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おやおや氏の「葬儀、地球の」を読んでみた
はじめにアーカイブな感想文で申し訳ないことを付け加えておきます。久しぶりに開いてみたこちらのサイトでたまたま目についたという事なのです。 先ず眼を通してみればその奇を衒ったようなオーバーな表現が飛び込んできました。( 地球は死んでいる。ついさっき死んだ。 ) ああ、これは鳴海氏が批評でも書いているようにオーバーな擬人化の喩えだな、というのが印象として飛び込んできますね。しかしこの後を読んでいくとどうやら話しが違ってみえてくる印象です。( 地球が死んだとき、僕は地球のすぐそばにいた~ )何かしら複雑な比喩を思わずにはいられなくなる。そしてもっとわからなくさせられるのが登場人物に描かれている(おくりびと)の存在から死に体におしっこをかけるという(天使)に人物とも思えない(製図士)の暗躍。実在として思い描けるのは(お父さん)だけ。ぼくを主体にしてたったこれだけの脇役で地球という目の前に存在する物質をまるで生きものとして表現しているのです。 ここまで読めばコメントされている皆さんのように現実問題としての環境破壊。このことが比喩化されて取り上げられているのかな、とも感じられるますね。( 地球が死んだとき、ぼくは地球のすぐそばにいた~) ?天使のおしっこ。そして、おくりびと。これをキリスト教に準じて解釈するならば(おくりびと)などという和名は儀式的に捉えた神様のことになる。なので選評で宗教的観念を上げておられた田中氏の解釈も的を得ているのです。 鳴海氏は批評に於いて不思議な感覚だと書かれています。確かにどこまでも想像の裾野が拡がってしまう解釈は不思議な作りです。このことの答えのようなものが最終連?から徐々にその姿が現れはじめます。( 生きていようと、死んでいようともどうでもいいか、と、ぼくは思った。)何でしょうね。この諦観は。日々我々がこの地上に於いて踏みつけている地球という物質的な存在に対して、あたかも感情が存在しているかのように想起されてきます。そこで私にはこの詩で喩化され表現された地球という言葉の存在が、はじめから現実として存在していないことにようやく辿り着きます。地球は確かに存在している。そのことを踏まえてはじめからぼくの比喩化された魂として位置づけられているのですね。ぼくの肉体と魂の分離。コメントではAOIさんも魂と読み解いておられるますね。これが詩作に込める思いから書かれているのか、それはわからない。つまり日々の悩みから懊悩困惑し、壊れていく内面に対してこの語り手は自分自身と対峙しているのです。
おやおや氏の「葬儀、地球の」を読んでみた ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 495.9
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-03-07
コメント日時 2024-03-07
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文