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人間として鋭いか? 動物として鋭いか?
他人を貶めたり、酷く挑発したり、そう言ったナンボのもんじゃい的なヤンキー的喧嘩は、文化の世界に携わる志を持った人間として相応しい態度とは言えない。 青十字さんのこの作品は、Twitter投稿を並べて貼り付け、最後に他人の動画をぺたんと貼り付けて終わる。この安易さ。創作とはアレンジすることであり、ひねることだろう? ハニー? 私は多くのイジメを親や同級生から受けてきた。その内容のほとんど全てと言っていいものが、勝者としての彼らを支えていたものは動物的鋭さであり、それは公として日の光に晒せば恥ずべき行為として、敗者としての人間的洞察力と観察力鋭さを兼ね備えた私の側の笑いを買う。つまり軽蔑心。彼らは大人になり勝者となった。結果日本はどうなったか? 考えてみると面白い。 人間として鋭いという時のこの鋭さとは、未来を予測し観察し、可能性について洞察を深め、切り開くその能力。 例えば、法的に不当なことをやってやった相手が一時的に勝った場合、それは彼ら彼女たちの動物的鋭さによる振る舞いが勝利を収めたと言っていいが、それをおかしいと気づき、思い最後まで自らの正当性と正義を譲らなかった人間がその場で形として敗北を喫しようと、それは人間的振る舞いによる、人間的勝利であり、それを動物的鋭さに対し、人間的鋭さと称えることが出来よう。 家庭内で、校内で、正当な理由なく陰湿ないじめが起きている。それを若し、監視カメラが捉えていたら、それを裁判の席で流し、法律に携わるものと、民間人、司法立法民法、それぞれの世界に携わる人々が、癒着性のないもの同士で、同時に刮目し、評価を下した時、正義が逆転することがある。それが『公』というものの持っている力である。私が何度か賞の受賞の話を持ち出すのも、公というものを意識し、影響力を持ち、信頼されているメディアとして卑怯を働きづらい方達に認められたことがあるか? または認められる作品を文化に携わる志を持った人間として作る力があったか? と言うことは、公意識としてその作者の内容の質を確かめるに一つの目安になり得ると思うからである。それは、誰それと仲良しとか、馴れ初めを自慢する行為ではない。サエキけんぞう氏に作者が、認められる作品を作ったという記述はない。仲良し的なものをアピールする文面は目撃したことが、ある。公と仲良しは質内容がまた異なるものである。 「この人はちょっととっつきにくいけれど、公意識としてマナー意識が実は高い」 その隠れたマナーへの愛のようなものが現れるのが、実は文学だったりする。大衆はそれほど美文に興味がない。そう言う人もいる。文章を情報の一つとして扱い、そこに色艶を求めない。それは事務的に処理された言葉としての文章である。 作者の文章を読んでいると、そこに肌艶への愛を感じる情的なもののスケールの広さが感じられず、ドメスティックな関係性に終始していく人間的弱さを感じるのだ。そこが、これは公として認められる審査員からの賛辞と賞を受けることは難しいのではないか? と思う要因である。 他者の動画でありますから、当然著作権上危うく、公意識が低いとも言える。これが受けたとして、それは人間的鋭さを兼ね備えた想像力の世界の視点で見れば、動物的鋭さに終始した一瞬の勝利である、と私は思うのであります。
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人間として鋭いか? 動物として鋭いか? ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 323.9
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作成日時 2024-10-19
コメント日時 2024-10-19
その真面目さがどこまで仮面を被っているのかはわからない。 動画に書き込まれる詩との段差。 しかし、これくらい認知能力に長けた文章を読まされると意識高低差の激しい人物だなあ。と感じますが、(・∀・)イイんですよね。個性とはそういうもんだ。
0ある人に言われましたが 「根は常識人だけど、腹が立つと非常識に転ずることがある」 と。なにか心の中で大きな働きが起きると、非常識に転ずることがある。その振れ幅が激しいと言えば激しいと思います。
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