アイルランドを旅した友人から手紙が来た。向こうはかなり冷えるらしい。それに、卵が高い。
わたしは毎日うまれかわる。鱗がはがれるみたいに、卵の殻がむけるように。ときにぼろぼろになり、ときにあるべきすがたに近づく。朝は食パンを食べる。スープではなく、みそ汁を飲む。今日は玉ねぎと油揚げのみそ汁だ。玉ねぎに包丁を入れると、その繊維が断たれている音がする。みずみずしい音だ。油揚げは、切って冷凍してあるものを使う。まずはお湯を沸かし、だしを入れる。ご飯ができれば、食パンをお皿にのせ、みそ汁をよそって、リビングに向かう。
会社に行くためのスーツを着る。わたしはいつもパンツスーツを選んで着ている。スーツを着終えたら、パンプスを履く。パンプスだけは、かわいらしいデザインのものを選んでいる。靴のつま先のところのかたちが丸っこくて、柔らかい雰囲気だ。気に入って、こればかり履いている。マンションから出ると、いつものように快晴。わたしを責めるように。
パンプスで歩くと、わたしはすこし大人になったような気分になる。建物の、ガラス窓を見る。とてもきれいだ。あれは誰が管理しているのだろう。わたしの頭はふとした瞬間にどこかへ行ってしまう。景色も勝手に移りかわる。戻ってこない。
社員証をタッチすると、そこはもうわたしの会社で、わたしは名前の付いた一個体になりかわる。そこでは、わたしという人間の、あるべき姿を認めなくてはいけない。
光。
あいさつをすると、返す人と返さない人がいる。返さない人のことを気にして、あの人はわたしを嫌いなのだと思い込む。机には紙コップに入ったコーヒーがある。誰かが淹れてくれている。わたしはこころの中でその人にありがとう、と言う。わたしを気にしてくれる人はあなただけだと思ったりもする。すこし、うれしい。誰かがわたしを気にしてくれている。
「牧野さん、そういえば、昨日渡した資料ってやってくれたんだっけ?」
「今日中にできると思います。」
沈黙。
ため息が聞こえる。人のため息というのはなぜそれだけでなにかを傷つけるのだろう。ひとりの夜にそれを思い出すのだ。その音におびえたりするのだ。わたしがそうしているとき、その姿はとても醜い。殴られた方がましなのに、と思う。ぐるぐるとその考えがめぐる。
先生は言う。
「もうすこし気楽に考えるべきなんです。あなたが自分を好きになれないというのはとても難しい問題なのです。自分を好きになれない自分も好きになれないということだから。」
わたしには難しくて分からない。自分を好きになれない自分も好きになれないということが。
「たいていの人は、自分を百パーセント好きだなんて言えないんですよ。」
はい、そうだと思います。本当にそうだと思います。だけど、赦してください。先生、わたしはよくなりますか。
薬の量は、また増えていく。
光。
気休めの睡眠薬を飲んで、すこし眠る。もし、わたしがすべてを手放したら、もし手放せたら、わたしを誰かが救うだろうか。それはとても難しいことだ。ゆるやかな死をわたしは望んでいる。
また、朝が来る。ひとりの朝だ。ことばをつむぐための朝だ。ニュースを見る。みそ汁を作る。今日はナスだ。油揚げがきれていたので、入れない。ナスだけのみそ汁だ。食パンは食べなかった。
作品データ
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作成日時 2024-07-22
コメント日時 2024-07-26
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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2024/11/21 21時34分04秒現在
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ボクはフツーの人と比べて幽かな風の音や草むらの匂いとかには至極敏感なのにメンタルは頭カチ割られてもヘラヘラ笑っているくらい超ド級の強さを持っています。 失恋したらすぐ別の人にアタックするし、愛車で事故ってもカネで修理すればそれで終わりです。 「あいさつをすると、返す人と返さない人がいる。返さない人のことを気にして、あの人はわたしを嫌いなのだと思い込む。」 あいさつしない人って、ボクもそうですが挨拶がメンドーなんですよね。 疲れている時って、もう声を出すのもシンドイ場合がある、、 それでボクは挨拶されたら右手をニギニギするだけのアクションをしています。 試みに、目と目が合ったら「おはようございます」じゃなく少し微笑んで右手をニギニギしてみたらいかがでしょう。 相手が果たしてどういう反応するか試してみるのも面白いかもです、、 さて、この詩はとても読みやすくてボク好みの文章だと思いました。 食パンという表題ですが、作品中で食パンのメーカー名が伏せられているのが「テーマ」と関係しているのかも知れません。 なんといっても、添加物と食品、医療、薬品、生命保険はちゃんと繋がってますんで、、 それと茄子のお味噌汁はボクも大好きです。 ウチでは茄子とそーめんのお味噌汁をよく作ります。 でわ、、
2ぼくらが旅に出る理由 なんて曲がありましたね あのタイトルは逆説的にぼくらが旅に出ない理由はたくさんあるよね ということを示唆してるような気もします ハイウェイなんて曲もありました 僕らが旅に出る理由はだいたい100個くらいあるといいます ならもしかしたら出ない理由は10000個くらいあるのかもしれません 日常は不思議なものでどの日どの日を取ってみてもひとつとして同じ日はないのに ほとんど双子みたいに クッキーとビスケットみたいに似ていて それでもそれをクローズアップで見てみると すこしずつすこしずつズレて行くのが分かります それはきっと始まりがあって終わりがあるということなんだと思います 砂丘は風の形をしています それは当たり前のことですね 砂の一粒一粒を押し流しそれを作ったのは風そのものなのですから しかしそれは一朝一夕でなったものではなくほとんど悠久のような時間の中で風が砂粒をあっちにやったりこっちにやったりした結果 それが出来上がったのでした なので砂丘は時間のとある次元の断面であるということができるのではないでしょうか そしてもし一粒の砂でそうならば 一枚の食パンだってそういうことをいえるのかもしれませんね
0序盤はとても良かったのですが、後半に進むにつれて既視感を感じるようになり、生活、消費、社会、病気といった、よく目にするキーワードを、あまり目にすることのできない物語に変換しきれていないまま、終結したように感じました。作品に、描写を突き詰めていくか、構成を突き詰めていくか、型にはまることのない独自性のような、例えば“アイルランドを旅した友人からの手紙”を作中に書き出してみられるとか、思わずそうくるかと、感嘆してしまうような、強みがもっとプラスされてくるといいなと思いました。 “食パンは食べなかった。”という終わり方がいいですね。ナスと食パンの食べ合わせなのか、あるいは気分的なものなのか、ちょっとした(自分の)変化の例えなのか、色々と想像を巡らせることができます。 “光。”という単語が、二度置かれているのが個人的に好きなのですが、どちらも作中において場面を転換する(区切る)役割を果たしていることと、二度目の“光。”には、そこを読んだあとで自動的に、最前文にループしていくような効果も感じました。繰り返す日々を取るか、僅かな変化を取るか、タイトルを反古にするかもしれませんが、僕は最後、二度目の“光。”で終結させるのも新鮮かなと思いました。
1ナイーブな人物の淡々としたそれでいて清潔な感じの暮らしが描かれて、その中に病の気配故の光の貴重さや形作られた味噌汁や食パンの存在感が人と共に美しく命を感じさせます。
0自分のなかでもなんかさえないと思っていたので、非常に参考になります。終わりの部分がいいと言ってくださってうれしいです。
1さえない作品などでは全然ないと思います。少なくとも僕にはこのように豊かな文章は綴れません。この作品を読ませて頂いたとき、頭の中にはハツさんの『生活ってなんだ?』が浮かんできました。二つの作品は、似ているところがあって、違うところもあります。僕が感じた違いを一つだけ挙げるとすれば、作品の明度の調律だと思います。物には陰影が自然とできるように、明るさと暗さのバランスが、自然であるか不自然であるか、ということを読ませて頂きながら考えました。
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