No estamos todas. *
これほどまでに力強く簡潔に連帯と孤立を表現する言葉を、私は自分の「母語」である日本語の中にまだ見つけられていない。英訳でさえうまくそれを表現できない。We are not all here. 英語でそう書いたとたんに、語り手からジェンダーが欠落する。主語は一人称女性複数なのだ。つまりこれは彼女たちの発話である。
原語に比べるとはるかに歯切れが悪いが、せめて意味を正確に書き止めておくなら、ここにいる私たち女性はこれで全員ではない、と訳せる。そう彼女たちは語り、そして続ける。No estamos todas, nos falta María. ここにいる私たち女性はこれで全員ではない、マリアが私たちに欠けている。そして名を呼ばれた女性の生没年を、彼女の肖像に添える。暴力によって惨たらしく殺された彼女を記憶するために。
彼女たちは絵を描きながら、彼女たちのなかからいなくなったひとりひとりを呼ぶ。Nos falta Alejandra. アレハンドラが私たち女性に欠けている。Nos falta Casandra. カサンドラが私たち女性に欠けている。 Nos falta Aurora. アウロラ(夜明け)が私たち女性に欠けている。Nos falta Ámbar. アンバル(琥珀)が欠けている。 Nos falta Flor. フロール(花)が欠けている。Nos falta Jocelyn. ジョスリンが。Zoe.ゾーエが。Anna. 杏奈が。何人であるか、生まれつき女性であったかどうか、彼女たちは問わない。ただ、いなくなった彼女をひとりひとり呼ぶ。全員ではなくそこにいる彼女たちは、ときに言葉を詰まらせる。Nos falta...... もはや呼ぶべき名さえも分からないが、彼女たちに確かに欠けている女性がいることが分かっているのだ。その顔のない肖像を、彼女たちはそれでも描こうとする。
No estamos todas. この言葉は、あるもっとありふれた別のフレーズの発話をはっきりと断念するところから発されている。No estás sola. あなた(女性)は独りではない。男性歌手の幼稚なラブソングのタイトルにもなっている、珍しくもないフレーズだ。だが万にひとつでも彼女にそう声をかけて力づけることができる可能性は、彼女が生きているときだけにしかない。Estaba sola, ciertamente. 彼女は確かに独りだった。だから殺された。誰も彼女とともにいられなかった。私たちは彼女を独りにしてしまった。だからここにいる私たちはこれで全員ではなくなってしまった。No estamos todas. それは、no estàs sola という言葉をもはやかけられないどこかへ彼女が行ってしまったとき、ここにいる彼女たちが、生きている彼女たち自身の連帯と、死んだ彼女の孤立を同時に表現する言葉だ。
全員ではなくなった彼女たちが描く彼女はひとりひとり、絵の中で孤独にほほえんでいる。いかなる傷もない。折れた歯も、切れた唇も、つぶれた瞳も、くだけたあごも、突き出た骨も、あざも穴も内出血もない。連帯して生きる彼女たちが孤立して死んだ彼女を、絵の中でだけはせめて美しく描こうとしたからではない。不滅に賭けるためだ。暴力を再生産することなくSNSでシェアするためだ。電子の海で無限に複製され、はるかな未来へ残り続けるためだ。誰も複製をすべて消し去りようがないのだから、誰も彼女のイメージを完全に滅ぼすことはできない。彼女のイメージを分け持ち、遠くへ持ち運ぶのだ。No estàn todas. そこにいる彼女たちはそれで全員ではない。だからこそ彼女たちもまた滅びない。生き延びること。それが彼女を死に、暗闇に、孤立に追いやった暴力に対する抵抗である。
*実在する、フェミサイド/トランスフェミサイドの被害者の肖像を描いて共有するメキシコ発キャンペーンのスローガン。
https://facebook.com/noestamostodas/
作品データ
コメント数 : 4
P V 数 : 1738.1
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ポイント数 : 32
作成日時 2019-10-19
コメント日時 2019-10-31
#テキスト
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 7 | 5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 10 | 10 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 10 | 10 |
総合ポイント | 32 | 30 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 3.5 | 3.5 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2.5 | 2.5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 5 | 5 |
総合 | 16 | 16 |
閲覧指数:1738.1
2024/12/21 22時02分39秒現在
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タイトルに「スケッチ」とあるのだから、おそらくこれは本当にスケッチなのだろう。書かねばならないと感じた事柄を、書かねばならないと感じたそのままに、おそらくは自分のために書かれたものなのだろう。つまりスペイン語に通じていない読者にとってはかなり敷居の高い内容であったとしても問題はないわけだ。この作品において作者はスペイン語のフレーズ一つ一つのニュアンスを深く味わうようにしてその感慨を書いたのだろう。独り言にように書いたのだろう。したがって作者が感じたであろう、日本語とスペイン語のニュアンスの差異から生じる微妙な感情の揺らぎが詩情として浮き上がる様を、私のようにスペイン語に馴染みのない読者は、想像として、まるで手話で交わされる会話の「美しさ」を遠くから眺めるような感覚で、漠然と捉えることしかできないのである。「独り言の美しさ」ということについて考えてみたい気がしている。
0survofさん、コメントありがとうございました。確かにこのテキストはスペイン語のあるスローガンに関して個人的な注釈を書き留めたものですが、タイトルは一年半前にこちらへ投稿した下記の詩との関連からつけました。 https://www.breview.org/keijiban/?id=1582 私はずっと『ふたたび殺戮の時代』という詩篇を構想していて、そこで戦後詩に嫌われてきた主語「私たち」を戦争詩とは異なる形で立ち上がらせることはできないか模索しています。 戦前のモダニズム詩人が大衆を先導することを夢見た結果、当時もっともモダンでアクチュアルな事象であった戦争の扇動へ傾倒していくむきがあったとするならば、戦後の現代詩はそれに対して固有性への注視や極私的なものの追求をもって応えたのではないでしょうか。戦後、詩人が「私たち」という言葉を使うことは、本来私と同質でない多様な人々をまるでこの「私」の複数形で塗りつぶすようなものだと忌避されがちだったのではないでしょうか。現代詩の歴史では主流の外にいるとみなされている岡林信康という稀有な詩人歌手ほぼひとりだけが、『私たちの望むものは』という歌で「私たち」を全く違う方法で立ち上がらせたことは記憶されるべきだと思います。私は戦前の詩人とも岡林とも違う仕方で、詩の言葉の中に今立ち上がるべき「私たち」を立ち上がらせたいのです。 そこで前作では私自身の散文を再構成しながら大量のカギカッコヒラクを挿入することで、引用による客体化と読者への開かれを両立させようと試みました。その試行はこの場にお集まりの方々に対してはあまり成功しなかったようですが、私はかえってやる気を出したわけです。それで今回は、私が男性であると同時にフェミニズムへの賛意を抱いていることもあって、彼女たちが私たちという主語を使うときに本来はその中に入っていないはずのこの私が、注釈という形で一時的にその彼女たち=私たちの中から発話することを試みました。私はまさに翻訳を生業としているので、三人称の存在の立場にたって一人称主語を発し、またその一人称主語の言わんとすることを三人称で説明することは日常的なことなのですけれども、それを語りに導入することにしたのです。この語りは引用、翻訳、説明を繰り返すことでできていますから、スペイン語を理解しない方でも最初から最後までストレートに読めば意味を理解できるはずなのですが、survofさんからスペイン語がわからない人には敷居が高いと言われてしまったことは少なからず残念です。しかしそもそも私にとっては何語であっても他人が発した言葉なら(ときには自身が過去に発した言葉さえも)常に距離があるものですから、逆にスペイン語を一切使わずにすべて日本語で書いていればその敷居なるものが下がるのかということをいま自問しています。
0ご返信ありがとうございます。 >しかしそもそも私にとっては何語であっても他人が発した言葉なら(ときには自身が過去に発した言葉さえも)常に距離があるものですから、逆にスペイン語を一切使わずにすべて日本語で書いていればその敷居なるものが下がるのかということをいま自問しています。 私は敷居が高いとは思っていないんです。引用されているすべてのスペイン語には、直後に日本語の意味が書かれていますので意味がわからないということはないです。むしろ文章としては非常に質が高いものだと思っています。 私はスペイン語で思考したときと、日本語で思考したときの感覚の揺らぎについて言及したいと思っていて、つまり原口さんが作品のなかで >We are not all here. 英語でそう書いたとたんに、語り手からジェンダーが欠落する。 と書かれているように、意味を言語をまたいで変換したとしても、それは必ず不完全なもので、情報やニュアンスが少なからず欠けるのが常であって、つまり「Todas」「We」「私たち」と並べてみたときに、それぞれの「私たち」のもつニュアンスの違いから生じる繊細な揺らぎを感知できるのは、3つの言語に通じた人だけではないかということです。逆にいうと、揺らぎが生じるからこそ、主語としての「私たち」に新しい形が与えられる余地が生まれるのではないか、ということを考えます。 そして当たり前のことですがその揺らぎを味わいながら読めたなら、この作品はより味わい深いものになったはずで、もっというと、例えば原口さんの意図した通り「私たち」を新たな形で立ち上がらせるためには、読者がその揺らぎを感知することが不可欠ではないか、とも思うのです。
0サイトも見ました。確かな見識がないと出来ない詩。抒情性があると思いましたが叙事性の方が勝っているのかもしれません。
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