落つる葉を
拾ひて同じものはなし
落つる葉と
落ちたる枯葉
違ふもの
それ故同じ葉と呼ばれたり
目の前に落ち葉
それから僕
僕は落ち葉でない
落ち葉は僕でない
はっきりしている違い
今までのあたし
此れからのあたし
あたしはあたしでない
あたしはあたしでない
はっきりしている違い
「思念の余談)…
目に入るすべてを
時間も延長す
ほんでもって空間を作り出したらば己の
たましひ!!
を発見する
あたしは僕は空間を延長し空間を作りだす
空間移動
阻むものはない
たましひ!!となってだ
あたしは天魔の命より龍の背に乗り闇より闇から出ずる物の怪たちを滅ぼしたり
僕は愛する女の純情をこの世界の果てに連れて行く
それから二人は本当の世界で真実のみで分かち合う
異世界空間
摩訶不思議
ファンタスティック
オーソレ思念ヨ
あなたと僕は土に頭が埋もれている
阻むものはない
体と頭を繋ぐ……残酷に染められた……)
大樹の葉が紅葉となっている
たましひとは!?なんだ??
)…
あたしは僕でない
僕はあたしでない
僕はあなたと違うから僕は僕でした
あたしは僕と同じて無いからあたしはあたしと言えるのよ
僕とあたしは同じでないと同じことを言っている
同様
「結末へ向かう落ち葉より」
ひらり落つる葉を掴む
通行人は枯葉を鳴らしてる
その枯葉は
手に持つ落つる葉だったものと同じなんだ
またひらり道に落つ
落ちた葉を掴む
2枚の葉を観察する
同じとない落ち葉と気づく
2枚の落ち葉は同じでない
だから
手に持つ落ち葉と道に落ちた葉は
同じ
僕とあたしも
私も私も
同じと違うが合わさった
それほかは言葉のみ
作品データ
コメント数 : 14
P V 数 : 1478.2
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-11-28
コメント日時 2023-12-09
#現代詩
#歌誌帆掲載応募
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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閲覧指数:1478.2
2024/11/21 23時32分15秒現在
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冒頭の2連を読んで、金剛般若経の「微塵は微塵にあらず、それを微塵となす」とか「世界は世界にあらず、それを世界と名づく」とかいう言葉を思い出しました。 人は世界を言葉によって分割し、頭の中でそれを再構築して世界のモデルを作ります。 この詩ではそのモデルに魂を観ているように思えます。 ただ、言葉とは世界から切り出されたものを抽象化したものなので、言葉の意味と、言葉に指し示された「モノそのもの」とは決して同じではありません。でも頭の中のモデルではそれらは同じ言葉で示される。そのことが 「2枚の落ち葉は同じでない だから 手に持つ落ち葉と道に落ちた葉は 同じ」 というところに表されているように感じました。 言葉とモノの存在の有り様を表した面白い詩だと思います。
1歌誌「帆」選考担当の一人、鷹枕可でございます。 此の度は、自由詩掲載枠にご応募ご投稿を賜り、允に有り難うございます。 御作を拝読させて頂きました。 先ず、非常に思弁的にお練りに為られた詩文であり、文体もくきやかであり、非常に宜しいのではないでしょうか、と思いました次第でございます。 総ては異なるが、異なると謂う一点に拠って同一である、そして万有は異と同の重ね合わせ、という結論へ到る迄へ、構築的に編まれた論であり、復詩であると。 評文を一度起草を致しましたが、釈迦の掌の上よりは逸脱できない、自身の思考の限界を感受致しました次第でございます。 拠って全文を破棄し、新しく、起草をさせて頂いております。 梵我一助から、シュレディンガーの猫へ至り、それらは畢竟言葉の綾でしかない。素晴しい括りであると感銘を受けました次第です。 永続に亙って、「それそのもの」を表現する手段を我々は所有しないのだと、改めて噛み締めつつ。 言葉に産れ、 言葉に遊び、 言葉に溺れ、 言葉に死す、 詩人の矜持を改めて受け取りました次第でございます。 果して評文と為っているのか否かは、さこそ解りは致しませんが(心許ない評者で申し訳もございません。)。 肝心の掲載に付きましては、一定の水準に達していらっしゃる、と評者自身は感受を致しましたので、 追って、合議の結果を御報せさせて頂きたく存じ上げます。 それでは、暫しお待ち下さいませ。
1摩訶不思議「たましひ」の発見 このtitleかっこいいっすよね。とても目をひきます。 >異世界空間摩訶不思議ファンタスティックオーソレ思念ヨ そうだそうだ!って復唱していいたくなる。終始書き手のノリでことば巧みさに持っていかれる作品。
1壮大なイメージ。
1歌誌「帆」より、合議の結果を御報せさせて頂きたく存じ上げます。 結果と致しましては、今回の掲載は見送らせて頂くことと相成りました次第でございます。 評者個人は、触発されます事も甚だしく、佳いと思って居りましたので残念ではございますが。 全体の凝縮と、ユーモアセンスに付きまして一課題がお在りに為られるとのことでしたので、若し、次も投稿をして下さいますなら其処を意識なされてみて下さいませ。 今回は残念ではございましたが、 是非とも復のご応募ご投稿をお待ち申し上げております。
1コメントありがとうございます。 ものそのものを人間は知ることはできない 哲学のテーマですね。浅学の私ですので間違いかもしれませんがカントの哲学でしょうか。 仏教は全然知りませんが、真剣にものを考える人たちは古今東西似たようなことを言っていると思ってます。
0評価をしてもらいありがとうございます。 縮小とユーモアを考えていきます。 この詩のユーモアのかけている部分とは また、詩についてのユーモアと縮小のついてアドバイスいただければ幸いです。
1コメントありがとうございます。 カッコいいと言って頂きありがとうございます。 カッコいいと思われた理由まで教えていただければ幸いです。
0コメントありがとうございます。 自分ではむしろ主観的に書いた詩だと思っているのですが、 壮大に思われた理由を教えていただければ幸いです。
0唯名論と普遍と金子みすずの三角関係、だけではない。ゼッケンです。牡丹波さん、すてきなお名前ですね、こんにちは。 >目に入るすべてを >時間も延長す >ほんでもって空間を作り出したらば己の >たましひ!! >を発見する デカルトとカントから魂を発見する。ここは興奮するところ。 空間は純粋持続である魂が作り出したもの。だから、本義の魂を取り戻した「あたしは僕は」なにものにも阻まれずに空間を移動できる。 >あたしは天魔の命より龍の背に乗り闇より闇から出ずる物の怪たちを滅ぼしたり >僕は愛する女の純情をこの世界の果てに連れて行く >それから二人は本当の世界で真実のみで分かち合う ここでマンガやアニメから借景したのは想像力の自由さを謳歌するように見えてむしろテンプレ化してる「思念」への皮肉。「阻むものはない」と言いながら、「あなたと僕は土に頭が埋もれている」。めちゃ不自由な体勢で、周りのなにも見る気がない。そんな状態だからこそ逆説的に問える、「たましひとは!?なんだ??」。不自由な人間しか自由を問うことはできない。 >僕とあたしは同じでないと同じことを言っている 我々はお互いに同じ人間ではないとずっと同じ言葉を繰り返している。なにゆえ、他人に対しては己の個性を、自分に対してはアイデンティティを主張し続けるのか? その主張を続けることは正しいのか? 本来なら何者にもなれる間主観的な魂を持つがゆえになんらかの強制を受けているのではないか? >2枚の落ち葉は同じでない >だから >手に持つ落ち葉と道に落ちた葉は >同じ 反復して葉が落ちることでいままさに落ちていく葉と落ちてしまった葉の差異が生じる。違うという認識は同じという認識に支えられている。「同じと違うが合わさった」ときにだけ魂から私の認識が生じる。 で、最後に「それほかは言葉のみ」で締めくくられるわけですが、これ、ゼッケンは言葉が魂に輪郭を与える強制の正体だと読んでみた。
1お返事の程を、失礼させて頂きます。 多分、問題点は、「詩にて論理を語ることに付いて」の認否であり。その価値判断に則っての否、だったのではないでしょうか。 そして、ユーモアに付きましては「軽み」が厭われたのではないでしょうか。却下者当人ではございませんので、推測ですが。 余りご参考に為らないかも知れませんが、 一つの指標となりましたならば僥倖でございます。 追伸:横からですが、ゼッケン様の読み、とても興味深く拝読をさせて頂きました。 「あなたと僕は土に頭が埋もれている」に付きましては、私は植物の形態を彷彿と致しました次第でございます。 ほら、植物は人間の下肢‐下半身が「花」という形態を以て末梢にございますでしょう。 ですから、「あなたと僕」は植物的存在なのだと読解を致しました次第でございます。 一文の読みに付きましても、此処まで幅が在る、と申します事は、作品の奥行と強度が為せる業なのでございましょう。 種々の読みが在る。此れはとても喜ばしい状態であると思いました次第でございます。
1コメントありがとうございます。 デカルトとカントからたましひを発見すると読み、自分の詩にデカルトとカントが現れると思い恐縮してます。 僕自身はデカルトの本はかじった程度に、カントにしては読んだことがないです。 哲学史や解説本で読んだぐらいです。 哲学の入門書を読んでいるときに関心を示したことを詩にしたまでにすぎません。 関心したのはデカルト、カントでなく ヘーゲルです。 生は結合と非結合との結合 それをそのまま僕が日頃思う感情を当てました。 そして、(たましひ)について僕自身はよくわからないのです。 なので、無教養で失礼な質問になるかと思いますが、間主観的なたましひとは何でしょうか。 教えていただければ幸いです。
0>無教養で失礼な質問になるかと思いますが、間主観的なたましひとは何でしょうか。 >教えていただければ幸いです。 「間主観的なたましひ」というのは牡丹波さんの作品を私が解釈した言葉ですけども、時間や空間は主観の間で共有あるいは同意されている認知の形式(間主観性)なので、そこから魂を発見したのだから「間主観的なたましひ」となるだろう、というのが牡丹波さんの「たましひ」に関する私の解釈です。時間や空間と同様に魂も共有されている、あるいは主観の間で同意されているとする牡丹波さんの「たましひ」に興奮して、よく分からん言葉を書き連ねてしまいましたよ。
1返信コメント誠に有り難うございます。 浅学の私なので以下の文章に間違いはあると思いますが許していただきたい。 時間や空間は主観の間で共有しているあるいは同意されている認知の形式(間主観性)を読み、現象学になるでしょうか。 ゼッケンさんのコメントを読み現象学を見ました。私自身、(たましひ)は普遍性となり得るかが問題に思えるのです。 たましひと聞いて、指差し見ることはできない。個人の中で組み上げた(感じたり、信じたり)、確信である、 つまり「超越」である。(かくなるものに違いない※参照 現代思想の冒険 著者 竹田青嗣 ちくま学芸文庫) たましひと聞いて、それぞれの色合いがあるかもしれないが、(たましひ)の言葉がある。 共通に言葉を知っているが、(たましひ)に公理、基準を持つことはできるだろうか。 (たましひ)に公理がなければ、私のたましひ、あなたのたましひは意味不明となる。 そして(たましひ)とはなんだ、と問いも意味を失う、個人でのみ知るのだから相手に問うのはできない。それぞれのたましひがあるだけとなる。 そう考えておりますが、ゼッケンさんのコメントを読み、やはり(たましひ)の言葉を多くの人が納得して普通に詩に現れている以上、「たましひとはなんだ」と問いたくなります。 もう一つ、ウィトゲンシュタインの「論考」であれば、それを神秘と呼ぶと考えていました。 僕はたましひはわかりませんが、そのことを考えたくなる感情は理解できそうなんです。 なぜなら、私を超えて何かあると思わなければ、私は自分自身に退屈してしまいそうだからです。
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