最早水底にゆっくりと落ち行くやうに
断念をのみ後生大事に抱いて
おれは何もかも棄てちまったのか。
水底で死を待つのみのおれか。
それでも足掻いて水面に顔を出し息継ぎをする理由が解らぬ。
何の事はない、おれは単に迷子になっちまっただけなのかもしれぬ。
生くるに意味などないことは疾うに知ってはゐるが、
何かは名指せぬがそれさへあれば、
おれは生きて行けるに違ひない。
ところが、それが何なのか一向に解らぬのだ。
最早瘋癲の姿をしてそれを探すのだが、
それは「えへへっ」と嗤って
おれの元からは逃げ水の如く逃げ失せる。
おれは未来永劫手にできぬものを求めてゐるのか。
否、さうではない筈だ。
既に此の世における慾を抱くことからは
遠ざかって久しいが、
慾なき人間は生くるに値しないなんて馬鹿馬鹿しいことは
一言だに言ふこと勿れ。
ギラギラしてゐる人間が素敵だなんてちっとも思へず
とはいへ、ギラギラしてゐる人間が時に羨ましくもある事もなくはないが、
然し乍ら、それは視野狭窄の謂でしかないと
ギラギラしてゐる人間を見る度に思ふ。
光害により一昔前よりも星が見えなくなった今、
それでも夜空を見上げて
思考は光よりも速く宇宙の果てに辿り着き
そこで独り寂寞の中、
呆然とするのみのおれは、
もしかするとこの寂寞を探してゐたのかもしれぬと思ふのである。
それは寂寞とこのがらんどうの胸奥が共鳴を始め、
「ひぃひぃ」とおれはやがて呻き声を発する。
そのときおれは、まだ声が出せるのかと感動し、
息するおれは
生きてゐることを実感するのであるが、
然し乍ら、そこでも断念が邪魔をする。
感動する感情は断ち切られ、
何事にも断念が先立つおれの生き方を
おれが強要するのだ。
今のおれはどん詰まりなのかもしれぬが、
まだしも探すものがあるだけましかと
それが何かと思ひながら煙草を吹かす。
作品データ
コメント数 : 6
P V 数 : 491.1
お気に入り数: 0
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作成日時 2024-09-09
コメント日時 2024-09-13
#現代詩
#歌誌帆掲載応募
#縦書き
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2024/11/21 21時03分58秒現在
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言葉は滑らかですし、読みやすいです。「断念」だけが残った語り手の悲しさ……。しかし、少し冗長で説明的過ぎると思いました。書かれている以上のことを受け取るのが難しい作品だと思いました。自分が本当に感じていることにはもっと奥行きがあるはずなので、それを詩の中で浮き上がらせるようにするともっと読み手が引き込まれるのではないかと思いました。
0此の度は、歌誌「帆」自由詩掲載欄へとご投稿を賜りまして、允に有り難うございます。 未だ、ご応募受付開始よりは間がございます。 暫し、(始動時期は未だ決定をされておりませんので、爾後、募集期間を追って、御知らせをさせて頂きたく存じます) お待ち下さりますと嬉しく存じ上げます。 御作を、拝読させて頂きました。 文体が、当世風より稍、古く。 その文体意識に拠って現代的事象への客体視がなされていらっしゃる箇所が特徴であり、美点であると感受を致しました。 観念的葛藤、内観的抽象意識が外部へと結び付き、不可思議な印象を彷彿とせしめ、 そして俗を――乃ち現‐存在意識性の賜物である肉体性を――想起せしめる記法に拠って、却って聖俗の深き渓間を垣間見せていらっしゃる。 此の方向性を一層お極めになられた詩文も、拝読をさせて頂きたく存じます次第でございます。 時代との合致ではなく、齟齬が。翻って文学的価値を燈らしめ始めていらっしゃる好例とも申せましょう。 閉じているからこそ開かれる、暗闇にあるからこそ明るむ、その様な趣を感受を致しました次第でございます。 之からも、ご研鑽、唯一無二の視座のご獲得の程を期待をさせていただきたく存じ上げます。 もうひとつふたつ、深まる、或は突き抜けますならば、比類なき作家性が泛び上がるかとも存じ上げます次第でございます。 頑張って下さいませ。 それでは、復のご挑戦をお待ち申し上げております。 此の度は、ご応募ご投稿を賜り、允に有り難うございました。
0的確なご評ありがとうございます。私は大正期が好きで、また、川端康成の考えに賛同し、旧仮名遣いを敢えて遣っています。まだ、小説と違い詩の何たるかを摑み切れていない憾みがあります。しかし、小説と同じくらいに詩も好きで、詩を極めたいと考えています。そんな時に励ましのお言葉ありがとうございます。励みになります。
0確かにあなたの仰る通りかもしれません。まだ、詩の何たるかを摑み切れていないという自覚はありますので、長い目で見守っていてください。
0現代フォーラムでもたまにお見かけいたしますね。古風で常用漢字には見られない書き方もされておられる様子を拝見いたしてもおりまする。この詩文読みますれば語り手の表記を俺、おれは~と強く主張されておられる。何故か、わたし~とされてはいない。これは宛らドローンを追い詰める隼の如きアンバランスな違和感も覚えて、べつにわたし~でもよいのではないか、とも感じられますが、何か意図あって敢えてそうされておられるのでしょう。 例えばこの詩の中にもう一人対象者としての貴方(貴女)が想像されるのであれば「realize」として俺表記でもまた違った印象を持ったやも知れない。
0作品に伸び代より完成度をみたい。また、そういうものを応援しないと文化に携わる志を持っている人間の良心が痛むと思った時に、高齢層の方の作品が良いと思い、積様の作品が目に止まりました。 高齢者の方の、若者ではなく『若者的なもの』への批判心。そしてその上で自分がなにをこれから探し、生きていこうという思索段階までを描いた『煮え切らなさ』のある作品。 この『煮え切らなさ』と言うのに考えてみると、今の高齢層は、ピートタウンジェントが『ジジイになる前に死んでしまいたい』と歌っていたように、若い時に『振り切って終わる。往生を遂げる』ことを潔しとしてきた世代だったと思いますが、コロナ禍での生への執着心を見ていて、いざという時、口だけの振り切り具合が目立ち、実際には行動は煮え切っていないではないか? と思わせるものがある。 テレビや新聞。使い捨てのメディアに踊らされ、景気の良い世代に行きた人々が考え詰めてこなかったことが今の時代を生んでいるのではないか? と考えた時この悟りにいく軽味ではない、煮え切らなさは興味深いと思いました。
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