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鈍行列車
白い地面と白い天井 前後左右はどこまでも広がっている 遠くは黒く霞む その真ん中で左右を貫く線路と電車 その電車が通り過ぎるのを 踏み切りの手前で待っている カンカンカンカン 電車の両端は黒く霞む 目の前の車両には12人の同じ人 電車の両端は黒く霞む
鈍行列車 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1917.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 12
作成日時 2019-10-02
コメント日時 2019-10-28
項目 | 全期間(2024/12/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 6 | 6 |
総合ポイント | 12 | 12 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 1 | 1 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 6 | 6 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
描かれている情景は非常に魅力的である。ただしこの作品は作品の絵コンテである。どのような情景を描きたいかの説明書きに過ぎない。つもり情感は読者の想像力のなかだ育まれるものであって、作品そのものが誘発するものではない。さて、これは作品のあり方として否定されるべきものだろうか? オノ・ヨーコの作品に「グレープフルーツ 」という作品がある。シュールな命令がシンプルに並べられているだけで、作品は鑑賞者の想像力のなかでのみ完結する。ただしオノ・ヨーコはオノ・ヨーコである。本場のアートシーンの業界人が業界の空気を機敏に読んで制作されたハイコンテクストなコンセプチュアルアートである。つまりこの種のコンセプチュアルな作品が成立するには、成立するための文脈と、その文脈を共有した鑑賞者が前提として必須になるのではないか。 さて、この作品をそのようなコンセプチュアルなものであるとして成立させることがこのビーレビという場において可能なのかどうか。私はこの点に関してはとても否定的である。いまビーレビ読者が共有している文脈は「読者の想像力のなかで完成させる」というコンセプトとは直接は繋がらないように感じるからだ。もし、そのコンセプトで作品を成立させるとするならば、作品自体にオノ・ヨーコをはるかに凌駕するインパクトと鋭さが必要になってくるのではないだろうか。 以上は仮にこの作品がコンセプチュアルなものであるとして、の話であるが、それにしても、この作品の絵コンテはコンテとしては非常に魅力的である。この絵コンテから私も一作書き起こしたくなったほどだ。あるいは、そういう企画があっても面白いかもしれない。 と書きたいこと書きたいように書き連ねてしまったが他の方の全く違う感想やコメントもお読みしてみたいものだ。
0なんかメンヘラポエムって感じ。この電車の車両の中に7人の車掌がいて、そいつらが俺を殺そうとしてるって調子悪いときの友達がいってたことをなんか思い出した。
0survof様、コメントありがとうございます。 絵コンテ。なるほど。確かにこの作品は詩ではないですね。浮かんだ情景を描いただけですね。また、コンセプチュアルアートにしてはオノ・ヨーコを遥かに下回る作品です。つまり、この作品は更なる工程を経て完成するものだとハッとしました。ありがとうございます。 もしsorvof様がこの絵コンテを用いて、ある一つの作品ができあがるとしたらとても興味がありますし、簡単な言葉ですがワクワクします。
0Um Fantasma様。コメントありがとうございます。 被害関係妄想を意識したわけではないのですが、自分には思いつかない解釈でしたので、楽しく思います。ありがとうございます!
0仲程様。コメントありがとうございます。 好評的なコメントとても嬉しく思います。 「12人の同じ人」は読む人によって意味の異なるものになり、様々な解釈が生まれればいいな!と思っておりましたので、未熟なりにできていて良かったです。 タイトルはいつも最後に考えるのですが、今回は〇〇列車でひどく悩みました。鈍行にして良かったです。ありがとうございます!
0survofさんが この詩からイメージしてなにか別の作品を書いてみたい衝動に かられたと書いておられますが、私も 漠然と 詩のイメージが浮かんでいるところです。 とても喚起力のある作品ですね。コメント欄を拝見していましたら 読者がどのように受け取るのかを期待されているような気がしましたので、自由に思いついたことを 書かせていただきます。 12人という数から 時間を図るモノを想起しました。時計とか、カレンダーとかです。 単位といえば、むかしエジプトのファラオの腕の長さを基準に ピラミッドを作ったそうです。それがフィートという単位の元となったと聞いています。ピラミッドを造った人々は ファラオの身体の大きさを意識しながら 建造物をつくったということになります。さぞ、ファラオと共にある感覚だったことでしょう。 私は この詩を読んで、時間の観念にも ファラオの腕のような感覚を あてはめることができると感じました。人間の感覚に即した区切りとして12という数が あるのかもしれません。すると、おなじ顔をした12人の人が わたしたちの意識の隣に 常に存在していることとなるなあと、思ったのです。 実際の話、私達は単位という名のファンタジーの中で、生きているような気が してきました。
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