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籠地獄
「地獄まで めくらの鳥よ ぼくを追って、ゆけ!」 船窓へ 振り撒き散らす死の花を いつか 燃えた兄妹を 十一歳の わたくしが 茱萸の裏から覗いてる 死人にも似た 家族 継婿 継母 親知らず 抜きて 真綿に 桐箱に 死んだ 時計を 憎みます 書斎 寝室 応接間 弓手に 馬手に 舵をとれ とうさま おもて 偽紳士 鴉麦など もう見ない 菜種の花を 潰します 花嫁衣装を 鋏もて わたし 女工の 故郷を 捨てて 売ります 飴色の こおろぎ 悪魔 かみそりの 已んだ 田圃を うらがえし 死んだ わたしを とうさまは 犯して ほねを 捨てました 滔々と なく 十姉妹 花婿に似た ねやのかご 十一人目 いもうとは くびをくくった かごのうら 鴉麦など もう見ない くしげを売って あまでらへ なまえを告げよ そのものへ なまえを告げよ そのものへ かごじごくより わたりきて ひとをとむらい 生きて 死ね 「かごめかごめ 籠の中の闇はいついつ出やる――、継母は母にして母は継母ならずわれたるを、」
籠地獄 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2150.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 153
作成日時 2019-05-27
コメント日時 2019-06-04
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 30 | 30 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 31 | 31 |
技巧 | 30 | 30 |
音韻 | 31 | 31 |
構成 | 31 | 31 |
総合ポイント | 153 | 153 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 15 | 15 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 15.5 | 15.5 |
技巧 | 15 | 15 |
音韻 | 15.5 | 15.5 |
構成 | 15.5 | 15.5 |
総合 | 76.5 | 76.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
面白そう!と思ったんですが今時間が無いので、また後日じっくり読んでコメント出来ればと思います。
0韻を踏んで読ませつつ、兄弟とジュウシマツ、死の花や茱萸と花嫁といった共通の花のイメジを、此処では「わたくし」や「女工」の不遇に重ねていっていく。そして生まれや仕事、女としての業、のようなものを鳥籠に見立て、その中で死んでいく情景を客観視しつつ描写していく。というようなものを自分は読みましたが、作中主体が自身を客観視しているその冷静さが諦めの胸中をあらわしているようで何処か切なく、何処か異国情緒を感じさせるのに、何処までも貧しかった日本の古い農村風景が眼前に広がっているようで、胸を打ちました。
0正確には茱萸は果実なので、花や実のイメジ、燃えるような血のように赤いイメジを共通させつつ、ですね。
0エルクさんへ。批評を賜りまして、允に嬉しく存じます。 喪われた近代、 現代に於いての限り無い緯糸――つまり同時性の広がりと、記憶喪失の様な経糸――個の歴史の断絶のただなかに有り、 些かの問題意識、危惧を覚えつつ。本拙作を認めさせて頂きました次第でございます。 付け加えますなら、寺山修二の影響も甚だしく、文体に散見し得るかと存じます。 籠の内に籠の外に際限無く籠が在り、誰も籠から遁れられなく。私達もまた、何物かの籠なのかも知れません。云々。
0最近では断絶を推進する行為が英雄視されるという風潮があるのか、同時多発的に生じる亀裂音はさながら、軍靴のようでもありますね。寺山 修司さんの才能は多岐に渡っているので自分も少なからず影響を受けていると思います。そして「生きて 死ね」のフレーズが坂口安吾さんの「堕ちよ、生きよ」に影響されているのかなと勝手に感じておりました。 個人的には 『遊撃とその誇り』の 「背広を着たまま飛びたい」というのは、私自身の哲学だったのである。 が好きですが、此処では、 『奴婢訓』の 希望は美しい、絶望も美しい。だが、両者をわけるものは、もっと美しい が何となしに、思い出されました。 籠を容れ物と捉えるか檻と捉えるか、はたまた何かを守るためのもの、と捉えるかで見方も変わってくる気が致します。
0エルクさんへ。 申し訳ございません。些か気分が動転を致して居りまして。 取り止めの無い返信となって仕舞うであろう事を、ご容赦下さい。 私の様に――、実社会との関係性が希薄である、所謂、「引き篭り」に係る事件が、社会問題として浮揚を来し、 ソーシャルメディアに於きましても紛糾を極めている様でございます。 以上を踏まえて敢て、主張をさせて頂きたく存じます。 平均的存在への犯罪、冒涜としての詩、及び詩人達は今や飼い慣らされ――屹度、汎社会的秩序と親密に為り過ぎたのでしょう。 何時からでしょう、規範的存在としての桂冠‐鶏冠を戴き、ヘルメスの悪を白く塗潰し、偶像の貌を銭貨と掛け替え始めましたのは。 不文律、その禁忌への限り無い接近、或は禁忌そのものを記述する、破滅への橋梁に關(かんぬき)を掛け、悪霊を嘔吐し、 徹底的慈善の許へ跪きながら――硫黄の華を誹る様に――教育を施されて仕舞いましたのは。 舌禍以外の何物でもない、斯様に不健康な精神を吐瀉するゆえに、私は愚かなのでしょう。 痛い病人と、哂って遣って下さいませ。 以上、蛇足。 私は、出自を明かしますなら。辺鄙な田舎に戸籍を置いていた者でございますから。 寺山の「フィクションとしての故郷のエスキス」を、 虚言故の永続‐普遍を、憧れを伴って――悪い夢の様に――心象へと受容し、復拒絶して、今に帰るのでございます。 復、坂口安吾訳のツァラ詩選が存在致します事を先程知りまして、未読を愧じつつ。是非拝読を致したく、貧窮のなかにて。その手筈を模索しております。 そして 籠とは籠の内の存在に、他者の所有物である標を附与する装置、と、私は感受を致しました。
0鷹枕可さんへ。 美辞麗句や啓蒙啓発の類が耳に心地よいという側面は、商業主義を抜きに語ったとしても、仕方のない部分があるかもしれません。耳が痛い。けれどそれは「詩」が、というよりも「本質」を見抜くことのできる能力があるか否か、という問題なのかもしれません。教育というのは規範という箱に収まるように均一化させる制度ですから、社会を飛び出して活躍するということよりも社会に適応させることを主眼に置くものです。最悪なのはその教育の質が低いことですね。識字率も上がりピラミッドの底辺、分母を増やせば、頂点がそろそろ出現し始める頃だといつか語った文科省の役人がいましたが、あやしいものです。つまり、そのものを記述する力を持つ人間は鷹枕可さんが思うよりもずっと少ないのではないでしょうか。 「引き篭り」の定義も曖昧で、相対化が進み、そのうち「病気」のレッテルでも貼って安心しようとする流れが安易に出来上がるかもしれません。そんな場面で、阿るのではなく抵抗するのが詩人であって欲しいとは思いますが。云々。 故郷というアイデンティティに懸る憧憬が自分には希薄で、深く共有できず悲しいのですが、 >虚言故の永続‐普遍を、憧れを伴って――悪い夢の様に――心象へと受容し、復拒絶して、今に帰る 美しい言葉の羅列に眩暈がするようです。 籠に関しては、所有という概念が若干西洋的であるので、喩えば、内と外をわけるもの、または自他の所属を規定する境界、のようなものであったなら。そんな美辞麗句や啓蒙啓発の類の話にもって行きたがる自分は汎社会的秩序にやはりおおいに毒されているのかもしれません。
0エルクさんへ。 私の様な傲岸極まりない人間の、頑迷を真摯に受け止めて下さりまして、允に慚愧の念に堪えない次第でございます。 書くべきか、否か逡巡を致しましたが、敢て自己検閲に拠り封殺するべき、叛社会的な言挙げをさせて頂きました。 手綱に抗う放埓な、私とは酷く醜い怪物ではないのかと、懐疑を払拭しえない事も甚だしく。猛省を致します事も頻りでございます。 >籠を巡って とんでもない! エルクさんの仰る様な見識の方が、ずっと素敵でありましょう。
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