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死人は
ノックしている ノックしている 死が ノックしている ノックしている ノックし続けている 私も逃れられぬ 消えたくない絶対欲に駆られ 心が迷いなく 震える ノックしている ノックしている ノックしている 死が コンコンと 迫る
死人は ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1188.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-08-17
コメント日時 2018-08-23
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩は今も刻一刻と誰かに向けて迫っている。そのことを「死がノックしている」との表現。上手い。出来るならばその扉を開けるのはなるべく先でありたいものですね。この内容でタイトルが「死人が」。また良いですね。
0stereotype2085さん 評価頂けて驚きました。ありがとうございます。
0花緒さん ありがとうございます。そうなんですよ。これは基本的に評価頂けないだろうと考えています。強度が宿っていないというのは正にその通りで、詩の肉付けを一切していません。恐らくスッカラカンの印象を受けられると存じます。 兎に角このような愚作にコメント頂きありがとうございます。
0「ノックしている」を三連打すること、「ノックしている」をただ一言だけ置くことでは、大きな違いがあると思う。三連打されることによって何らかのレトリックがあるんじゃなかろうかと深読みさせ、探しているものが無いと判明すれば残念になる。「ノックしている」が一つだけ置かれていたとしたら、つまり、 死人はノックしている この一言だけの方が、レトリックの効果は増すと思う。更にいえば、エモい。大胆だし、作者の極私的な魂と覚悟を感じると思う。
0簡潔な表現。そしてリフレインが奏功を醸し、最適に機能をしていらっしゃられる。 メメント・モリも死語の様なものではございますけれども、 肉体―精神の死、その陰画でもある生きて在ること、絶無に帰趨するべき万有、死の奇跡。 それらに肉薄する為の、主題が佳く伝わってきます。 「コンコン」は昏々でしょう、か。
0「では、どうすればよいのだろうか?」 というのが最初の感想です。 死が迫っているのは、当たり前といえば当たり前なので。 「我らはここにあって死ぬのだと覚悟しよう。そうすれば争いは止む」と釈迦のごとく受け入れるのか。 そうでないならいっそ。 「耽美なる死よ。いつかお前は私に追いつきその甘味に溺れるのだろう。だが、今はその時ではない。ドアに爆弾仕掛けて走り去る」 ぐらいやってもいいかと。
0三浦さん、ありがとうございます。 うーん、残念。確かに残念な作品ですかね。 ノックのリフレインを何らかの技巧と捉えてしまい、浅い内容に愕然となられたと解釈しましたが、 やはり私の勉強不足、技術不足であると思います。
0鷹枕可さん、ありがとうございます。 死を想うことは案外誰しも経験のある事でありましょうし、何か生み出すのであれば一度はそれに迫りたい、と誰しも考えるのでは無いだろうか、と個人的に考えております。 これはその残骸のようなものであります 笑
0羽田恭さん、ありがとうございます。 ではどうすればよいのだろうか? 死が迫っているのは、当たり前といえば当たり前 至極真っ当なご意見です。しかしここからこの問の答えのようなもの、考えのようなものを導き出せなかった。 そこに私の限界がございます。
0この詩では「ノックしている」という言葉が複数回繰り返されて用いられており、その意味ではこの詩の主題は一つこの部分に現れているとみることも可能だと思います。そうだとすると、この言葉は「語り手が閉じた部屋にいること」と同時に「ノックする者との邂逅の不可避性」を示すものでもあり、従ってこの詩では語り手が感じている主題的な恐怖として死の不可避性に焦点が当てられていると言えると思います。そして、同時にこの詩の「ノックしている」という語の選択はそのようなイメージに加えて、他の興味深い影響を死のイメージに与えていると思います。 まず一つ興味深い点は、「ノックしている」ということは恐らく扉の向こうに叩く人物がいるのだと推察されますが、ここでは語り手がその存在を推察する手段は一つも場面の状況として明示されていないにも関わらず、「その存在が死である」と疑念の余地がない形で(「死が/ノックしている」と自然に示されている)認知されている、という点です。扉の向こうにいる存在が見ずとも誰だか分かるのは相手が日常的に良く知られている存在である場合が一つには考えられますが、そうだと仮定するなら語り手は日常的に良く知られている死の存在に不安を覚えているということであり、この一見した矛盾は興味深く思います(死の来訪が既に予定されていた可能性もあるでしょうが、死に限って何時に訪れるかが明確に知らされているといったことはないでしょう)。 また次に、「ノックしている」ということは死の存在は扉をノックできるほどの明確な実態を持った存在として現れているということであり、ここでは死霊や死神などに一般的に与えられている浮遊、すり抜け、などのイメージとは対照的なイメージが与えられている点も興味深く感じます。例えば幽霊の恐怖とは「いつ、どこに現れるか分からない」という点にあると思われますが、ここでの死の存在はむしろそうしたイメージとは対照的であるように感じられ、いつ命を取られるか分からない恐怖とは異なってこの明確な実態を持った死の存在は、果たしてどのような不安において捉えられているのかという点は興味深く思いました。 以上を踏まえ、私の解釈としては、このような「ノックしている」死の存在はむしろ語り手の不安を説明するために持ち出された架空な存在ではないか、と思いました。実際に語り手は「消えたくない!」と急に叫び出しはせずに「消えたくない絶対欲に駆られ/心が迷いなく/震える」と自身の心の内部を冷静に分析することが出来ており、自分の不安を説明しようとする態度で語っているようです。しかし死は、やはりいつやってくるのか分からない不可知なものであり、それ故、説明のために持ち出される死の存在は架空のままであるように思いました。 ただもし以上のような形ではなく、死は「ノックしている」ということに関して別のイメージを付与しようとしていたということであれば申し訳なく思います。後学のためにご指摘頂ければ幸いです。
0日下ゆうみさん、ありがとうございます。 うーん、ここまでこの詩に対して考察なされるとは、瞠若と言いますか、驚嘆と言いますか、兎に角驚きと感謝でございます。 そうですね、「死人がノックしている」のではなく、「死人はノックされている側である」という所はまさしくその通りでございます。 基本的に死というものは偶発的にやってくるか、病等で刻刻と死の接近を感じ続けるかでありますが、健康体であっても死はいつ来るか分からないという偶発性が「ノック」に現れたのだと考えております。確率は極めて低いが、10秒後には死が訪れているかもしれないという事実、実は己の命は吹けば飛ぶようなか弱いものだというこれらをはっと認識すると、突然心の奥底で死が呼んでいる音が聞こえる、コンコンとノックする音が聞こえる、そういった場面を想像して頂けると幸いです。 説明のために持ち出された死は架空だ、とのお考えもその通りです。実際に死が迫っている訳ではございません。むしろいつ扉を破って侵入を許してしまうのか分からない、ここが死の恐怖であるとこの詩で表現したかった訳であります。
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