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一回的な生
うーんと、考え込んでしまった。人に目一杯、これでもかというほどに尽くしてきた。それなのに"振り返れば孤独"とは、一体どういうことなのか?そんなことがあっていいものかと、行き場のない怒りすら胸には湧いてくる。 しかし、ほとぼりを冷まして考えてみるならば、語り手のような生は、この世界にそれこそ星のように存在しているはずである。 誠心誠意人に尽くしたところで、彼/彼女の胸に愛を刻印できるとは限らない。逆に、飄然として、何物(者)にも頓着しないような人が、どうしてだか皆の思慕を集めていく。あるいは、自分の話にいつも笑い転げてくれていたのに、ときにしんみり語り合ったのに、離れ離れになるや一切の便りも寄こしてくれない。人と人との関係性、それはあたかも、人智を超えたメカニズムによって駆動されているかのようである。 だからこそ僕たちは、語り手のような人に出会ったとき、たとえば「自分を愛せない人は人を愛することもできない」などという、そんな紋切り型の正論をひけらかすべきではないのだ。彼/彼女が愛を得られなかったのは、ひとえに偶然ゆえであったかもしれないのだから。 そしてそれと同じ理由で、僕はこの作品の一般性を信じない。"自分の気持ちを捨て"ることが、まさにほかでもなく「自分の気持ち」であるような、そんな人格の存在への想像力を、読み手は持つべきではないだろうか?そうしてどこまでも人へと寄り添い続け、ついには本物の愛を獲得してしまう―そんな生もまた、この世界にはやはり星のように存在しているだろうことを、僕はこの作品から逆に感じた。 その意味で、"自分を殺しても誰も幸せにならないのに"という一行は不要だと思った。あくまで自身の痛みの個別性に寄り添う姿勢を貫いてほしかった。あるいはまた、悦びにも。 自身に起きた運命というものの理不尽を全身で抱き止め、もっと言えば愛すること。そしてまた、たとえいっときのものだったとしても、自分を抑えることで咲かせることのできた、そんな人々の笑みたちをも。 雑然としていながらたしかにこの身に起こった、概念に回収するやその活力を失ってしまうような、そんなゴツゴツとした現実としての記憶たち。あの日あの時あの場所で、たしかに生きていた<わたし>。そこにこそ生というものの、そのかけがえのない一回性の感触があるはずであり、きっと人はそこからこそ、再起のための力を汲み出すことができる。
一回的な生 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 404.0
お気に入り数: 1
投票数 : 0
作成日時 2023-12-01
コメント日時 2023-12-01