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なぜ君は世界が美しいと言えるのか
「なぜ君は世界が美しいと言えるのか」 僕が書いた読書感想文を読んで 訊いてきたのは30も半ばを過ぎた男性教諭だ。 教諭は黒ぶちの眼鏡をかけた、つり目の独身男で 白いシャツに紺のネクタイは洒落っ気を感じさせず 服装や身なりに無頓着なのが分かる。 頬がこけて、やせ細ったその体からは 厭世観に似たものが滲み出ている。 僕は教諭に鋭い目つきでそう尋ねられて 答えを出せなかった。 教室の窓。その向こうの青空は澄んでいるし 窓際で肘をついて雲を見るあの子。 何やら考えごとをしているあの子は 相変わらず気になるし。 結った赤っぽい髪の毛は 僕を惹きつけるに充分だ。 だが。 それだけで世界が美しいと言えるのか。 もしそれだけが世界の美しさだとしたら。 余りにも。 弱い。 僕は午後から崩れた天気のせいで 少し雨風がひどくなった下校道をひた走りながら考えた。 僕の読んだ小説はありがちなファンタジーで、少年が幼馴染と結ばれるまでを描いたものだ。 特別感想はない。 「ふーん」と思っただけだ。 だから。 僕は感想文を締めくくるためだけに。 安直に。 実に安直に。 「世界は美しいと思う」と書いた。 教諭は見抜いていた。 走り抜ける街路の雨は激しくなっていく。 「世界は本当に美しいのか」 この命題が僕の胸を突き刺していく。 僕の視線は地面をはいずるように世の中を見つめていく。 車を乗り回したあげく、事故を起こした金持ちがかくまわれる。 一か月に12万程度しか稼げないフリーターがいる一方で 一晩で数百万の飲み代を使う事業家がいる。 段ボールの上でシミのついた毛布にくるまる浮浪者は 明日の、明後日の、いや未来の僕かもしれない。 ゴミ収集車の行き先は、汚れた手でハンドルを握る業者自身しか知らない。 汗まみれになった手で、建てられた住宅街の一軒家には 恵まれた将来を約束された小さな女の子がいる。 教室では隣同士に座る、膝にケガばかりの少年は その少女に恋をしても決して結ばれないだろう。 中間層の家屋を作り上げた土建屋は 仕事を終えた次の瞬間には、煙たがられる存在へと変わる。 政治家は僕に危害をくわえるわけでもないが 恩恵を与えてくれるというわけでもない。 それだからか僕は不平を言わないし デモに参加するつもりなんて更々ない。 僕は18になっても、選挙で投票することさえしないだろう。 今すれ違った、疲れた様子のサラリーマンは鏡に映った僕自身かもしれない。 それなのに。 僕は不満を口にすることなんてない。 心がそれを受け入れているからだ。 認めているからだ。 くやしい。 さっきまでの青空は飽和し弾けて 土砂降りになっていく。 僕は自分が余りに情けなくて 小さな自分がこう言うのを聞いた。 「さよならこの場所。 さよなら昨日の自分。 さよなら幸せだった自分」 傍から見れば妙でも、僕は真剣で。 自分自身に、わずかに残っていた涙が落ちるのを感じ取っていた。 帰宅した僕を出迎えたのは母親だ。 彼女は僕のために風呂をわかして 温かい料理を作ってくれた。 外を見ると雨は上がっている。 母は僕のボサボサの髪を見ると、2000円を渡した。 そういえば髪を2カ月は切ってない。 いくらこの前切りすぎたとしても放っておきすぎだろう。 僕はもう一度家を出る。 さっきまでの青くさい気分は僕から消えている。 歩いて15分くらいの距離にある近場の床屋。 その扉を開くと人あたりのいい主人が 「いらっしゃい」と 出迎えてくれたよ。 笑顔で 穏やかに 出迎えてくれた。 何事もなかったように。 出迎えてくれた。 「なぜ君は世界が美しいと言えるのか」 教諭の質問の答えを 僕はまだ知らない。
なぜ君は世界が美しいと言えるのか ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1952.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 35
作成日時 2019-10-14
コメント日時 2019-10-19
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 9 | 9 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 11 | 8 |
エンタメ | 4 | 4 |
技巧 | 5 | 4 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 6 | 6 |
総合ポイント | 35 | 31 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 1.8 | 1 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2.2 | 2 |
エンタメ | 0.8 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1.2 | 0 |
総合 | 7 | 4 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
「なぜ君は世界が美しいと言えるのか」をめぐって、世界と自己を再発見していく様子が、 赤っぽい髪の毛の女の子や、ごみ収集の人、結ばれることはないであろう少年、格差のある人々、 などのことを考え、答えを出そうとする青くささによって描かれている、その思考過程に、 賛同したり、不思議に思ったりしました。最後には、床屋の主人の変わらない様子で、 自分で自分を納得させることに、安堵しますが、それでも、その様子は明るくも、波乱があるように、 感じ取れます。涙と雨が、同じものであるような描き方も、してあるのだと思います。 アイデンティティとは、辞書によれば、「自分という存在の独自性についての自覚」だそうです。 アイデンティティを得るとは、人や世界によって、自分が損なわれなくなるような、 自覚だと言えそうです。人やものとの関係があるとして、「攻撃、逃亡、降服」という態度の 選択肢があったり、「仲直り、許諾、再生」というような、可能性もある。 この詩の主人公は、(感想文を)書き、考えることによって、可能性を、広げます。 雨降りのような、世界の自然現象に対して、自分自身を位置させることで、憎まず、 悲しみから立ち直り、可能性を広げようとします。その広げられた可能性は、 自己の再生そのものです。主人公は、世界と人への、いびつなものへの、「自分自身の承諾と 思われることの愛」を、 「捨てないでいた」、それは、自分自身が変わろうと思うこと、そして、寛大に、 他人を受け取ることが、唯一の道であるかのように、全ての人々がそうであるのと同等である孤独を、 克服しようとする意志があり、読者の感情を強く揺さぶります。 青くさい主人公が、決して無駄ではない生き方をすることに、そして、それが叶うといいなと、 共感させるところに、自分自身の姿を映すような、鏡のようなものとして他人を考えること、 本来的な他人との関わり方についての感覚を、僕の中にも発見しました。 たくさんのものと、人が出会う、それを見捨てること、そんなことは、やはり、自分自身を捨てるようなことで、 できないのだというところまで、アイデンティティを見直したい気持ちになりました。 詩というものをめぐるようなゆるい関係において、厳しく同一化する読書体験になりました。 緊密な関係でなくとも、全てに同化することができるような可能性こそが、ネットのような 関係においては、関係の網に何か引っかかり特別なものが生まれることが、可能である、 そんな気持ちになれたことが、とても良かったです。
0詩と散文(小説、エッセイ、評論)と、どちらに分類するかと問われたら、私はこの作品は(散文詩より小説に近い)散文だと答えます。 でも、この掲示板は、そうした(狭い)範疇から、「詩」を解放する、という目的も、おそらく持っているはず。その場合、作者のスタイル・・・本人らしい語り口、語り方やリズムが作り出されているかどうか、ということが、第一の評価基準となっていくと思います。 語り手の心の動きを、等身大の描写で丁寧に追っていくところは、同様の疑問を感じたことのある読者を自然に引き込んでいくと思いました。 細かなディテールをとらえて、そこから登場人物の人間性や具体的なイメージを描いていくところが特に小説的であるわけですが、こうした説明的な描写によって、作者が作り出した空間の中で具体的に人物が動き出す。それは、「詩」がしばしば陥る隘路・・・抽象化や凝縮を目指すがゆえに具体性が薄れて、時には曖昧さの中に置き去りにされ、作者自身も立ち往生してしまう・・・危機から、作品の持つ空間を解放していく方向でもあるように思います。 夏目漱石でしたか、作者が作中人物をしっかり造形することさえできれば、あとは、勝手に物語が動き出す、と述べた作家がいたことを思い出しました。 作中人物の生活スタイル、生育歴、普段、どんな服装をしているか、どんなものを食べているか。そうした、作品の中に描かれていない背景が作者の中では思い描かれていて、その具体的な想像力に沿って作品が綴られている、というような、表現上の自然さと(描かれていない部分も感じさせる)厚みのある掌編小説だと思いました。 ※彫刻家、舟越保武が、次のような言葉を遺していたと思います。うろ覚えですが・・・世界が美しいのではない、見る人の心が美しいのだ。 あるいは、多様を美として受け止めることのできる広さや豊かさ、柔軟性を持った心の持ち主には、世界が「美しく」見える、と言い換えても良いかもしれない。 stereoさんの作品では、語り手はすべてを安易に受け止めてしまう(許してしまう)自分に、むしろ否、と言う強さを呼び戻そうとしている。醜いもの=人として許せないもの、それを、美しくないものとして峻別する強さを欲しい、と思う・・・その心の動きを「青くさい」ものと客観視しながら、それを捨てたくない、と意志する力を、どのように持ち続けるのか、問い続けるのか。 そんな主題が見えてくるように思いました。
0黒髪さん、コメントありがとうございます。返信遅れました。この詩の主人公は当然話者である男の子なのですが、実は教諭自体も大きな役割、比重を僕の中で占めているのです。僕は普段人生に肯定的で、いい音楽を聴いたりいい映画を観たり、親友と話をしたりするだけで充分に満足出来るし、それこそ「世界は美しい」と言えるのですが、この詩を書いていた時は教諭のような価値観、懐疑的で冷淡でさえあるような価値観が僕の中で育まれてもいたのです。だから少年と教諭は二人で一つ。どちらも僕自身なのです。前半教諭の描写が続きますが、それは教諭の存在に僕が愛着を持っているからでもあります。この詩は、やせ細り頬がこけ服装身なりにも無頓着で世捨て人のような教諭、人生を疎み、生きることで得られる喜びをすべて拒絶しているかのような教諭との和解、対話そして融合を目指して書かれています。教諭は男の子を刺激し疑い、真意を問うように仕向けますが、それは男の子への愛着ゆえ。かつての自分自身を教諭は男の子に見ているのです。教諭は「なぜ世界が美しいと言えるのか」の答えを見つけられなかった。だから男の子に期待している。この詩は教諭と男の子の、それこそ再生とアイデンティティの再発見、つまりは僕自身が再生する手がかりを見つけるための作品になっています。黒髪さんが男の子に共感し、強く揺さぶられたのはとても嬉しいです。ただ教諭も悪人ではない。喪失感を抱きつつ、悲しみを押し殺しながらその喪失感と共存している愛すべき人物なのです。その点は黒髪さんを始めとする勘のいい読者なら分かっていただけたと思います。長くなりましたが最後に黒髪さんのコメントはいつも美しいと付記して締めくくらせていただきます。ありがとうございました。
0まりもさん、コメントありがとうございます。返信遅れました。 まずは厚みのある掌編小説だとの感想、とても嬉しく思います。小説的描写が序盤続きますが、あえてそうした一面もあります。男の子が観察する教諭こそが、この詩に説得力を持たせるための肝だったのかもしれないからです。黒髪さんへの返信でも書きましたが、教諭はもう一人の僕、僕にとってとても大切なパーソナリティでもあります。だから教諭の執拗な描写は必要だったし、僕自身描きたかった部分でもあったのだと思います。 また僕の作品が醜いもの、美しくないものへ「否」と言う気持ちを取り戻そうとしている、というご指摘は非常に的を得ていて納得させられるものがありました。ただこの詩では醜いものなど何もない、醜く見えるものでも、世の中の一機関として美しく機能していると少年が気づく過程が描かれてもいます。 最後の床屋の主人、母親の描写は何気ない日常にこそ美しさが潜む、醜いものなど何もないと少年が期せずして、無意識的に感得したことを表すために設けられています。これは少年は教諭への質問の答えをまだ知らない、と口にしながら答えを見つけたことを暗に自覚しているのでしょう。 最後になりますが「世界が美しいのではない、見る人の心が美しいのだ」には全くもって同感です。この詩では少年も、そして少年に期待する教諭も、世界の美しさ見極めるための心、あるいは少なくとも志向性を持っているのだと思います。二人の短いやり取りに再生の兆しがある、救いがあるのでしょう。深みのある感想、ありがとうございました。
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