別枠表示
【選評】3月投稿作品
◆大賞候補 蛾兆ボルカ 夜 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1472 ◆優良 ・弓巠 海のとき http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1480 ・二条千河 服喪 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1479 ・miyastorage 宝島 http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1532 ◆推薦 ・Clementine ここにいないあなたへ http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1534 ・日下ゆうみ わたし いのち http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1415 ・あやめ こうふく http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1444 ・岩垣 弥生 終末メルヘン http://breview.main.jp/keijiban/index.php?id=1488 ◆はじめに 3月分から優良、推薦に数量の枠を設けない、とBREVIEW公式ツイッターで告知があったが、その後、投稿者が一人一作を推す、という推薦制度が導入された。魅力のある作品が取りこぼされる心配が大幅に減ったので、優良、推薦作数の制限に対する私の不満も、ほぼ解消された。ゆえに、前月までと同様、魅力を語りたくなる作品を8作選び、その中から1作を大賞に推すことにした。 ◆大賞作品について 大賞候補として推す理由は、詩論を持つ詩として非常に強い骨格を持つということである。軽快な筆致、平易で明解な文体、エスプリをきかせた風刺を用いるなど、難解さに傾きすぎないバランスを保持していることも魅力に挙げられる。そして何よりも、「最も聖なるもの」を「もっとも野蛮な方法で」凌辱するという衝撃的な行為を提示した上で、そのフレーズの持つ暴力性を、まるでピクニックに友人を誘うかのような「軽薄さ」で無力化し反転させ、意味の落差を作り出し、その反語としての強靭さを際立たせるという・・・いわば、ネガ写真をいきなり提示するような、劇薬ともいえる批評性を持つ作品である、ということに、強く惹かれた。 震災以降、当事者以外は震災を書くべきではない、沈黙こそがモラルである、という風潮が(見えない)圧として確かに存在していた。その際、かなり安直に、アドルノの「アウシュビッツ以後詩を書くことは野蛮である」が引用されていた。あれほどのことがあった後で、平然と詩を書けるわけがない、心ある人であれば、それは不可能なはずだ・・・かなり歪められた「アドルノの一節」が独り歩きしていたようにも思う。機会詩を書くべきではない、震災を利用すべきではない、安易な同情や、実体を知らない共感はかえって相手を傷つける・・・そうした「正論」が、誠意や良心から生み出されたものであることを疑うわけではない。しかし同時に、嫉妬や猜疑心、過剰な承認欲求といった暗い欲望を土壌としていることもまた、否定出来ない。 見えない圧が、記録文学としての可能性や、非日常の出来事が生み出す深い思惟、豊かなイマジネーションの可能性を抑圧したのではないか。表現の自由を、被災者への「過剰な配慮」によって制限したのではないか。こうした正論の持つ暴力性について、私たちはまだ、きちんと向き合う事すら出来ていない。 3月10日、7年前の震災の前日に投稿された蛾兆氏の「夜」を読んで、たとえばハンガリー動乱を自らのことのように(当事者でないのに)豊かなイマジネーションで捉えて、自らが体感していた労働運動の暗部や人間の愛憎関係の暗部を描き出した黒田喜夫、ブルジョワ的な自らの育ちを自覚し、反発しつつ、その恩恵にあずかっているという自己の限界に気づかぬまま、世界平和へと邁進した宮沢賢治、などを私は連想した。様々な矛盾に遭遇した詩人たちを遠く望みながら、「きれいごと」ばかりを押し付ける「見えない圧」に抗うことが「野蛮」であるなら、いっそ、その野蛮をこそ引き受けよう、その野蛮において私は生きよう、という、いわば野蛮人宣言、として本作を読んだ。 引用部2か所のうち、一か所は手元にあったので確認できたのだが(『プリズメン』)、「聖母を強姦しにいこうか」というかなりインパクトのある一行の出典が、わからなかった。ただただ不勉強を恥じる他はない。キーフレーズになる一行なので、なんらかの形で提示してほしいと思う。 ◆優良作品について 弓巠 海のとき かいすい、ではなく うみみず と読ませる不思議な音の広がりの中で始まる。津波による死と、無意識の世界における記憶の断片化と忘却、集積と再編とが重ねられ、海(生みと音が同じ)という大きな連なりの中に死者たちが溶け込んで一体化している様が夢想される。 ユニークなのは、個が崩壊したあと、個を束ねていた自意識も崩壊して消滅していくはずなのだが、細分化された破片ひとつひとつが、その記憶を分有しているかのようなイメージが現れること。岩であったときの「記憶」が、砂粒一粒になっても保持されている、というようなイメージだろうか。死生観とまで言うと大仰かもしれないが、細分化されても個の記憶(個の存在していた「とき」を物語る記憶)を保持する破片であるならば、その破片たちを吹き寄せ、ひとつの命にまた結い合わせる「とき」が来れば、失われたものが、また全体性を取り戻すだろう・・・意識は中枢に宿るのか、細胞ひとつひとつが、「記憶」を有しているのか。「海みず」の中で、死者は自らの肉体の細分化に遭遇するわけだが、そのとき、自らの内に抱え込む無数の死(食べることによって血肉になった、物質的、即物的な死から、想いの中に残る身近な人や友の死の記憶といった観念的な死まで含めて)を改めて認識する。肉体の分散が、抱え持つ死(その人の肉体や精神を作り上げて来たもの)の解放となる・・・サナギの中で起きる変化のように、個々の無数の死が大きなうねりの中で変容と新たな生の時を待つ。「きみ」の記憶は、細分化されて世界に広がり、けっして消えることはない、「きみ」という個が失われても、世界が「きみ」を覚えている・・・3.11に想を得ているが、死と記憶の行方という謎をファンタジーの中で膨らませ、より普遍的な次元へと開こうとする作品だと思った。 二条千河 服喪 これも3月11日に投稿された、死を巡る作品。無数の骨を足で踏む・・・もし、過去の死者たちをすべて見ることができたら、無数の死の折り重なりの上に私たちは生きていることになる。火葬を経た死のイメージは、白い無数の骨片であろう。まだ尖った骨、丸みを帯びた骨(時を経て風化した骨)を足裏で感じわける、という感覚がリアルだ。私はサンゴ礁の海岸のような一面の白い広がりを想起した。そこに黒い葬列が続く。目を閉じて、「皮膚感覚」で感じ取る無数の死の感触。死者たちが今の「自分」を支えている、という観念を、リアルな体感的な比喩に転化して捉え直しているところに共感した。 miyastorage 宝島 コメント欄から引用する。 「さびれた、少し安っぽい屋上プレイランド。気だるいような、投げやりな社員は、いわゆる出世コースから外れてしまったのか。胚が降る・・・降灰のイメージと夕暮れていく景色が火に呑まれていくイメージが重なり、社員が見ているディストピア的な世界・・・希望を奪われた社会を象徴している。」詳細に記され、リアルに立ち上がって来るプレイランドでの情景は、既に起きた事なのか、それとも、孤独な中学生(家族という欺瞞にうんざりしているような)が記しているノートに描き出された未来の物語、なのか。 降り注ぐものを防ぐための、傘を買う挿話が面白い。自分と息子とが同じ傘に入り、共に降灰を防げるように、と庇護者としての意識を見せていながら、実際には屋上に息子を放置して、勝手に遊ばせている母親。輪郭だけの家族、というフレーズが、母と言う役、息子という役を演じているような空虚な家族像を活写している。 「胚」は、そこから芽吹き、萌え出すもの、あるいは命の原型的なイメージを持つ。音が灰と同じだが、コメント欄に「胚という言葉の持つ強さや意味が邪魔をして、胚が降る、という景が、なかなか腑に落ちてこない、納得いくものにならない」と書いたように、漢字の用い方には、少し工夫が必要かもしれない、と思った。 ◆推薦作品について Clementine ここにいないあなたへ 韻律を重視した歌うような作品。埠頭、月光、葡萄、などのイメージの連鎖から、精霊船を流す盆の行事を連想した。「剥けば朝(あした)がみえそうな」、などの感覚的な比喩はユニークだが、「足先の不焼けにかわる」これは、少し無理があるような気がする。 日下ゆうみ わたし いのち 夏、であるのに死の冷たさが影となって落ちている窓辺、他方、暖かい空間として描かれる生の領域の体感、琴、鼓動、言葉と展開するイメージの飛躍は面白い。琴が生き物のように血が通っている感覚、月の鼓動といった身体性もユニーク。ケトルや小鳥に着地するあたりが、無難を選び過ぎた感がある。 あやめ こうふく 「雨期のようにつめたい、台所」、「ぼくというぼくが 簡略化されていくのがきもちよかった」空間の体感的な把握や、夢想が揺れる波のように反復しながらフェードアウトしていくイメージ、全体を貫く水のイメージが印象に残った。ひらがなで記すことで音の脳内再生がゆっくりになったり粘りを帯びたりする。漢字と平仮名の使い分けのセンスがよい。 岩垣 弥生 終末メルヘン 甘い題名だが、こころに刺繍された水色の少女、このイメージが鮮烈。部屋そのものが幽霊、という認識は、部屋の空虚感であると同時に、肉体=部屋、魂=室内の少女という入れ子構造になっているように思う。一週間の報告部分や、、サーカスを幻視する場面の、生き生きした突飛な夢想部分の楽しさと、ガレキが積み上がり、誰も居ない現実との落差。会話の導入や語りかけ口調、リフレインによる呼びかけなど、リズムにメリハリがある。
【選評】3月投稿作品 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 974.0
お気に入り数: 0
投票数 : 0
作成日時 2018-04-15
コメント日時 2018-05-05
まりもさん コメントをいただいていたことに気がつきませんでした。お読みいただきありがとうございます。 「灰」と「胚」をかけるのはいいアイデアだと思います。でも、終わらないくそったれの日常を呪う余力すらないほど無気力な人たちが多い場所。そういうイメージが先行しているので、やはり誰にも顧みられずに降りしきる「胚」であって欲しいなと、僕は思います。山本直樹の漫画とか、古谷実の「グリーンヒル」の主人公とか、「センチメントの季節」に出てきた中学生でやりまくってる幼馴染のふたりとか、それらを手前勝手に取り込んで、終わらない無色の春が延々と続く感じなんですよ。
0コメントありがとうございます。「誰にも顧みられずに降りしきる「胚」」なるほど・・・毎月、身籠ることなく闇に流れていく卵子を歌った詩人がいましたが・・・実ることのない、育つことのないまま消えていく、そんな(成長しないまま終わっていく)胚、のイメージに近い、のでしょうか。胚というと、どうしても胚芽など、これから芽吹く、生命エネルギー溢れるもの、という先入見があったので・・・でも、その先入見を、無機質的な、全てが終わった後、のような、そんな灰に(言葉の響きにおいても、意味においても)たとえることで、新たな意味が付与されるのかもしれません。
0つい先日、ボロボロになった「現代詩作マニュアル」(野村喜和夫、詩の森文庫、思潮社)をめくっていたら、第一部の1に、この一節を発見しました。アドルノの名前も覚えていたし、どこかで見た記憶があったので、ああ、これだったかと思った次第。 現代詩を戦争の反省から生まれた戦後詩からと位置付けるために、一文だけ引用していました。アドルノやその思想を大まかにでも知っていれば、まあまあ辻褄が合うように書かれていなくもないと言えるのですが、その引用、どうなんですか~とつっこみ入れくなるとこもある。まあ、読者層を広く設定していたからとか、戦後詩を印象づけるためのインパクトを与えたかったとかあるのかもしれませんけど。ポストモダンに詳しそうな氏が、アドルノの言わんとしたことを知らなかったわけではないと思いますが、当時誤解した読者はいるんじゃないかと思います。「エクリチュールは一人歩きする」と言っていいのかどうか。苦笑
0まりもさん、ご選評ありがとうございます! 学生の時、部活の友達が「俺たちの周りにあるものは、床も机もロッカーもみんな何かの死骸だ」と嘯いていた情景をあらためて思い出しました。 現在の生は過去の数知れない死の上に成り立っていて、いずれこの自分の死を未来の生が踏み越えていく、という感覚は、あれから随分たった今でも私の詩作において最重要テーマのひとつになっているようです。 それを的確に読み取っていただきましたこと、とても嬉しく光栄に思います。
0藤一紀さん たしかに、エクリチュールの独り歩き、これは多々ありますね。その独り歩きを、あえて利用する、という手法もあり・・・ブレイクの、ひと粒の砂の中に云々、という部分も、かなり異なったイメージで引用されている時があって・・・一節、あるいは一言、から、自由に連想する面白さもまた、詩情と言えるのかもしれません。 花緒さん くつずり ゆう さんの作品ですね。官能性、比喩の豊かさ、右目と左目、その象徴性、など、とても上手い作品だと思いました。適度なタイミングで、アクセント的に会話(相手の言葉)を入れて来るセンスなども。ただ、その上手さのゆえに、右目と左目で見る世界の齟齬(光の世界と影の世界の齟齬、など)の観念性と、「私」と「あなた」との間にある「崩せない水槽」という物理的な隔たり、近づくことのできない壁のようなもの、の切実さが、いまひとつ、伝わってこないような感覚がありました。装飾性が強いというのか、修辞の鮮やかさが先に立つように感じられたことが、今回、言及しなかった理由、です。 なんとなく、「あなた」は、漁師のような野性味ある年上の男性(もしかしたら、学校の先生)で、「私」は女生徒、の設定をイメージしたのですが・・・男の方は、自分の世界に入っておいで、と誘っておきながら、崩せない水槽、のような、厳然たる壁があることを知っている。女の方も、男の「いろか」を「渇かない水溜りのあるひと」と的確にとらえ、二人の間を隔てる境界線の上を歩くジョロウグモの危うさに、自身の感情を託してもいる、けれども・・・洒落た比喩を考案したりする余裕がある。つまり、切実に、この男の「いろか」に参ってしまっている、わけでもなさそうそうですね。こうした関係性を、様々に想像させる、とても巧みで、面白い作品でした。 二条千河さん 自分の死を、未来の生が乗り越えていく・・・ユニークであると同時に、とても大切な、普遍的なことだと思いました。日々、夜ごと、眠りのたびに人は「死」に、また新たに生まれ直す。その断絶と接続を繋いでいるのは記憶の連続性、であるわけですが・・・その記憶が、容易に(ショックなどによって)書き換えられてしまったりする。その不可思議さ、怖さ、或は・・・自分で書き直していく、上書きしていく可能性も含めて、魅力は尽きません。
0