壁からにゅるっと黒い扉が浮かんできて、ふわ
ふわと目の前を通り過ぎていくのを見る私は、
放送終了のカラーバーの無音に起こされていて、
その飛ぶ扉はリモコンで、また反対の壁にゆっ
くり溶けていくが、その後を追う気力はなくて、
画面の黄色いバーから聴こえた小さい叫びに気
づいて指紋をねじる、爪が割れそうなほど親指
と人差し指の指紋をくっつけてねじっていき、
身長を縮ませることに成功して、スズメバチの
羽音に囲まれていくと、後頭部の傷口から活字
が出る痛みに堪えなければいけないので、目は
開いていこう、そんな夢を知らないまま、暗さ
は私の背中に三本目の手を生やしたりしたが、
私はその手で粘土を捏ねて後頭部の傷口を治す
人形を作りたかったのだと、どうも別れは活字
を引きつける性質を持っていたため、逆さ吊り
にされた私は大声で飛行を歌いながら澄んだ水
槽の水面を震わせてきている、そんなこともも
う青いバーにかすかに消えていて、たまにまっ
さらな親指に仏眼が滲んでこないかを見る堕落
を、思いながら懐かしさをねじって私の漂流を
彼らに見せようとするが、電波は干ばつし、SOS
が餓死しているのを見て、今度は前頭葉から活
字を滴らせて、排水溝の故郷に落ちていくのを
見送り、スズメバチの死骸もぞろぞろと鼻から
漏れ落ちて、私は赤く細く揺れるバーに変わっ
ていくのか、砂嵐、指をねじって、チャンネル
を合わせると、誰かのドライブの様子が映って
いるが、車酔いしてしまっているのか歪み過ぎ
ていて、それでも辛うじて見れるのは、あのノ
ートみたいに薄っぺらいビルを並ばせる街が、
私の造ったはずの街が、ああその街に住む人た
ちを私は救わなければ、彼らの言葉を色褪せた
街に持ち帰らなければ、運転手の顔にゆっくり
とカメラが動いていく、その手前で私の三本目
の手がテレビを消してくれて、売っていく、し
まっていく、煤けていく、表返っていく、いっ
てきます
作品データ
コメント数 : 9
P V 数 : 464.3
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-01-15
コメント日時 01:51:58
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2025/01/18現在) |
叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:464.3
2025/01/18 16時53分26秒現在
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なんか意味が分からないんだけど、確かな筆力とちょっとしたアート志向(特にシュールリアリスティックなもの)を感じる。読解なんていらない詩かもしれないし、読解なんて意味ないかもだけど、読み解くのが難しいため、二度三度と読もうとは思えない。だが印象には残る。巧いなあと。これは前にも言ったことだけど、熊倉ミハイさんの詩には足掻き、感情、熊倉さんの中心にある何か情動的なものを感じない。いや、けいせいさん、これひっそり密かに潜ませてるんですよ、と言われればそれまでだが、もっと一目見てこれは!という発見的なフレーズ、一節を僕は期待してしまう。熊倉さんの詩の一部は、サッカーに例えるとドリブルが非常に上手い選手が決定機にゴールを決められない。そんな詩に見える。僕はゴールを決めてクリスティアーノ・ロナウド張りに雄叫びをあげる熊倉さんが見たい。以上僕の勝手な願望及び期待でした。
1いってらっしゃい!自分の思い描いてるモノ(漫画のコマ割り・ネームのような)をどう言語化させていくか、うーん、僕は読んだり聴いたり観たりするうえで「哀しい滑稽さ」を求めるとこがあるんですよねーこういうのは作者は求めていないのかもしれないが、ペーソスは意識してなかなか醸し出せるものではないよねー頭の中でも現実社会でもどれだけどんな思いして迷って迷っての結果だからねーまたまた何書いてるか分からんくなりましたが(思考カラーバー状態)そういうことです、はい。ご清聴ありがとうございました。
1詩作に付いてかなと最初呼んだとき思ったのですが、いまは読解に対して自分がどう受け止めるかどうチャンネルを合わせるのか、そんなふうに読みました。さいごのいってきますいいですね。コメントを書きにくるのでしょうか。このスズメバチがどんな性質を担っているのか、どう刺していこうか、増えていくのか、非常に興味深くとても気になるところです。(かってな読解
1コメントありがとうございます。 情動、足掻きが感じられない、については最近、逆にそのスタイルのまま突き詰めないといけない、と考えたりしてます。 「クリスティアーノ・ロナウド張りに雄叫びをあげる熊倉さん」 まさにここで、私は、社会にいる、雄叫びを上げられない人々をずっと考えたりしてます。「詩人だからといって、なぜ自分だけが自由に声を上げられることが許されようか」という思いで。鬱屈した感情や怒りが抑圧されている人たちのリアルを書かなければならない、と、最近考えています。 自分の性格ですね。たとえば私は大勢で話している時、ある発言に全員大笑いしていたとしても、私は笑いません。誰か、心の中では傷ついていて無理に笑っている、その人のために、笑いません。最後の砦になったりします。 期待には、添えられそうにないかもしれません。あと、解釈はどうしてくれてもいいのです。ここは分かるかも、といった簡単な掬いでも、閉口よりは議論を前に進められる気がするので。 ありがとうございました。
0コメントありがとうございます。 なるほど? この詩からは悲しい滑稽さは見い出せませんでしたか。私は、この詩を読むとその、ペーソス、ですか? 感じて読むのが辛くなります。なんなら、悲しい滑稽さでしかない作品な気がします。 逆に、最近楽しい詩を書いていないですが、まあ、無理に書く必要もないなぁ、と。 ありがとうございます。
0はーー コメントありがとうございます。 確かにそうとも読める感じがしますね。 スズメバチとは、何でしょうね。一旦身体の中に入り込んで、だからか「私」は飛行の歌を歌ったりしてますけど、結局鼻から漏れ落ちて、歌も蜂の死骸も尽くカラーバーに吸い込まれていってますね……カラーバーも不思議。 ありがとうございます。
0基本的に作品を読み解くチカラがないので、すごーく勝手な印象ですが、なんかグッときました。 見当違いかもですが、詩を書くこととこの社会にコミットしていくこと、あるいは何かしらのかたちで誰かを何かを救うこと、自分の無力さ、もやもや わたしはそんなことを感じました。
0始めのほうから読んでいって、まず、とても映像的な詩だと思いました。 うまい書き手は、映像をきちんと読み手に結ばせ、読み進めさせる力があるのだなと痛感します。自分にない力なので見習いたいです。 その意味で言うなら、 >どうも別れは活字を の箇所から、映像が途切れたように思います(私の読解力の乏しさでもある)。最後には元の場面に収束させる意識は、読み手に対して真摯な印象を受けました。 一部の表現だけを抜き出していうのは意味のないことかもしれませんが、 >飛行を歌いながら >SOSが餓死している あたりが周囲の選語に比して映像を結びにくく、読みづらかったです。 以下妄想含みます。 >誰かのドライブの様子が映っているが、 から素晴らしい映像だなと思いました。 己が見ているテレビの画面の歪みの原因として、なぜ画面中の誰かの「車酔い」が持ち出されるのか。それは二者が同一の人物であるからに他ならない、と読めました。 >あのノートみたいに薄っぺらいビルを並ばせる街が、私の造ったはずの街が、ああその街に住む人たちを私は救わなければ、彼らの言葉を色褪せた街に持ち帰らなければ、 比喩の対象である「薄っぺらいビル」のほうがじつは比喩であり、「ノートみたいに」と比喩に見せかけられたものが本当の比喩の対象である、という筆致がたまらなくよいです。 我々は街に住む人たちを救わざるを得なかったものたちなのだと思えます。 比喩的な誘導が熟慮されていてフェアだと感じます。読み手のことを思って書く書き手に私もなりたいと思わされました。 以上、的外れでしたらご放念ください。 乱文を失礼しました。 ありがとうございます。
0アナログ放送の終了時には「ザア~」という砂嵐が聞こえてきましたが、いまはデジタル放送。画面はカラーバーとともにテストトーンと呼ばれる低周波の信号音がひたすらノイズに響いてきます。たまにわたしも気づいたらテレビを点けたまま転た寝をしていてハッと眼が覚めるときがあります。 これは、その最中に無意識にみていた夢の出来事でしょうか。 不可解で少し暴力的な画面に見えるのはその低周波の波のせいでしょう。 実際には見ていないカラーバーの平行線が乱れた点や線を描き夢を作りあげている。 そして画面の前で不可思議な映像を眺めみる熊倉アクセルローズミハイ。聞こえてくるよ。「welcome to The jangle」 これは何かと揉め事の多い世相を無意識に脳内が反応しているのでしょうね。 ひととおり見終わったあとは、あたまもすっきり、馬鹿馬鹿しいな。そんなこともないよ。では行ってきます。~素晴らしい朝に
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