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フィラデルフィアの夜に Ⅵ
フィラデルフィアの夜に、針金が踊り出しました。 それは一人の白い服の浅黒い肌の男。 異国の歌をかすかに口ずさみ、足を遠心力につけて振り回しています。 かすかに人の形を取る針金が、男に合わせ、足を高く振り上げ空気を切り裂きました。 誰もいない街角。 誰も入らない突き当たり。 白い服の浅黒い肌の男が、針金を手に現れ、それを放り投げました。 動き出します。踊り出します。 知られていないステップで。知られてない腕の振り方で。 後ろを振り向き屈み、足を人の頭の高さに。 両手をついて、逆立ちして回転力のままに両足伸ばして、独楽のよう。 片足着いて、もう一方、人の顎、その高さ。 ピュンピュン音鳴り出す。 針金、人の形作りだし。 男のステップ。男の腕の振り。そのままに。 針金足蹴り上げ。 男はそれに合わせて足、下、伸ばし。 針金飛び跳ね、横回転。蹴り。 屈んで男、つま先、天に向け。 ねじり避け、針金。着地して距離を取る。 踊る男。踊る針金。 回る針金。回る男。 歌う男。歌う針金。 男はペレレ、ペレレと口ずさむ。 何の意味なのか、何の歌なのか。 針金、ピュン、ピュンとリズム。 同じ様に、同じなリズミカルに。 それは奴隷の踊り。 舞いとして隠した、祖先の闘いの武器。 遠く離れたここ。 孤独なここ。 今はただ、針金と踊る。 男が去り、また静かに。 針金はただ、地面に転がる。 もういない。 男はもう来ない。 本当に誰もいない街角。 誰も来ない突き当たり。 ただ針金が、そこに。 ただ針金がそこに立っている。 細い針金に、廃材を絡みつかせ、毅然と立つ。 誰も来ない、そこ。 男が、誰かが来るのを。 見つけてくれるのを。 踊ってくれるのを。 今は、じっと待つ。
フィラデルフィアの夜に Ⅵ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1030.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-05-22
コメント日時 2018-05-31
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
映像がくっきり立ち上がって来る作品になっていると思いました。 「男」が、作り出そうとしていたものは、なにか。そこにファンタジーが及んでいる。 「男」が手品師のように「針金」に命をあたえ、「男」が共に踊っている間だけ、「針金」は「男」の幻想を現実化する・・・ 針金、が文字、であるなら。「男」は詩人、ということになるでしょう。 散文は歩行、韻文は舞踏、とたとえた詩人がいましたが・・・イメージを現実化する、ということを考え続けた作者が「見た」景色を、共に見ているような感覚を覚えました。
0まりもさん、こんにちは。 >針金、が文字、であるなら。「男」は詩人、ということになるでしょう。 なるほど、その解釈は面白い! そう言われれば即興で体を使って、詩を詠っていたといえるかもしれません。 元ネタは、ブラジルの格闘技でもあり踊りでもある、カポエイラです。 もっとも、昔立ち読みした入門書と格闘ゲームと格闘家のマーカス・レロ・アウレリオぐらいしか知識ないんですが。 即興芸術とカポエイラの競技者は称すので、まりもさんの解釈はあっているんですよね。 実際のフィラデルフィアにもブラジル移民はいそうですし、カポエイラを自らの支えにしていてもおかしくないかな、と思い書きました。 ちなみにペレレというのは、片足の妖怪の事で、片足ばっかり使っているとそれをはやす意味もあってそういう歌詞の歌を周囲が歌う場合があるとか。特に意味もなく歌う事もあるそうですが。 (カポエイラは競技中、周りを人が囲んで楽器を演奏したり、歌を歌うのです)
0こんにちは。しまった!昨晩読みながら、カポエラみたいだと思っていたのです。先に書かれていました。 カポエラは両手を繋がれた奴隷たちが、密かに編み出した格闘技ですね。ぐるぐる回って、足がダイナミックに動くし、為政者の目を隠すために舞踏を装ったと読んだことがあります。リズミカルで、ステップもダンスみたいだし。その様子が言葉でくっきり現れています。昔、NHKで深夜に流れていたなあ。 舞踏といえば、舞いというのカポエラがいつか立ち上がる日のための対抗手段であったように、為政者の暗殺手段として物語に使われますね。踊り手はもっとも狙う相手に接近できるし、いかに勇壮でも舞いと思って見る限り、警戒は薄れてしまう。そう考えると、舞踏というものは華美な外見で偽装して周囲を欺くところがある。 ときに、偽装された外見が主流になって、本来こめられていた意味が忘れられつつある状況においては、影を相手に舞いながら見つけられる日を待つしかないのだから孤独ですね。 私たちは何かを忘れてきているのではないか、などと考えてしまいます。
0藤一紀さん、こんにちは。 それでもカポエイラをしているその時は、理屈なしで楽しいかなと。 この作品では、孤独な中で針金相手にやっていたわけですけど、人生の支えになったなだろうなと。 楽しさを忘れなければ、根本は間違えない気がします。 仲程さん、こんにちは。 なぜヒエロニムス・ボスの混沌とした世界が浮かんだのか、わかりませんけども。 かなり静かな世界観の作品だと思うので。 (いや、悪くありません。ユニークだなと) 気に入ってくれてなによりです。
0仲程さん、再びこんにちは。 神聖代なる小説は知らなったのですが、ボスの「快楽の園」が絡んでいるようですね。 ちょっと興味湧いてきました。 今回の作品とどうリンクしてしまったのか、気になります。
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