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Elegy
--コタンコロカムイがチセを失って久しい、冬ではない日々に。 【一】 オンコのゆるやかな代謝を観測する 生まれ変わらない死細胞の中の 物憂さを啄む 番の雉は もうここには居ない ナナカマドの ほの甘いつぼみに鍵をかけた 明日を知らない鍵っ子は一人ミンタラをのぞみ 飴せんをかじっている 青い蛇がマンホールに乾いた オパールのきらめきを吹き飛ばし 赤毛の狐の太い尾の裏側に佇んでいた グズベリーは拗(こじ)け 実をつけず枝葉ばかりおがるようになり 大人たちが不格好なオンコを二本 根本からばさりと伐った為に 雀は自殺することを忘れてしまった 【二】 笹を摘み、 フキの、葉に沈む、白い髪、 差し出した、手、裂かれ、 た、木漏れ日、 鉈の、 音、担ぎあげた、フキに、 旗めく、蒼、 の、幻想、 にじむ、朝、 露に、 焦がす、笹舟の、積みかえる、 蒼い屋根、おかした、不可逆の、 とおく、森の、 虚(うろ)、 誇り、 ミズナラの、くずおれ、 沢に、骨肉も、 とけて、 巡る、 蒼い途、 に、 花を供えた、裸足、撫ぜる、幼生、 の、泳ぐ銀の風、処女の、 指先、緋く、濡らし、 洗われた、 笹は、 あでやかに躾けられ、 内地に、料亭に、辱しめられる、 と、 雀は、無音の朝を遺し、旅立つ、 腐った朝露、 紡ぐ、小さな、 【三】 昔の人の植えた白樺を悪くいう男が嫌いだった 例えそこがゴミの墓場であっても 見えない所に魂を植えつける 命の習性に従って地中に空を描いていた 白樺の塩基とは無縁の日常を 爪を一枚一枚剥ぐように 呪う 男はある春 腹に蒸留した傲慢をチェンソーに注ぎ 白樺を切り倒すと 広くなった空を満足そうに仰いだ その春の終わる頃 西日に追い立てられた彼は ホームセンターで真っ黒な日除けを買い 彼の妻はいつも通り そよぐカモミールに空模様を訊ねていた * * * 雀が留守の隙に 傾いだ餌台は古傷をさすりながら 事実だけを風に書き留めている あの冬 白樺は持ち前の愚直さをもって 電線には目もくれず 硝子のてんとう虫を星空へ還そうとしていたという そんな白樺に 私はずっと憧れていたらしい 青空を透かした 雀を頬ばった 餌台ではない白樺に出会った 小さな夏のはじまりから 【四】 狼がほんとうの伝説になり、雀に見限られた街は曇りが似合う。 ここに星を見る人がいないのならば、空は低く低く、 自衛隊と街明かりを映していればいい。 【五】 死細胞を積みあげた水路に 百年前のミンタラを抱いた雪が流れていった 向こうの ナナカマドを揺すった雉は今 妻ではない女と頬を寄せ猟師の家に眠る とおく 乾いた風を黙読した 雀は死をおそれてポプラの葉に潜り うつつから解脱した背の低いオンコの 甘い肉を削いで食べた私は黒い毒を吐き捨て 明日死ぬ為に今日を生きる 昔の私が今の私の為に死んだように ゆるやかに 死細胞の中の物憂さを弄び とおく 笹舟に乗って去りゆく 処女の願いに石を投げ笑った 異邦人の血は雪融け水に混ざり 百年後のコタンを潤す アイヌモシリに埋葬された小川の冷え冷えとした 礫のすき間に生まれ変わらない螺旋は沈み 間引かれた畦道のとおく 孤雲のまぶたをふるわせる あおい 蛙の慟哭が とおく……とおく…… 【終】 雀や、すずめ、帰ってきたか。 雉や、きじきじ、まだ孵らんか。 むかし鳥を射つ弓として生きた、 死と再生を背負う常磐木、 その果肉は甘くやわらかで、 その種は致死の毒、 いつか再び死ぬ為に、 いつか再び生きる為に、 リサイクルするたび純度は落ちる。 再生とは復元ではないのだから、 死を、 愛さずにいられようか。 雀や、すずめ、どこに死ぬ。 雉や、きじきじ、どこに生きる。 ずぶ濡れのウスユキソウの亡骸を、 死にきれなかったノムラモミジに捧げた、 蒼い指先、割れた爪、 戦闘機に引っ掻かれた青硝子の、 微細な欠片がチリチリと降り注ぐ、 演習場のアリアに己が子の耳を覆った、 蛇の卵のようなキノコの物語を、 私は忘れやしないだろう。 雀や、すずめ、また明日。 雉や、きじきじ、またいつか。
Elegy ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1211.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 11
作成日時 2018-05-10
コメント日時 2018-06-20
項目 | 全期間(2024/12/27現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 4 | 4 |
構成 | 3 | 3 |
総合ポイント | 11 | 11 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 2 | 2 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 4 | 4 |
構成 | 3 | 3 |
総合 | 11 | 11 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
大作の組ものですね・・・ 現代版の神謡集、といった趣でしょうか。 2節の、途切れがちの吐息混じりのような流れが面白いのですが、他の節ではそれほど文体には差がないのですね・・・最後に、歌うような呼び掛けが繰り返され、連祷となっていきますが、さて。 神々の宮居を失って久しい、その喪失を単純に歌う「哀歌」ではなく、どんな状況にあっても死と再生が繰り返されてきたし、これからもそうだろうという「ことがら」を歌うことによって、その「ことがら」の実現を希求する、祷の歌であると思いました。 自衛隊の基地が挿入されるリアルが、自然界で繰り返されてきた廻りに、何らかの影響を及ぼしている/いない、そのあたりの判断が、あえて曖昧に残されているように思いますが、 >演習場のアリアに己が子の耳を覆った、 蛇の卵のようなキノコの物語を、 私は忘れやしないだろう。 語り手が世紀を越えて生き続ける神的存在の位置に置かれているようなフレーズもあり、他方、いま、引用したように、未来の地点から「既に起きてしまった出来事」を振り返る、という形で、現状を憂うようなフレーズもあり・・・畏怖の観念も自然への敬愛も(自然からの恵みも)薄れていくような「廻り」を批判的に嘆き、戦闘機が青空を(硝子を割り砕くように)飛び交うような世界ではなく、かつての平穏な世界(神々の庭、のようなイメージでしょうか)が再来しますように、という祷の歌、なのでしょう。 ゴールデンカムイとの関連については、正直なところよくわからないのですが(スマホから打っているので、評が同意反復している懸念もありますが)アイヌ語を積極的に取り込むことが、象徴性を高める効果になっているか、エキゾチシズムやムードの招来に傾いていないか、今一度、検討の必要があるように思います。
0まりもさん、コメントありがとうございます。 集落を守っていた神は今、守るべきアイヌの集落も、シマフクロウとして暮らす為の巨木も失い、人に保護される一方、私を含め移民(和人)の子孫はそれなりに豊かに、便利に暮らしています。自衛隊、アイヌ、屯田兵。どれも地元という意味では身近です。戦闘機のアクロバットは純粋にカッコいいと思えるのですが……私には人間を批判あるいは称賛する事は出来ません。 人の生死を含め様々な事を些細なもの、時代の移り変わりは必然であると受け入れているつもりですが、変わってしまう事の寂しさ、かなしさは無くならず、自分の無力さを嘆きたい日もあります。ならばせめて、私の見聞きした今と今までを覚えておきたい。そして、出来れば誰かに知ってもらいたい。 アイヌ語について。 日本語にうまく置き換えられなかった言葉に使用しています。他の外国語のカタカナ表記と同等に扱っており、本来の書き方とは異なりますが、あくまでも日本語の詩なのでご容赦頂きたく……。 ゴールデンカムイ他北海道を舞台にした諸々の作品とは無関係ですが、エキゾチシズムを語る前に、私がケルト文化の影響も受けている事を告白すべきでしょう。また、死と再生について、例えば、タロットカードの死神の「再生」がステップアップする事も指すように、この詩もそのイメージに近いものがありますし、仏教徒なので仏教の影響も受けています。 一つ気になったのですが、「神々の庭」という言葉……カムイミンタラのカムイ=ヒグマという事は、ご存知でしたでしょうか?
0仲程さん、コメントありがとうございます。 気に入って頂けて嬉しいです。 カムイは結構有名ですが、最近だとチセも浸透しつつあるかなぁと道民フィルターを通してみています。当初は、ミンタラ、コタン、アイヌモシリは場所を表す、とだけ察して頂ければ十分と思い注釈は付けませんでした。 アイヌ語に限らず気になる点がありましたら、お気軽にどうぞ。
0おはようございます。 アイヌの言葉は、残そうとする人々がいらっしゃって初めて、口承で伝わっていると聞いています。さぞ、単語のひとつも 大切な思いがあるのでしょう。 わたしのアイヌに対する知識は、テレビで放映されていた「アイヌ ネノ アン アイヌ」と題した番組をみたことがあるのと、一度だけ北海道旅行のときに アイヌの方々による演奏を聴いたことがあることぐらいですので、アイヌについてなにも知らないといっても過言ではありません。 この詩を拝読し、アイヌについて もっと知りたいという衝動にかられました。 たとえば、死と再生を背負う常磐木、……とは 冒頭のオンコ(イチイとも言われる植物のことでしょうね) イチイの果肉は甘くやわらかで、その種は致死の毒があるのですね。その植物も初めて知りました。 R さんにとって 自衛隊基地、アイヌ、屯田兵は 身近でらっしゃるとの事。 わたしは、東京に住んでいた頃に 米軍基地の近くに住んでいましたので 戦闘機の爆音は理解できます。わたしも戦闘機の姿をカッコいいと思ったことがあります。ですが、あの爆音だけは いただけません。≪演習場のアリアに己が子の耳を覆った、≫と書いておられるのは、とてもよく理解できます。あの爆音を【アリア】っておっしゃっているところに、衝撃を受けました。アリアとは凄いです。神表現だと思います。 それにしても、この詩は私にとって 難解でした。 私とRさんとでは、生物知識やアイヌの知識に 大きく隔たりがありすぎるのだと思います。Rさんが 既存のアイヌの伝統による知識で書かれているのか それともRさんの独特の詩的比喩表現なのかが曖昧でよく解らないことが、私には多々ありました。 ≫青空を透かした ≫雀を頬ばった ↑どういうことでしょう?雀を食べるという そのまんまの理解で良いのでしょうか? ≫雉は今 ≫妻ではない女と頬を寄せ猟師の家に眠る ↑ 雉が妻でない女と頬を寄せるとは どんな絵を頭に浮かべたら 良いのでしょうか? ≫白樺の塩基とは無縁の日常を ↑ この一文を理解するには 白樺の基本知識が必要な気がするのですが、 わたしには わからないので、どーいう事?と 首を傾げてしまいました。 わからないことばかりだという 愚直な感想で申し訳ないのですが、とても刺激をいただけました。ありがとうございます。
0るるりらさん、コメントありがとうございます。 アイヌ語は妙に目立つようですが、最初の一行と【一】【五】だけです。詩に古語や英語その他の外国語を使う事があるように、アイヌ語もその一つとして使っただけで……例えば、詩の舞台がベトナムだったらベトナム語が、本州なら大和に云々とか書いていたかもしれません。 アイヌ語使ってやるぜ!みたいな気合いとかもありませんので、アイヌ文化の深い知識も不要です(まりもさんには意地悪な言い方をしてしまいました……申し訳ない)。それよりも、今の北海道の街と自然(人の背より高いフキとか)に触れた事があれば映像を思い浮かべるのに便利、かもしれません。私も知らない土地を描いた作品には苦戦しますので、そこはお互い様ということで。 あと、イチイを死と再生の象徴としているのはケルト文化です。念の為。 前置きが長過ぎましたが、ご質問の三か所は全て私の表現です。もちろん、そう書くに至るまでには様々な思想の影響があったでしょうが……。 ≫青空を透かした ≫雀を頬ばった 雀の群れをすっぽり隠す様です。雀が白樺に吸い込まれるように見えた事と、頬張るという言葉に幸せ感を感じるので、(白樺が)雀を頬ばった、としました。 ≫雉は今 ≫妻ではない女と頬を寄せ猟師の家に眠る 現代の猟師の家、雉の剥製を思い浮かべて頂きたく。近くには、鹿の頭やメノウの原石なんかも飾ってあるかもしれません。 ≫白樺の塩基とは無縁の日常を 「塩基」は、核酸を構成する方の塩基という意味で使いました。塩基は先天的なプログラムを担いますが、その前の行の「習性」は後天的に身に付けたもの、という比較で。白樺が「地中に空を描」くのは、白樺として生まれたから、ではなく、そこに根付いたから、ともいえます。 アリア、神表現だなんて、勿体ないお言葉ありがとうございます。うちは駐屯地から少し離れていますが、頭上を飛ぶ音や速さにはビックリしました。その音に色んな人の色んな思いが溶け込んでいるだろうと思えば、うるさいだけとは……と思えるのは、 それが日常ではないからですね。お祭り時期だったと思います。 最後に……私は北海道に生まれただけのただの和人ですが、アイヌ文化に興味を持ってくださった事、嬉しく思います。ところで、るるりらさんは、日本語を残そうという意識をもって生活していますか? テレビでご覧になったかもしれませんが……アイヌには、保存活動をしなければならなくなった背景があります。もし調べる機会がありましたら、古い歌だけでなく、広く現代にも目を向けて頂けたらと……。 以上、長々と失礼しました。
0こんばんは。だいぶん前になりますが、手島圭三郎氏の版画による絵本が好きで、図書館で借りて読んだのですが……二年か三年ほど前に手に入れていながら積んだままになっていた「アイヌの碑」(萱野茂、朝日文庫)を、この作品にふれた機会にようやく読むことができました(そして、これもかなり前に読んだ川崎洋氏の詩作品「しかられた神さま」に通じる文章を見つけることもできました)。 しゃも(和人)による特に明治以降の侵略、支配のために余儀なくされた生活や奪われた(言葉を含めた)文化は痛ましく、その復興のための長い年月にわたる努力も大変なものであったことだろうと感じ入りました。 この本では、アイヌ語を話せる古老が少なくなり、著者たちがテープレコーダーで録音したのを書き起こし遺すようにする過程が書かれていましたが、そのような形で遺すことができるのはやはり有り難いことながら、日常の生活のなかで話し、また聞く風景が失われていくのは悲しいことですね。その言葉でなければ変わってしまうニュアンスや深みというものが、生活のなかで伝えられ、覚えてきた言葉にはあるから。 詩作品を皮きりに歴史や文化などを知るだけでなく、言葉についても考えさせられる良い機会になりました。ありがとうございます。
0藤一紀さん、コメントありがとうございます。 ひとつの切っ掛けになれたようで、嬉しく思います。 私は小学校で「アイヌは差別言葉なのでアイヌの人、アイヌ民族の人と呼びましょう」と習いました。また親族が差別の響きを込めて「アイヌ」と口にする場面も見ており、アイヌ文化に興味がある、学びたい、とは言えませんでしたし、アイヌの文化や歴史に関わる本棚に近付く事も躊躇われました。 アイヌ文化の保存活動に反対するアイヌの方もいらっしゃるそうですから、こんな私(和人)がアイヌ文化の一端を扱うことで、静かに暮らしている彼等の古傷を抉り、あるいは新たに傷つけてしまうかもしれない。それが不安なので、自分を育てた様々な経験の一つ、という位置付けにしました。私にはアイヌ文化を堂々と作品のメインに据える覚悟や勇気はまだ持てそうにありません。……そもそも知識も足りていませんが。 今年は北海道命名150年だそうです。 150年は長いのか短いのか……。
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