れる。 踏み固められた大地から 顔も出せず 根をはることもなく 暗澹とした深い眠りのなかで 郷愁の念を抱いているのか この暗喩の暗なるイメージは 「郷愁」する。過去イメージが更なる過去を打ち立てる時、そこで陽なるイメージへと反転する。 夏天に輝く手を伸ばし 希望の歌がこぼれんばかりに 大地を豊穣の海へと変えた この陽なるイメージが再び作者に「あのころ」という言葉を産み出すとき、二連目のイメージが一連目へと舞い戻る。そこでわれわれは「往還するイメージ」を感受することになる。現在-過去-現在へと往還するイメージ。 またひとり、またひとりと人々は去り 三連目のイメージは現在イメージでも過去イメージでもなく、時制を持たぬ作者の「ヴォイス」として奇妙な形態でイメージとイメージの間に唐突に挿入される。このときわれわれは一つのことに気がつく。作者は浮遊するイメージの中で無意識にヴォイスを発しているのだと。 農夫よ何処に行ったのだ? ここで現在イメージに立ち戻った作者は「農夫」として曖昧なイメージへ現前する。農夫は作者の理想する、それ故に不可能であったイメージとして立ち現れる。この農夫の「不在」は作者を再び過去イメージへと遡及させる。 あの埋もれた一粒の麦の声に その耳を傾けていたのか わたしには聴こえない どこで間違えたのか あの黄金も希望の歌も忘れてしまった 三連目の作者の「ヴォイス」が五連目に至ってイメージとして「麦の声」へと変貌する。その麦の声のイメージが音のイメージを喚起し数行続く。「音イメージ」は既に忘却されているのだというのだから作者はこの五連目で宙吊りにされ、過去-現在-未来という時制に還元されたない空間へ投げ出される。 わたしは農夫になれなかった無能もの 真実を求め麦酒を飲み 言葉のなかで一粒の麦をさがして 酔いつぶれていくのだ 一連目の現在イメージと最終連の現在イメージがここで往還の輪を閉じる。現在イメージから過去イメージへ、過去イメージから大過去イメージへ、そうして多型で不安定な空間から発せられる作者の「ヴォイス」を経て、再び現在イメージに舞い戻る。 われわれ「中間地帯」はここに一つの形式を見出す。が、これについては言及しない。 われわれ「中間地帯」は筆を置く。
0高橋大樹 様 詩とはメタファでありメタファを響かせることです、と詩を書き始めた頃に言われました。この詩は当時、それを考えて試行錯誤した作品です。構成や言葉の端々は今みると改稿したくなる拙さがある。しかし、ここしばらく自身の作品を振り返っていて今作ほどメタファや自分にとって切実なテーマを見据えて書こうとした作品はあっただろうか、という思いとビーレビでは読まれない詩風かもしれないがもう一度、捨てようとしたものを見直したいというまことに勝手な考えから投稿した。だがこうして評を頂けたのは何がしか読み手に引っかかるものがあったのだと思う。頂いた評を参考に励みたいと思います。 stereotype2085 様 このやり取りは何度かやっていますね。恐らくこのようなコメがつくだろうと予測しながら投稿した。仰るようにこの詩句はどこか古びてみえるのかもしれない。新しさや斬新さとは無縁であるし、堅苦しく思われるだろうとも思う。高橋氏への返信で書いたが過去に書いた作品であり、現在書くならもう少し素軽く書けるだろう。しかし、反面、そこまで意味が飽和しているだろうか?とも思う。読み手を考慮した言葉を否定はしないけれど、どうなのだろうか? 多くの読み手にこの詩はそのように受けとられるものだろうか。ビーレビという場にはそぐわないのかもしれないが、いま、現状の文体を破壊してでも変わらなければと考えており試行錯誤している。過去に赫という作品で同様のコメを受けて軌道修正したが捨てたものに再度、立ち戻って考えています。詩句は第三者的な視点で精査する必要があるので、アドバイス頂いたことは非常に真っ当だと思います。 藤 一紀 様 酔っている設定、感傷過多をそのように捉えて頂きましたか。確かに酔っ払っている。一粒の麦、を思うとき過ぎる様々な思いは誰にもある情感(若い人には実感がわきにくい詩なんだろうが、あぁ、自分も若くなくなったんだ 笑)だと思います。人間て地に生きるしかないと思っていて地に根を伸ばすように何かを思うというのは自然なことだと思うんです。この詩では根をはれずに酔っ払っていますが……。ただ過去にばかり向かっているのが、この詩の良くないというか、じゃぁ、どう生きるんだというところへ届いてないのが半端な出来なのかもしれないですね。半端にしか生きられん、という結論かもしれないけれど。
0この詩を読む前、偶然にも、鹿児島県の臥蛇島という無人島のニュースを見ていました。昭和45年に無人島になる前は、農業も盛んだったそうなのですが、どうしても餅米以外の米や麦が育たなかったそうなのです。 地質が問題だったそうですが。 私はこのニュースにとても心を打たれ、この詩の「わたし」というのも、臥蛇島の声に聞こえてくるようでした。 >埋もれた一粒の麦のことを >考えている 麦を育てようと、撒かれたままの麦が、臥蛇島にも未だに残っているだろうと思うのです。そのことを無人島になった今も、考えている。島にとっても希望の麦だったのだろうと。 >またひとり、またひとりと人々は去り >整然と均された荒野と鬱蒼と茂る緑が >ただ広がっている 荒野が「整然と均された」と表現されているところが面白いと思いました。また、私の中では臥蛇島から次々に人が去る様子も思い浮かばれました。 >わたしは農夫になれなかった無能もの >真実を求め麦酒を飲み >言葉のなかで一粒の麦をさがして >酔いつぶれていくのだ ところが、最終連のここで、この一粒の麦とは何かの比喩だったのかと感じるような表現です。謎めいた感覚で終わったので、また想像が膨らみ面白かったです。
0聞こえない声を聴こうとする行為。 わたしは、言葉と向き合うことはそのようなことに思います。 この作品の中の抒情の中に改めて感じました。 わたしはこの詩がとてもいいと思います。
0中間地帯に向けて 僕はこの詩の書き手であるが、投稿したからには詩を鑑賞する人々の後ろに回り込み、密やかに皆さんの言葉に耳を傾けて、僕自身も鑑賞者としてたのしむべきなのだ。だから本来なら個別の返信をするべきだろうかと思うのだが、個々のコメントから何か新しい景色が僕にも見えるのではないかと考えている。そういう意味では僕自身も中間地帯からこの詩を眺めているのだ。 たったひとつの作品を読んだだけでは批評は出来ない、ということで設定されたこの中間地帯の言葉で明確になったのは過去と現在を往復する行きて帰る、物語的な構造だろうか。現在を基点にぶらんこのように揺れ動き、やがて何か未知の領域に着地出来るならいいのだけれど。もし次がまた次があるなら中間地帯から先へとどのように記されていくのか一読者として楽しみに思っている。
0つつみ 様 鹿児島県の臥蛇島という無人島、初めて聴きました。しかし、そういった人が去ってしまった島は無数にあるのかもしれないですね。かつての炭鉱町とか。この詩がつつみさんの記憶に着火して新たな景色がみえたようで嬉しいです。読み手にとってひと粒の麦とはどんなイメージを想起させるのだろうか。そんなことを楽しみにコメントを読んでいます。臥蛇島ちょっと調べてみます。 nituki 様 聞こえないものを聴く。竜笛という楽器を吹かれる方が、天に響く竜の声をとらえるということを言われていました。そんな竜の声が聴こえるような言葉を紡げたらと思っています。 ガムのくつべら 様 最後の一連、なるほどそのようにも書けるのかもしれない。いずれ、改稿も考えてるので参考にします。こういった時代遅れ、と言われそうな作品も、まぁ、たまにはあってもいいんじゃないか、と励んでみます
0>わたしはかえりみる ここはあえて全てひらがなにしてあると思うんですが、とても感傷的な気分になりました。 なんだか懐かしいような、陽だまりの中にいるような気分です。 帆場さんの人間が出ている気がしてとても良かったです。全体を通してそう感じました。 また次回作読ませてください。
0北海道の開拓者を思いました。 このように絶望してしまった人もいるのではないかと。 農業関係者の一人として印象深かったです。
0せいろん 様 たしかにそこは平仮名でなければいけない部分に思えますね。あと付かもしれないですが帰りみる、かもしれないし顧みるかもしれない。お、ますます拡がりが出て来ましたね。発見。 羽田恭 様 なるほど開拓の歴史を思えばそれはあり得ますね。やはり読み手によって様々なことが浮かんできて面白いですね。
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