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七月分選評
詩作品に限らずなかなか言葉が入ってこず、文字の羅列に見えてしまうことがあるから困る。疲れているのかなー、と思うのだけど、なら読もうとしなけりゃいいのに、結局読もうとしている。面倒くさいやつです。そんなこんなをしているうちに読める時があって、時々はゾーンに入ることもあるから、そういう時は詩っていいよな、と思える。そんなこと知らなきゃ詩とつきあうこともなかっただろうにね。幸か不幸か、この腐れ縁は。いまだに詩って何だろうとか、なんで詩とつきあってんだろうと考えるけど、そういう個人的な思いとは別のところで、面白い作品は書かれていて、それらに出会うと、まだまだ楽しめそうだなと思えます。という前置きはほどほどに、七月の選評です。 ◎大賞候補 「ちょうりょく」 なかたつ (7/26) https://www.breview.org/keijiban/?id=2045 最初はたびたび出てくる「?」にひっかかって、とても読みづらさを感じました。で、そのまま読み流してしまったのだけど、七月分選評に際して再度読んでみたら、やっぱり「?」にひっかかる。というか「?」がひっかかる。なんでこんなに「?」なんだ、と。で、ふと思ったんですね。「聞きとりにくいな」と。そのときはそう思ったくらいで、その「読みづらい」(聞きとりにくい)詩作品の〈語り手〉の言葉を「?」にひっかかりながら読んでいるうちに、(あ、耳を傾けているな、私)と気づいた。聞きとろうとしていたんですね、知らないうちに。これがテクニックだとしたら、うまいことひっかかったな、と。ダジャレじゃないですが笑。声がある。声でもって語りかけてるじゃないかってね。そうしたら、〈語り手〉が近づいたように感じたし、とても好感が湧きました。こんなふうに、最初は読み流してしまったものが、後になって大事にしたい作品に変わることは嬉しいことで、それは私が詩とつきあってきた理由のひとつじゃないかな、と思うんです。 それから別の観点からだと、詩作品は書くものだし読むものだと思っている私にとっては(朗読やリーディングを否定しているわけではありません)、書かれた作品がきちんと声をもっていると感じられたことは嬉しいわけです。また、読解の大切さも認めつつ、同時に、その作品から発せられている声を、無心に、そして《必死に、必死に》聞きとろうとすること。それも忘れてはいけないな、と気づかされた作品です。 ◎優良 「のっぺらぼうの町」 仲程 (7/7) https://www.breview.org/keijiban/?id=1984 仲程さんの七月の作品は二作ともよかったです。ラストまでの持って行く仕方がうまいんですね。例えば、 《今年最後の水辺のイカロスは 懐中電灯に気づいてしまい 弱い光でゆっくりと近づいてきてくれた》 (「イカロス(最終連)」) ここ、動いてますよね。動きがはっきり見える。それはたぶん、「しまい」「きて」の効果によるとは思うんですが、見ている〈語り手〉に接近する《水辺のイカロス》の動きが立体映像のように見えます。それまでの各パート(?)の語りは、つながりをもちつつも別のことのように、そして、ひとり語りのように淡々と語られているのが、最終連でフッと外界とつながる(動く)。「のっぺらぼうの町」も同じような構成なんですね。 《と 願ったとたんに のっぺらぼうの町は消えて 今年の蝉が鳴き出した》 (「のっぺらぼうの町(最終連四行)」) ここに至るまでに見てきた、人びとの奇妙な様子や思考の流れがあって、この四行が活きているのだけど、《蝉が鳴き出》す。やっぱり外界とつながっている。恐らく蝉はその前から鳴いていたのだろうけど、《僕》には聞えていない。それがある時点で、ぱーっと意識される。そこの変化(動き)がやっぱり立体的に表されています。「イカロス」のようにいくつかのパートに分けてではなく、ひとつのタイトルの中で、「動き」のある作品ということで、こちらを選びました。 「ビサイド」 蛾兆ボルカ (7/7) https://www.breview.org/keijiban/?id=1979 この作品については、コメント欄でそこそこ書いたので、改めて書くのもどうかと思うのですが、技術について。詩作について技術云々というと、どうも顔をしかめる方がいて、技術アレルギーというのがあるのかしらんと辟易してしまうのですが、身体でいうと、前腕を内転させると胸が凹むのは構造なんですね。で、身体を使ってボールを投げる時、まず前の腕の前腕部を内転させると勢いがつく。なぜなら胸が凹む=溜めができる、からです。知らないひとから見ると、なぜそうなるのかわからない。とにかく、構造と技術とは結びついていると思うんです。そんで、達者なひとはそれをこれ見よがしにやらない。さも当たり前のことのようにやってのける。だから、わからないのだけど。言葉、あるいは詩のボディと技術。この作品の良さはコメント欄を読んでくれればわかると思います。そのほかにこんなことをも考えさせられたという作品です。 「徒然草」 田中恭平 (7/16) https://www.breview.org/keijiban/?id=2011 いや、長い。行分けでこうも長いとダレてしまうのですが、三回目くらいのトライでついていけるようになり、よい作品でした。時々起こる「笑い」。ここにぐっと引き寄せられました。照れとも自嘲ともとれる、この笑い。その奥にやや灰色がかった目の色まで見える気がした。口語体でこんなふうに揺さぶりをかけてくる作品を書くのは私には無理だなあ。 ◎推薦 「大阪のミャンマー」 地()球 (7/26) https://www.breview.org/keijiban/?id=2043 たくさんの方々がコメントしている通りです。改めて付け加える必要はないですね。読んで気持ちよい作品です。 「輪廻」 桐ヶ谷忍 (7/3) https://www.breview.org/keijiban/?id=1961 内容の解釈云々よりも〈私〉の語りとは別のところで動いている厳然たる時間の動きを感じました。 「命名」 二条千河(NIJO Cenka) (7/17) https://www.breview.org/keijiban/?id=2022 言葉の第一機能は名付けることだと言ったのは誰だったか。わたしも様々な側面をもつ存在に対してひとつの名を与えることに抵抗を覚えた時期がありますが、その名によってこそ呼ぶことができる。暴力と呼ぶ語り手の優しさを感じました。 「Y」 蔀県 (7/11) https://www.breview.org/keijiban/?id=1992 いつ終わるとも知れない漠とした時間の感覚。でありながら、突然終わってしまいそうな予感。こうした時間感覚を味わわされました。やっぱりアレです。怖い作品です。 以上、拙い選評でした。あー、澤さん、ごめんなさい!では仕事に戻りますm(__)m
七月分選評 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1109.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-08-15
コメント日時 2018-08-19
藤一紀さん こちらの選評を読んで思いました。やっぱり上手い人、文章を書くことが元から上手い人っているよなあって。私は今日、自分は文章が下手クソであることを自覚することにしました。そんな夜にこの藤一紀さんの選評作品を読みました。もう一回、謙虚に書くことを習得しようと決意にいたりました。ありがとうございます。
0三浦⌘∂admin∂⌘果実さま おはようございます。コメント、ありがとうございます。文章を書くのが上手な方っていますよね。いったい何を食ったらそんなうまい文章書けるんでしょうね、と思いながら、午前5時にカップ麺は食っています。彼らはもっと違うものを脳みそに食わせているにちがいありません。 私は文章を書くのが苦手だし、真面目なことを言うのも柄じゃないと思ってきたし、思っているので、例えば今回辣腕を振るわれた澤さんの文章などは、私から見れば批評というより「ウヒョー」だし、アプローチは「意表」と言いたくなる。そのくらいの意匠を感じさせてくれます。今回は忙しさもあり、また選評の冒頭に書いた通り、作品を前にしても読める時と読めない時とがあるのを理由に見送ろうかと考えていたところ、澤さんの手招きにつられて、意匠どころか「どうしよう!?」という感じでした。しかし、どんなものでしょうね。私のような文章でも選評に加われるということなら、これを読んだ方々も自信をもって選評に踏み込めるように思います。そうやって作品の豊かさが膨らんでいくことは楽しいことのように思います。 コメント、改めて感謝します。
0ご推薦ありがとうございます! 名付けという行為に何かしらの引っ掛かりを覚えてしまうのは、それが言葉の機能の根幹に関わるものだからなのか…と、ご講評を拝見して思いました。 余談ですが、他の方の作品に対するご選評も、毎回楽しみに拝読しています。お忙しい中、お疲れさまでした。
0▼大賞候補「ちょうりょく」評より 【最初はたびたび出てくる「?」にひっかかって、──中略──(あ、耳を傾けているな、私)と気づいた。】 ひっ批評というより「ウヒョー」ですNEーーーーー!! 巻き込みワクテカお待ちしておりました藤さん。選評書くため全作読みはしたが、当然まともに読めてない作品が多勢なので、藤さんの選評と併読しました。わたしのヒヒョーも上記ほどウヒョーな域に達したいものです…………。 ▼蛾兆ボルカさん「ビサイド」評より 【詩作について技術云々というと、どうも顔をしかめる方がいて、技術アレルギーというのがあるのかしらんと辟易してしまうのですが、 ──中略── 構造と技術とは結びついていると思うんです。 】 わたしは当該作品の【「とにかくそうなんだ」感】を「気づき」の所産としか思わなかったので、それを技術や構造と捉える藤さんのアプローチが「意表」です。この作は偶然の産物ではなく、必然の結果なのですね。もちろん構造は技術の産物だと思いますが、それは職人芸のような言語化できない直感ですから、つまりたしかに必然です。 ▼二条千河さん「命名」評より 【わたしも様々な側面をもつ存在に対してひとつの名を与えることに抵抗を覚えた時期がありますが、その名によってこそ呼ぶことができる。】 この批評が最も意表を突かれ、正直言うと度肝を抜かれました。わたしはまさに【その名によってこそ呼ぶことができる】ことを根拠に、賛同できないという理由で(とても気にはなったのだけれど)この作品を外してしまったから。 わたしのような偏狭な人間が権力を持たなくてよかったと心の底から思います。藤さんを巻き込んだ甲斐がありました。巻き込まれてくださってありがとうございます!
0二条千河(NIJO Cenka)さま コメント、ありがとうございます。『創世記』に「光あれ」と神が言うと「光」が生まれるでしょ。そんなふうに「言葉」によって「それ」を呼ぶことで呼ばれたものが生まれる。そんなわけで「名付け」は言葉の第一機能だというんですね。その次に第二機能としての区別があるらしい。いかにも西洋風ではありますが、まあ、意識が不分明な状態ではAもBも「それ」であって明確ではないのが「言葉」を得ることで事物存在として認知され、AとBとは違うことがわかるようになる、その作業の繰り返しで外界に対する認識が形成されていくと考えれば、頷けるところもあります。なので、事物存在が先か、言葉が先かというと少なくとも人間にとっては同時らしいんですね。 それはそれとして、名は付けられるものであり、刻まれるものであり、記されるものという点でいえば、「傷」であり、「印」でもある。そういう意味では、《刺青》《烙印》というのは正しいし、名付け行為のもつ力の強大さを示していると思います。また、その名によって存在を縛る意味では「呪い(シュ)」とも言えます。しかし、その名をもって我が子とする喜びもあるから、思えばなかなか罪深いことです。ただ、深く痕跡を残す「傷」を与える者と与えられる者とが、それによって以降「絆」で結びつくと考えれば、やはり哀しみばかりではないと言えるでしょう。とはいえ、「登録」することによって、当人の思いも及ばないうちに体制に組み込まれてしまうと思うと、名付けに伴う喜びや哀しみとは別に、怒りのようなものまで湧いてくる。だからこそ、《出生届》はやんわり差し出すよりも、堂々《突きつける》べきなのかもしれませんね。 名前といえば、思うところはいくつかありますが、長くなるので一つだけ。「傷」であるはずの「名」が、宇宙の誕生から歴史を貫いて、未来永劫にいたるまで、一回きりしかない存在のかけがえなさを表す「証書」のように輝く時があるのではないか。ということを映画『君の名は』を観た時に思いました。
0地()球さま コメント、ありがとうございます。 さて、 《大阪のミャンマーはやたらに生真面目な青年で、直立不動がよくにあう。まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている(という。)》※()は藤 いま、一連目を抜き出してみましたが、この一連目だけでも、不思議な浮遊感があります。で、どうしてそう感じるのか考えてみました。例えばですが、《やたらに生真面目》ではあるけれども、どんなところがそうなのかという具体的なことが書かれていません。そして《やたらと生真面目な青年》であることと次の《直立不動がよくにあう》ということとは、叙述においては一連の繋がりをもっているものの、内容としては直接関係がない。そこで以下のように書き直してみました。 ①大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である。 ②大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う。 ③大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している。 ④大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである。 ⑤大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている。 このように①~⑤を分けてみると、それぞれが独立した文として読めますが、残念ながら詩情らしきものは特別感じません。ところがこれら独立した文を読点や接続詞で繋げると、 《……まいにち夜の公園で詩を朗読しているから、はたからみるとちょっとあれで、しかも時々に勝手に感極まって泣いている》と、さも《大阪のミャンマー》について語っているかのような文体ができあがります。しかし③と④とが「から」で結びつけられる必然的な因果関係は省かれていて、さらに④と⑤も「しかも」で追加されなければならない決定的な理由がない。つまり《大阪のミャンマー》について語ってはいるものの、一連目全体を通して私たち読み手が彼を知るための詳細についてはどうも述べられていないように思います。私はこれほど《大阪のミャンマー》に関する情報を与えられながら、彼のことが少しもわかった気持ちになれない。不思議です。たいていの場合、語りがすすむにつれて、実像が少しずつ近づくはずなのに、この作品では、どんなに進んでも距離が縮まらないままなのだから。いえば幻か蜃気楼でも見ているような印象でしょうか。そして()に入れた「という。」 これは誰がそういったのでしょう? 実は、書かれたしかじかのことを、誰かがいったのかもしれない。あるいは噂のように入ってきたのかもしれません。そのように聞き及んだことを語り手が語っているのかもしれない。 すなわち、 ①(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはやたらと生真面目な青年である、という。 ②(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは直立不動がよく似合う、という。 ③(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーはまいにち夜の公園で詩を朗読している、という。 ④(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーははたからみるとちょっとあれである、という。 ⑤(私が聞いた)話では、大阪のミャンマーは時々に勝手に感極まって泣いている、という。 こういった断片を、あたかも私が知っているかのように連ね、しかも最後に、「という。」として、「私ではないよ」とはぐらかしているために、読み手としては「ん?」となってしまうのではないか。 いずれにしても、《ミャンマー》について語りながら、知りたいと思っていることについてはまるで巧妙に回避しているかのように、知らされないのです。私が知ることができるのは常に断片的な情報であり、「なぜ」や「なんのために」などといったことは伏せられています。先に第一連をあげてみましたが、こういった特徴は作品全体を通して見いだすことができます。というか、それによって作られていると言ってもいいのではないでしょうか。 それで、です。 通常の文章に関して言えば、大抵の場合、 「なぜ」や「いかにして」などを書くのは意味内容の伝達のために必要とされていて、省かれることなく、また論理は一貫性をもっていて、あっちこっちに飛び回ることはありません。そのため、読み手は知りたいことを知ることができる。ところが、この作品においては、省かれてしまっているばかりか、論理的な一貫性もない。つまり、読み手である私が知りたいと思っていること、通常の文章であれば明かされるだろうと無意識的に思っているあり方(日常的な言語理解のあり方へのとらわれ)に反しているため、その都度「ん?」とか「あれ?」といった空白感をもたらし、読めば読むほど空白感が増えてしまう。結果として、読み終えれば空白の総量が意識の底を占めているということになり、それが不思議な浮遊感につながっているのではないか、と思い至ったわけです。これは言い換えれば、日常的な言葉のあり方へのとらわれからこっそり解放されていることであり、そうであれば気持ちよく感じるのも確かなように思います。 長々と書いてしまいましたが、それとは別に「ミャンマー」という語感、いいですね。知人に「プードル」という語感はいい、といわれたことがありますが、「ミャンマー」も負けず劣らずいい。選評に書いたコメントの、非礼へのお詫びもかねて、大盛りにて返させていただきます。何卒、ご寛容を。
0澤あづささま コメント、ありがとうございます。まさか「選評いつですか」と来るとは思っていなかったから、シテヤラレタ!とばかり笑ってしまいました。私の場合、澤さんのように的を得た読解というのはできなくて、「どうかすれば海に飛び込んで揉みくちゃにされながら、なんとかかんとか手に触れたものを掴んで陸にあがり、ゼーゼーしながら、持ち帰れたものを恥ずかしながらお見せする」みたいな感じです。さしずめ出来の悪い「素もぐり」てやつでしょう。 「ちょうりょく」への選評コメントは、読みの過程そのままです。引っかかりながら何度も読んでいく中で、ようやく「手に触れた」もので、そこから強引に引き寄せたものです。もうイッパイイッパイ。 「ビサイド」の「とにかくそうなんだ感」(just so-ness !)についてですが、冒頭からの「語りかけ」と行空けののちの一行《わからなくても/伝わらなくても》といういくらか諦めをも含んだような詩行、そして、一行の間(ま)を溜めにした明言へのジャンプが、私にそれがあると気づかせた、ということですね。気づきという経験は主観的なので、それがどんなに情動を伴うものであれ、その発話自体は「そのような経験をした」という〈事実の報告〉にしかならない。それを【読み手である私が「これは“Just So-ness!”だ」と気づく】には、技術が必要になるんじゃないかということで、そのためにはそれを活かしうる言葉の構造の追求がいるだろう、ということでした。 「命名」のご指摘の箇所について。先日、エミリ・ディキンソンを描いた映画を観ました。《私は誰でもない、あなたは誰?》《誰かになるなんてごめんだわ》と語るシーンがあった。あれはあれですごいのですが、それほど「誰かであること」には重さがあるということではないでしょうか。田中宏輔さんにも「君の名前は」という問いかけがつづく作品がある。しかも田中さんはそれを集めることを続けています。単純にいえば、やっぱり名前によって皆、「誰かである」ことを理解するのだと思います。その重さに対してこの作品の語り手は悦びも感じつつ、罪深さにも自覚的で、だから《暴力》という。優しいと思うなあ。 《突きつける》くだりでは、赤ちゃんがオギャーと「天上天下唯我独尊」と叫ぶとき、「我が子ここにあり」と出生届が吠えるようでもあります。それを仮の名として、やがて真の名を得る(『ゲド戦記』)日がくるとしても。 ついでだから十年ほど前に書いたやつを。 「きみの名前を囁くと」 朝焼けの光に飛びこむように いま一匹の 魚が空に跳ねた 鱗は金色 世界が割れる まるで卵そっくりに 私は耳を澄ます まっさらに塗り替えられた血液が早鐘のように 清らかな声で号外を告げている 巻き込んでくれてありがとうございました。へとへとなったけど楽しかったです。
0仲程さま コメント、ありがとうございます。言葉でつくられた空間のなかで動きを実現させるのはそう簡単ではないと思います。田中恭平さんの『徒然草』から引用させてもらうと、 《言葉が 文字にされて 死んでいる》 ことも時にはあるし、死んでいなくとも動いていないことはまったく稀ではないように思います。無論、私自身のものも含めて。「動いた」と書いてもなかなか動いてくれないのが言葉です。動かざること言葉の如しと言いたくなる。 だから、動きがはっきり見えた時にはドキン!とします。ドキンちゃんです。解釈よりもそちらの方が私にとっては大きい。ひとつの作品がいろいろな読み手によって膨らんで豊かさを増していくと嬉しいですね。詩作品が共有されるというのはそういうことなのかなぁと考えています。
0こんばんは。私なりの気持ちいいの根拠、伝わったなら何よりです。 事細かに書きましたが、それとは別に好きな詩行はあります。そこは既に書かれていたので重複を避けました。 実話でしたか。小説より奇なり、とはこのことですね。そしてよくある実話に比べ、味のある実話で、よい作品です。
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