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隔てて
河を隔てて 時を隔てて 僕のようなものが一枚噛ませてある 遡ってその人に 尋ねてみたいこと一つ どちら様ですか? 不意を突かれて先越され 回答者に成り下がる 問い続けるというシルエットの頃 僕が懐かしい どちらが影かも分からずに 生きていて を 隔てて 堪えるんだ を 隔てて 宛がった僕と僕 ガーゼが足りない僕の僕 滲む答え 滲むアンサー ひっくり返すには この隔たりもどかしく しっかり捺印してしまう 豊 曲がり豆と書きます 僕を隔てて 僕が言ったのは 自分の名前なんてオチじゃ 噛ませた甲斐も意味もない 名無しの権兵衛を隔てて のっぺらぼうを隔てて また 振り出しじゃないか 河にいて 時のすみっこで
隔てて ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1886.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-07-05
コメント日時 2018-08-14
項目 | 全期間(2024/11/22現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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技巧 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
蔀さんがリズムについて言及されていますが、今までの投稿作品に比べて、格段に口調が良いですね。流れるような、弾むような、それでいて、いわゆる五七調などに固まってしまっていない。緩急もある。 「を/隔てて」という、つまづくような、引っ掛かりを作るリズム。書名捺印する、という責任の伴う行為、曲がり豆と書きますと、電話口で自分の名前を説明する口調を挿入するズラシ具合、間に噛ませる、という当て物の感覚と、自分自身が当て物として間に噛まされている、という奇妙な体感と・・・その隔たりは、時空であり、河が暗示する彼岸であり・・・。 全体に漂う、ひょうひょうとしたユーモアが「奏でる」口調・・・~節(ぶし)と呼ぶようなリズム感が印象に残る作品でした。
0※このコメントは7月選評です。作者様でなく閲覧者に向けて書いています。※ わたしが思うこの作品の魅力を、どうにか人様に伝えたいのですが、後述の理由ですこぶる困難です。ひとまずデリダの「署名」や、『涼宮ハルヒの憂鬱』の未来人の「時間平面」が思い起こされる、というところから説明を試みます。 思っきり恣意的に平たく言うと、時間やら歴史やら「自己」やら言うのは、パラパラまんがのように「連続して見えるが一瞬一瞬で独立しており不連続である」。たとえばわたしが地点aから地点bまで移動する姿を、50枚の連続写真で表現したアニメーションがあるとします。その50枚の写真に映ったそれぞれ異なるわたしの姿の「どれが本当のわたしか」なんて問いには、意味がまったくありません。そのように「本当の自分」とか「自分を偽る」とか「自分探し」とかいう概念は無意味で、きょうの自分があしたも変わらず継続する保証はどこにもなく、自分なるものの真相は自分にもわかりません。という感じ。 その「同一でない無数の自分」の同一性(連続性)を便宜上保証するものの一例が「署名」です。作中ではそうした概念が、下記のように表現されています(というのはわたしがそう思ったということで、作者様とは関係ありません)。 【僕を隔てて/僕が言ったのは/自分の名前なんてオチじゃ/噛ませた甲斐も意味もない】 ●読解(というのは読者の表現であり、作者様とは関係ありません) 【河を隔てて/時を隔てて/僕のようなものが一枚噛ませてある】 冒頭三行の表現から想起される情景は「三途河」、生死の境です。おそらくこの語り手は、人生観がいっぺんで(おそらく望まなかった方向に)一変し、自分が自分でなくなったようにしか思えなくなるような、なにかしら衝撃的な経験をしたのでしょう。 【生きていて/を/隔てて/堪えるんだ/を/隔てて/宛がった僕と僕/ガーゼが足りない僕の僕】 ここが特に印象的。【生きていて】の持つふたつの意味(現在と願望)と、【僕】の持つふたつの訓(「ぼく」と「しもべ」)が非常によく効いています。いま心が空っぽでなにも考えられない、もう以前のままではいられないのになにもできないと言った抒情が、「(いまの)僕に(過去の)僕の宛てがう」という、迂遠だから印象的な情景に集約されています。 「変わらなければならない、だが変われない」、平たく言えばそうなるかもしれませんが、平たく言って片付けることができないほど重い感慨だから、こういう叙述になっているのでしょう。説明も心理描写も削ぎ落とした「起伏」しかない思考の波。あたかも脳波です。それしか表せないほどの虚脱が強く感じられます。 ●結論 名状しがたいものは説明できません。器用に説明できるならそれは「名状しがたいもの」ではありません。しからばそれは抒情詩ではありません、とわたしは思っています。この評文が説明になっていないのはそれが理由です。
0わたしは 本作品を小旅行の移動中で拝読しました。なんというか、 旅の目標地に行く時よりも 帰途の移動中のほうが この作品が胸に きました。 帰途とは振り返る時間だからだと思います。 旅を終えようとしている道すがらって「僕のようなものが一枚噛ませてある」という表現が ぴったりすると感じました。私は旅先で写真をいくつも撮ったのですが 脳裏に残したい事柄には写真になった自分という視覚だけの存在ではなくて、本当は リアルなもうひとりの自分を残したいという思いがあります。 だれしも五感を有するもう一人の自分が記憶には噛ませてあるに違いないです。なにかの拍子に もうひとりの自分が息をふきかえす。 傷の癒し方のひとつに ガーゼをあてがうという方法がありますが、 記憶の中から もう一人の自分に息を吹き返してもらうことも 傷の癒し方の一つだと思いました。 そうこうしつつ、 またも振り出しに戻るなんて 上等じゃあありませんか? すくなくとも私は自分の人生に対して 振り出し上等だと思わせていただけました。
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