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アングリマーラ
僧が歩いていく。 「去れ! 立ち去れ! アングリマーラよ、立ち去れ!」 糞尿で黄色くなった衣を、僧の血で赤く染め上げながら、僧が歩いていく。 罵声と投石を投げつけられ、棒で殴打されながら、僧は歩みを止めない。 「去れ! 立ち去れ! アングリマーラよ、立ち去れ!」 目を伏し、割れた鉢を大切に携えながら、僧は何も言わず一歩一歩と村人の中へ行く。 全てを布施であるかのように、受け入れながら。 「去れ! 立ち去れ! アングリマーラよ! 指蔓外道よ! かつての首飾りの中に、この村の人々の指が何本あったのだ! 去れ! 立ち去れ! ここより消え去れ!」 血が、僧を赤く濡らす血が、僧自身と人々の思い起こさせる。 アングリマーラと呼ばれた僧は、赤く塗ったような自らの手を、ふと眺めた。 指を切り取り、首に吊るしたかつてのような、手。 簾のように無数の指で体を飾り、乾いた血と鮮血で彩られた、悪鬼ごときかつてのアングリマーラを。 でももう、身に着けるのは粗末な衣と手にある壊れた鉢だけだ。 「死に穢れしものよ! 入ってくるな!」 小屋に入るなり、老婆から熱湯を浴びせられた。 血と怪我に汚れた皮膚は、瞬時にただれる。 それでも僧はまっすぐに見る。一歩一歩と歩む。 苦しむ女。 難産にあえぐ、その元へ。 幸せな人を、ひと時思い起こす。 悪神ごとき所業を行っていた頃。 輝きを放つような一人の出家者が目の前を通った。 九九九人の九九九本の指を揺らし、千本目の指にするために振るう刀は、空を切った。 放つ矢は虚空へ消え、突き刺す槍は虚無を突いた。 「動くな、止まれ。出家者よ」 思わず出た言葉に対して、出家者は振り返る。 「私は止まっている。アングリマーラよ、汝が止まるがよい。 私は生きとし生けるものを害する心を捨て去った。故に私は止まっている。 汝は自らを制していない。故に汝は止まっていない。 アングリマーラよ、かつての師に邪見を与えられしものよ、止まりなさい」 「消え去れ! 外道!」 怒号と共に与えられた痛みで、意識を取り戻す。 手にしている鉢の如く、剃り上げた頭を割られた。 施される痛みを気にも留めず、掴みかかる男たちに動じず、女の腹へ手を差し伸べる。 「私は正しい生を得てから、故意に生きとし生けるものの命を奪った事はない。安らかなれ、安産なれ」 「罪業に穢れし手をどけよ!」 男たちと老婆の怒鳴り声と女のうめき声の中、静かなつぶやきが続く。 「私は正しい生を得てから、故意に生きとし生けるものの命を奪った事はない。安らかなれ、安産なれ」 ぐる、と女の腹が動いた。 頭が見え始める。 「もう生まれる」との老婆の声と共に、怒りに満ちた声は消え、女がこの世とは思えない声を張り上げた。 静かなつぶやきは、それよりも大きく聞こえる。 「私は正しい生を得てから、故意に生きとし生けるものの命を奪った事はない。安らかなれ、安産なれ」 産まれた。 素早く僧は子を受け止める。膨大な血と羊水と共に産まれた子を人々は見る。 息をしていない。 「私は決して生きとし生けるものの命を奪うことはない。汝を祝福する。安らかなれ、安らかなれ、幸せなれ」 「私は決して生きとし生けるものの命を奪うことはない。汝を祝福する。安らかなれ、安らかなれ、幸せなれ」 「私は決して生きとし生けるものの命を奪うことはない。汝を祝福する。安らかなれ、安らかなれ、幸せなれ」 部屋一杯に泣き声が響いた。 老婆は改めて湯を沸かし始める。 僧は血と羊水に汚れたまま、衣に子を入れ、温めた。 人々は見守る、女と子と、傷とただれた皮膚にまみれた僧を。 かつて死の血で穢れた体は、誕生の血と羊水で清められる如く飾られた。 僧は一礼だけして、歩き去る。 女も子も安らかに眠りに伏した。 人々は何も言わず、その僧の背後に向かって手を合わせた。 アングリマーラは尊重すべき者たちの一人となっていた。 村から出る時、別れを惜しむような子の泣き声が、僧の耳にも届いた。
アングリマーラ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 976.7
お気に入り数: 0
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ポイント数 : 1
作成日時 2019-03-03
コメント日時 2019-03-06
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 1 | 1 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 1 | 1 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
galapaさん、こんにちは。 阿含経の中に出家したアングリマーラが難産の女性を癒したエピソードがあり、それを下敷きに書いてみました。 >「私は正しい生を得てから、故意に生きとし生けるものの命を奪った事はない。安らかなれ、安産なれ」 この個所は、釈迦から難産の女性に唱えるよう言われた言葉をほぼそのまま引用しています。 結果的に穢れが大きな要素となりましたが、エピソードを下敷きにした作品を書きたかったのです。 釈迦の弟子の中でも気になる人物でしたし。 >罵声と投石を投げつけられ ここはご指摘の通りでしたね。変えるべきかなと。
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