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【選評】「夜」
「夜」 蛾兆ボルカ http://breview.main.jp/keijiban/?id=1472 三月度最も素晴らしい作品は『夜』(蛾兆ボルカ)です。その他にも良い作品はありますが、この作品は現在もまだ私の内部に響いていて、その意味では個人的には『夜』はつづいています。 この作品について現在書いているけれども、ひどく長くなっていつ終わるかもわからないので、取り急ぎ書ける分を書かせていただきます。 一口で言うと、この作品は《野蛮》であるかのように見えながら、最も《野蛮》ではない。というと、まりもさんとはズレてしまうのですが(そして、私がこの作品に書いたコメントとも変わってしまうのですが)、むしろ《野蛮》にとどまることへの否定であり、近現代への批判的視点をもって《詩》を書こうという呼びかけであり、それこそ《呑み込》まれないための自由が詩空間において確保しうる、という希望を与えるものであり、そして、強烈な平和への希求であろう、と読めるのです。 それが、思想書としてでなく、引用を溶け込ませ、ひとつの独立した詩文として成立させられている。引用がただの引用になっておらず、詩を成り立たせるためのレトリックとして十分な効果をあげています。 うっすら記憶にあるのですが、漱石は「鉄道」を最初に批判した文学者ではなかったでしょうか。それから労働運動が最初に起こったのも鉄道業からでした。文明として語られる鉄道は、 近代科学がうみだしたものであり、象徴としては多くの人々を乗せて輸送する点では「社会」でもある。そのなかでは私たちは乗車率という言葉でも表されるように、個々の差異を捨象された数でしかない。そのような「個々の差異を捨象する」近代社会もしくは(近代社会で発展した)等価交換経済ーーというのは、貨幣は個々のモノの差異を貨幣的等価によって捨象していくのでーー合理的であり、効率的ではあるけれども、ゆえにこそ《野蛮》です。そして、それを見送る駅員は、やはり個性を覆う《制服》に包まれている。日本の鉄道はダイヤが組まれていて、極力遅れないことが重要視されます。というか、レールが敷かれ、路線が決められ、そこをただひとつの正しい論理による支配であるかのように走らせるということ自体、既に暴力的であるわけです。《制服》の下にはたしかにひとりの個人がいます。しかし、私たちはたとえ駅員でなくても、不祥事を耳にした際に、その《制服》や関係企業というだけで悪く思うことがあったりしないでしょうか。つまり生きている私たち自身が個々の差異というものに対して非常に鈍感になっているのが(近代からつづく)現代であり、それをこそアドルノは《物象化》と呼んだのでした。夜は暗さの中で駅の照明や電車の明かりが目立つ。冒頭で書いたような思いの中で《私》が歩いていようとも、歩いている場所も見聞きするものもすべてが《私》を呑み込もうとするのを感じるとしたら、夜よりも暗い夜でしょう。 ひとつの思想を「善」とすることは、それに対立する思想を「悪」にすることです。しかし、その二項対立の構造こそ近代が生み出したものであり、その反転現象やテクノロジー支配の論理が、ホロコーストや全体主義に結びつくことになった。では《思想》には何もないのか。《思想》とは《無思想》であるべきなのか。いや、そのような二項対立ではない。《無思想》も《思想》には違いない以上、どちらがどうではなく、それに陥ることに警戒しながらすすむしかないのです。 《私》は生きているかぎり、現代(の社会とそれを決定づける枠組み)という《雨》に、濡れないわけにはいかないし、その《夜》を歩かないわけにはいかない。 このように読めば、作品全体に冒頭の詩文が響いていることになりますが、現代は等価交換から価値交換へと変容していて、捉え直しは容易ではありません。しかしながら、そのような批判的視点を問わないままに、《詩を書くことは野蛮》なのです。 と、あれこれ書きましたが、やはり正しく読めているかどうかはわかりませんし、ことあるごとに考えるでしょう。それほど長く私のなかで響く作品にはめったに出会えない。その意味において、この作品を最も素晴らしいと考えています。
【選評】「夜」 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 872.1
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-04-17
コメント日時 2018-05-06
(付け足し) 我々が生きている現代を形成する社会的枠組みを根本からとらえ直す観点ももたずに《詩》を書くこと、また疑いもなく生きることは《呑み込まれ》に対して従順であり《野蛮》にとどまることで、この現代に呑み込まれずに主体として生き、《野蛮》から抜け出して《詩》を書こうとすれば、少なくとも枠組みを壊すくらいの意識的態度はもたざるをえない。 それとも《野蛮》にとどまらないでいるんなら、たとえばテロルのような反社会的行動にーー《聖母マリアを強姦しに》ーー向かうかい?とここは暴力的な言葉を用いた反語表現と読むことができ、前との関係から平和への希求として聞きとれたのでした。
0藤さん選評ありがとうございます!一点だけごめんなさい。じつは、選評投稿の締切日を毎月15日に設定しておりまして、こちらの選評投稿が17日になっていることに気がついた次第です。しかし、せっかくの投稿を無駄にしたくありません。今回は初の試みでもあり、実験的な意味合いが大きく、こちらの選評作品を有効とさせていただきます。来月も選評作品をお待ちしております。1日から15日までの期間にてよろしくお願い申し上げます。
0ありがとうございます。こちらの確認ミスで、あげたあと、もしかして!と思ってしまったのでした。どうもすみません。 私のミスなので無効になるのが当然の道理なのですが、有効として扱ってくださるということ、恥ずかしいかぎりではありますが、お言葉に甘えさせていただきます。 ありがとうございます。
0野蛮、とは何か・・・今、台湾からの引揚者の回想録を読んでいるので、なおさらそう、思うのかもしれませんが・・・西脇順三郎が、台湾に代々住み続けた民を「土人」と呼び(もちろん、当時の社会性が影響していますが、西脇には差別的意図はなかったと考えています)土人=野蛮人=シュルレアリスト、としての、新たな可能性を見た。単なるエキゾチシズムともいえるかもしれませんが・・・ 他方、一般の「臣民」(当時の日本国民)は、植民地台湾を下等と見て、裸足でのびのびと遊ぶ、台湾引揚者の子供を野蛮人、といって嫌ったり差別したり、矯正しようとした・・・その、落差、について、考えています。 野蛮=下等、文明的=上等 これは、本当に正しいのか。 レヴィストロースによる反転、反証、ツイアビ酋長の言葉がヨーロッパに与えた衝撃・・・アドルノの「物象化」もそうですが、個としての「いのち」を、「人材」として消費、活用すること、それもいかに効率的に行うか(富を生み出すために)ということが文明化、であるならば、いのち、魂、を軽視している「先進国」は、極めて「野蛮」で下等な方向に退化している、とも言えますね・・・。 「夜」は、敬虔なキリスト教徒の方が読んだ場合のショックを考え、かなり迷った作品でもありました。 マホメットを揶揄した場合のみならず、社会批判に象徴的に用いた批判の場合であっても、かなり重大かつ深刻なショックを与えてしまうケースなども念頭にありました。 もっとも、聖母マリア信仰が浸透している地域では、文学的な反語やラジカルな批判という読み方も浸透しているであろう、という・・・見通しとしては甘いかもしれませんが、前提のもとに、見切り発車をした部分もあります。 ボルカ氏に、出典を示してほしかったと記したのは、以上のような懸念も含めてのことでしたが・・・いまのところ、文学的なシニカルな比喩として認知されているようなので、読者の側の寛容に、引き続き希望を持ちたいと思っています。 ちょっと脱線してしまいましたが・・・。
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