僕たちは何処にもいない。
戦争の跡地に赴くと、皆が皆、荒れ地に貧相な花の種を植えている。「あとはやっておきますよ」と僕は彼らに代わって、憎悪のじょうろで水をやる。子葉が根を抱くように守るのを見る。これが僕の仕事だ。
僕の手は誰よりも泥だらけだ。どうにか均衡を保たないといけない。血はもちろん、海の塩、空の灰、あなたの肌のぬめり、DNAの擦り切れを、この生命線に湿らせないといけない。
あそこで演説する野郎がいるな。一匹のハエを紐でくくって、これが希望だと平民に謳っている。僕はコサックダンスがてら、彼の首をねじ切る。靴裏の深淵をこれでもかと見せながら、平民の前を通りすぎる。これも僕の仕事だ。
平民はやがて首相になるだろう。それがこの世の平等なので。僕らは常に二面性に息をする。波紋はどこにでもつながり、戦争は形に現れなくなったもんだ。
僕らは何も思い出せない、でいい。デジャブだ、と思いながら書物を燃やして、占い師たちの予言を伸びた鼻で笑って、とりあえず、僕の十字模様に生えた胸毛を崇めたりしよう。
たしか、鏡で右目が左目を見る時、左目は新たな目を見てるよな。そこにまるで本当の美があるように、宙吊りになっている。耳も本当は、外からの音じゃなくて、皮膚に伝わる内なる振動を、閉じ込めようと必死な鼓膜が、叫び泣いているのを聞いてるんだよな。
ああ、僕たちは本当は流動体なのに、なぜか留まろうとしてしまう。留まろうとしてしまうのに嫌気がさして、留まらないことに留まったりするが、これはとどのつまり、止めどない徒労と共倒れするトマトノマドと魔の手の窓だ。ああ。
僕はどうしても生きてしまうから、何処にもいないようにしてみるけど、きっと、知らずのうちにこの世界とぶつかって、メンチ切られて、へその緒切られて、宇宙子宮から突き放されて、ブラックホールも逃げ出すような、すべてを壊すカラクリに食われて、墓が建てられてしまうのだろう。
それだけは、僕の仕事じゃないんだけど。
作品データ
コメント数 : 10
P V 数 : 954.7
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-01-03
コメント日時 2024-01-23
#現代詩
#縦書き
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2024/11/21 20時54分17秒現在
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「平民はやがて首相になるだろう。それがこの世の平等なので。僕らは常に二面性に息をする。波紋はどこにでもつながり、戦争は形に現れなくなったもんだ」 これらの行、連に文明批評や時評を越えた、現代、モダンに対する、批評から来るポエジーが有ると思いました。それと流動体なのに留まろうとする、の箇所や、僕はどうしても生きてしまうと言うセンテンスに、実存の悩みが垣間見られて、苦悩がポエジーに昇華して居ると思いました。
1批評精神が浅い、と思いました次第でございます。 もっと深く突き刺さなければ、致命傷には到らないと。 どうせならば、猛毒を突き付けて欲しい。誰も触れられない様な、ポロニウムの様な毒を。
1小説「1984」の主人公の乾いた眼差しを想起させるような語りだなと思いました。 繰り返される「仕事」というwordがテーマの一つのようであり、そこに生真面目さが働くのでシリアスな内容の割には揺り戻しが小さいのかなと思いました。 見ること聞くことを語る7連目がとても印象的でした。 詩誌に掲載されていてもおかしくないような作品だと思いました。
1正式タイトルは僕たちは何処にもいないだろうか。問題提起を誘うものなのかな今回の詩のコンセプトは。僕とは感情のことだろうか。世間の話題にひっつけられるようなけれど断定することもない程度の言葉の配分でうまく組まれているよね。初連を強く持ってきて目を引かせ二連目で和らげる、その後二連はもっと具体的にして感情を煽る、つかみは十分だ。感情とはなにかしらぶつかって流れ出し築かれるものだけど、墓ばかりはもう一方通行、すると僕の仕事ではないのかもしれない。僕が何か、なんて多分作者だけのからくりで十分だけども。十分読ませることができる、詩だとおもった。ただ上手い!巧い!と唸らせるには、なにかやはり強さがないのかな。でもそれをすると凸凹になってしまうから、詩の形としていろんな読みが適うということから崩れてしまうから。まあむずかしいね。(わたしはそうおもうってだけです、偉そうなコメントですいません)
1コメント、ありがとうございます。 現代批評からくるポエジー、確かに強く意識する時が自分の中にあります。 今回はイメージのブレが多くあったかと思いますが、その批評意識がより全面に浮き出てきてしまう詩を、模索しても面白いなと思いました。 ありがとうございます。
0コメント、ありがとうございます。 楽な方の語感・思想へと甘える癖を見透かされたと感じました。 この上ない叱咤激励、身に刻んで精進します。
1コメント、ありがとうございます。 「仕事」のイメージから生真面目さ、シリアスさが来て、そこからの揺り戻しとは、やはり不真面目さ、無秩序のイメージへの動きという解釈で合っていますでしょうか。 この詩の「僕」がいる戦争の跡地は、ソフィストのような存在が見られたり、平民による革命が有り得るような場所で、近代までの要素が合わさった、新たな時代にタイムスリップしているイメージがあると私は考えてます。 その渦中でも、「仕事」に固執する「僕」のことを考えると、ハナから何かしら狂気を帯びている、生真面目さの仮面を被っている存在のようにも思えます。 それを踏まえたうえで、もう一つ転調が加われば……という期待は確かに抱いたまま、書き上げてしまいました。 後半、勿体無いお言葉、ありがとうございます。詩誌にも投稿、努めております。精進します。
0コメント、ありがとうございます。 この詩のイメージの出発点は、「大それた宣言」でした。 参考にしていた作品のイメージと、自分の言葉を織り交ぜながら、強く書き出しました。が、なぜだか書いていくうちに首が傾いていき、この現代にこの「宣言」がどれほどの射程を持つのか、その疑心が生まれて萎んでいった詩になりました。 これもこれで面白いなと思うのと同時に、二度とこのような詩の流れはなぞらない、とは考えています。 唸らせる詩、目指していきます。ありがとうございます。
1ミハイさんの某投稿詩『失敗実験』あれすごくよかった、ああいった書きかたがあるのだなと、目を瞠りました。とてもすきです。自分も振り幅みたいなもの広げていきたいなと思うけど、何処も目指してないので結局書きやすかったり好みだったりに傾いてしまうなあ。目指しているものがあるっていいですね。何事も挑戦なのかな、がんばってくださいな。
1仕事を探していらっしゃるのですね。 同じような構造の詩句を、列を空けてたくさん書いていらっしゃる。 これが、答えの探索作業とでもいうようなものでしょうか。 それらは、意味を持った詩編。感情と知識に確かに訴えかける。 では、詩文を超えたある特別な真理に近づいただろうか。 つまり、一つの哲学を胚胎しているだろうか。 それを考えるうえで、熊倉ミハイさんのこの詩の始まりに注目して、 「たとえこの身が泥の塊となりはてても、なにひとつ穢さずにいたい」と書いたシモーヌ・ヴェイユ という哲学者の心を思ってみます。純粋ですね。熊倉さんの言っている、憎悪のじょうろという ものも、結局そういうところに行き着くことが、正しい働きであり、正行(正精進)であると 思うのです。
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