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自・死
彼を包んでいたのは、透き通った水のような理性ではなかった。淀んだ水のような、執着し、批判し、妬む理性が彼にとりついていた。 彼がみる世界はいびつな形で存在し、全ての現象を奇妙に解釈した。変哲もない会話に彼は侮辱を感じ、叱責には自尊心の崩壊がともなった。 楽しみのない日常を数年続けている内に、精神のシステム障害は容易に起こった。彼は現在にも未来にも希望と願望はなかった。彼にとって生と死の価値は同じであった。 確かに現実はくずだった。 人は嘲り合い、騙し合い、陥れることを目的にした。政治家は嘘がまかり通る世界の構築を実現した。企業は商品が毒であっても、作る事にためらいはなかった。 多くの者が私欲を優先したし、肉体の危害が禁じられているならば、精神の虐殺を敢行した。 人類は殺し合い、奪い合い、他国の死を願った。 彼のいる世界は、怒りと憎悪が沈殿する汚れた泉であった。泉は腐敗し、生物は死んだ。汚れた水に魚は窮していた。 彼は幻をみるようになった。 初めてみた時はフロックコートを着た紳士の姿をしていた。眼も口も鼻もおよそ人からは遠い形状をしていて、皮膚はごつごつとした硬そうな質感だった。翼を持ち、左手には大きな鉤爪を持っていた。三つの声が同時に発せられた。 別の時はもっとぼやけた黒い塊であった。形状は曲線的で、素早く流れるように動いた。声は同じで、話すとき口のようなものが動くのがかろうじてわかった。 さまざまな奇怪な化け物の姿をして、幻は彼の内なる感情が高まった時に姿を現した。彼は幻をみた時、特別に反応を示さなかったし、そもそも彼自身の一部の様な一体感さえあった。たいてい幻は彼を責め立てたり、悪事の誘惑をした。 幻の言葉は彼の中で増殖し、感染をひろげるウイルスのように、精神の破壊を目論むようであった。 ある日の帰路、彼は街灯、電光掲示板、車のライトなどで賑やかに照らされた道で人波に埋もれていた。 雨に濡れた地面にはさまざまな光が反射していた。薄暗い世界に沢山の光がぼんやりとみえた。彼と世界には大きな隔たりがあった。時間がゆっくり流れていたし、目の前の光景は遠くにあるように感じた。 彼は人道橋の上で立ち止まり車道を眺めていた。流れる川のように車の往来があった。光の道の先には晴れやかな希望にみちた世界がある気さえしたが、同時に橋の柵を越えれば、希望があると感じた自分をバカらしくも思った。 その時彼は人生で初めて自分自身をみた。純粋な意識で自分をみる事ができた。今までの現状も、感情も、感覚も全てを彼自身から引き離してみていた。 数年間神経をすり減らして時間を使ってきた事が滑稽に思えた。今までの過去が全て異様なものにみえた。あれこれ思い出していると、笑いが込み上げてきた。 彼はおかしさに橋の上で笑い転げていた。 若い男が彼の鞄を持ち去って行ったがどうでもよかった。スーツが雨水と砂埃で汚れる事に何も思わなかった。 一息ついて目を開けると、辺りは真っ白な世界へと変貌していた。今までの世界はなくなっていた。全ての事が気にならなかったし、思い出さなかった。 過去の記憶のようなものが遠くで淡く過ぎ去った。 化け物は、翼をもった雄大な獅子の姿をして現れた。彼を一呑みにできる程も大きかったが彼は恐怖を感じていなかった。その時は獅子との一体感はなく、一つの存在が目の前に現れていた。 人類が言葉を持った時から人間に棲みついた悪魔、数千年の文化の発展の中で微塵も衰えることのない強大な存在が彼の前にあった。 お前はどうして存在するのか、と彼は問いかけた。 それはお前が考えるからだ、と獅子は言った。答えになっていないと彼は非難した。どういう目的でお前は存在しているのか、何度も執拗に厳しく問いただした。 今の彼には幻の存在がわからなかった。そして幻獣には答えられなかった。 巨大な体躯にもかかわらず、まごつく化け物にしびれをきらして、とっさにはたく手が触れた時、獅子の頭部はガラスが割れる様に粉々に吹き飛んだ。後にゆっくり胴体も砕けた。 彼は幻を打ち消し、彼自身の世界を歩き始めた。
自・死 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1347.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 10
作成日時 2019-04-21
コメント日時 2019-04-22
項目 | 全期間(2024/11/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 10 | 10 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 5 | 5 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 10 | 10 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
びっくりしました…引き込まれました。 「変哲もない会話に彼は侮辱を感じ」 「未来にも希望と願望はなかった」 「彼にとって生と死の価値は同じであった。」 簡単なようで出てこない言葉ですよね。すごいです。 そして近づく幻と、それとの決別… 笑い転げる主人公には怖ささえ感じます。 なんだか、夜の涼しい風とともに消える幻の獅子が見えるようです。 とても良かったです!
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