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愛よりも怒りの方が大事だ
愛の歌は難しい。平和もまた難しい。 怒りや戦争は、わかりやすい。 ナイーブになりがちの時、その怒りを鎮める発散と解消に、なにが必要か? 仮想敵。 平和や愛を解く人々が時に病んでしまっているのは、その哀れみ深さ故である。 他人をいたぶる人間のことを傍目で見た人が 「この人は病んでいる」 と感じる時、実は良心の問題に捉われてしまっているのです。 本人がどう言う心境でいるか? 神経は図太くなり、無神経さを増していきます。 他人をいたぶることによってナイーブにならなくて済む状態を内心楽しんでいるのです。 呼吸は深みを増し、夜はよく眠れるようになります。 ナイーブにならなくなると言うことは神経経路を通して物事について考えなくなると言うことです。 長生きだけが目的の場合、そこに全神経を集中させたい。 長生きのために、持て余す時間を日々黙々と熱を上げて健康に取り組む。 死にたくないと言うナイーブ。何故そうなってしまうのか? 死と言うものを多くの人はどう捉えているのか? 鏡である他者の存在から見えなくなる。それが私にとっての死なのです。 ところが、全く違う観点から死を捉えている人もいる。 苦しくないことが大事だと。死と言うのはとにかく苦しいものなのだと。 老衰死が出来ればいいのだと。 目でたく死んでいくと言うことを人生のゴールとして目指すべきものであり、それを終えることにより、良い人生だったと捉えている。最後には笑った方が勝つと言う発想と似ている。 常にラストを見据えて現在を生きている。何故そうなってしまうのか? たった今この瞬間を必死で生きようと出来ないのか? 今この瞬間が楽しい、その連続の中にしか人の生はないと肉体的に若い女性は思うものだと思うのです。 男のイマジネーションは、時に論理的倒錯を起こす。 「今が良ければそれでいいだけではダメだ」 この言葉も、取りようによっては、瞬間瞬間を大切に生きる未来を見据えた上で、それが子供の未来のためにでなく、自分の長生きのためにと取るのは何故なのか? それはすり替えを都合勘定でしてしまっているのだと思う。 ビートルズはエリナーリグビーで孤独で独りよがりな人間のことを歌ったが、鏡としての他者の存在を求めない人もいるのだと思う。イマジネーションの原点がテレビだったりネットだったり、外的なものから与えられているものにすり替えられている場合、他人と話しながら、他人がなにがしかのフィルターを通してしか見えなくなっている。 テレビが皆さん一人一人のためにとアナウンスする時、自分たちは徹底的に優しくされるものなのだと受け取る人もいるのかも知れない。愛も平和も一方的に受け取るものではない。他人に愛を与え発揮することが喜びと思えなくなってしまうのは、人を喜ばせようとする道化師への上から目線がある。 受け取るだけが何故そんなに楽しいのか? 与えられないことへの苛立ちがあるのだろうか? 不思議だ。 与えることを損に感じるとしたら、他人に厳しく自分に優しい我儘な人ということで それが弱肉強食の発想だとしたら、そこで得る快楽は、確かに傍目に歪で病んでいる。 いじめによる強者の笑い。消費者になることによって勝つという発想。 法テラスへ行くと、不当な扱いに対し、訴えると、女性職員は視線を全く動かさずにデスクにかじりつく。 確かに彼女たちは、いじめを楽しんでいるのだ。 福祉系の職員は、他人を上から目線で見下す人間は多い。 同じ心を扱う分野でも、夜の世界の人たちのまったく違うこと。 それが現代人の心の問題であり、価値観の問題でもある。 立派であるという建前が、如何に人から心を奪うものか。 愛がそこまで美しくいいものなら、何故ベッドで寝たきりを想像させる世界にいるのか? 怒りによって立ち上がることを私はお勧めしたい。 つまりパンクであって欲しい。
愛よりも怒りの方が大事だ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 609.9
お気に入り数: 1
投票数 : 1
作成日時 2024-01-20
コメント日時 2024-01-21
私の詩に対して批評文を書いていただき、ありがとうございます。 入院中に、生老病死を目の当たりにして、懸命に働いて生きることがいかに 人を優れたものにし、病苦をはねのけるものかと感じた次第です。 シーツ交換をしてくださる人が、週に一回来てくれます。聞いたところ、やはり仕事は 疲れるということ。患者同士もしゃべったりしますが、お世話になっている看護師の方々 に対して、怒りもなく、感謝もなく、当たり前のように要求のみを述べる、何らかの 精神疾患の老人などもいました。そうでなくとも、ただでさえ老いというのは、重く のしかかってくることです。そのようなものをどう受け入れるか。希望や、生きる意欲 がなくては、やっていけません。下手に菓子などを食べる欲を満たしていれば、 ストレス発散にはなるでしょうが、根本的な解決には至りません。 そこで私が頼ったものが、仏教の教える八正道です。正見、正思惟、正語、正業、正命、 正精進、正念、正定。これらに従って生きていれば、良いことが起こる。 人間とは、神ではないので、そういう生き方の指針に従うことが、賢い生き方である、 ということを、超えた生き方はないと思われます。仏教徒であることが、幸せとさとりを 約束し、まだ見ぬ未来に、希望を託せる。 釈尊が一体どのような天才的な才覚を発揮して、このような教えを考えるに至ったかということは、 想像もつきませんが、私の母に言わせれば、普通のことを言っているだけだよ、ということのようです。 怒りは、正義の怒りであれば、素晴らしいクリエイティビティの原点になるだろうとは、思います。 というか、私は入院中に部屋で怒りを爆発させてばかりだったので、この詩にしても、怒りが生んだ、 と言ってもいいかと思います。愛と怒りは必ずしも両立しないものではありません。
1正直いうと、僕の場合、入院中怒りの抑制を要求する病院の希望に合わせて沿わせるんだよね。 人の話聞かない人とか、正直な人が多くの人に理解されやすく愛されるのはわかるし、それを悪いとは言わないのです。 ただ、少し扱いの違いに腹を立てることはあるかなあ。 だって、こっちは我慢して合わせてたりするし、本当にその黒神様の言うように、違いだけだよね。 損する方、得する方、どっちの違いかと言うことで。 未来予測の世界に生きると暴れたらどうなるかと言う計算が入る。 入らない人は好き放題できるし、それでどうにかなるもの。 計算高さと企画性を持ってないと、まともな言葉の連なりの世界を生きれないとも思うんだけど、正直な人の魅力もあると思う。 不満があるから病気になる。病者と言う立場になると、発散の抑制への要求社会的にどんどん高くなっていく面もあるし。 愛と怒り憎しみが同居すること自体は否定しないです。 好きだから従うし、好きだから従わせる。 怒りに対し、愛で応えることもあるでしょう。 怒ってる対象があるならそこにぶつけると、誠実に返してくれることはある。 他者への絶望が根底にあるのだとしたら、医薬品でそれを抑えることが根本解決になるのだろうか?
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