作品を読む
言論プロレスのような内容
批評とは、なにか? 答えは愛である。 美文を紹介して、私めのようなものは紹介に徹するのみ。これは本来の批評の精神ではない。 自分が語りたいことがある。自分主体で考える。批評も表現。 雨が降った後に、雨が降ったんだなと思う。現象の後に確認。そしてそれを表現する。それは一緒。 表現は常に解釈を披露するもの。 「こうでしかない」 この世界に生きて、表現の自由を振りかざしても、解釈の自由がない人間が振りかざす自由を自由な表現とは言えない。 僕はこれに対し、こう思いました。僕はこれについてこう感じました。この解釈の自由を発揮する点において、批評も純粋詩も変わらないとも言える。 しかし、前者は、他人に依存する度合いで言えば、違うかも知れない。 雨が降ったその現象に対する感動を、絵本にする文学にする。それを書いたものを読んだ感動を元に、批評文を書く。後者の方がより高度で文明的。前者の方が原始的。 クオリティの問題で言うと、発想力が伴ったクオリティならいいのだけど、上手だ器用だよく書けている。その知的複雑性高度だけだと、芸術ではない。子供の絵はクオリティは低いけれど、発想の自由と独創性。クオリティにつながる可能性がある。そこに素質を見れば、前者がまず優先順位として先に来る。 この詩を読む。 ヘヴィメタ調の言葉遊びに乗せて、言われた相手からすれば気に入らない言葉を連呼する。かわいがりが行われる内容である。 かわいがりとは、悪い言葉で言えば、いじめである。 いじめの本当に悲しいのは、強者が弱者をいじめる笑い。私の場合、いじめられてもいじめられても同情票が集まりにくいのは、根っこにある強さがどこかで見抜かれている。 この前もオーディションに応募したら、三時間で合格通知が来た。2時予選も頑張りたいけれど、芯の強さのようなものが、厳しい世界で生きている人に見抜かれてしまう。 ブレない。カツ丼が美味しかったら、毎日カツ丼を食べ続ける。それはしつこいと人に嫌われても、中々すぐには辞められない。 しかし、強者が弱者をいじめてしまうと、救いがないのではないか? それで私は弱い物いじめはいけないと思っているのだと思う。 イカイカ氏と言うのがどう言う人かわからないけれど、詩人の端くれとして、強い人なのだと言う前提に立てば、砂を掴んで立ち上がるか、負けん気で跳ね返して欲しい物である。 「愛されたい抱きしめられたい好かれたい。自分は本当は弱い人間なのです」 これを正直に言える人間。それは本当は弱い人間ではない。 太宰治氏にしても、公のために弱い自分を晒すのだという、その根っこの強さがある。どこかでダメだ悪人だと、自分のために、自分のダメさを語るのと、公のため、弱きものへの労り、身代わりとして弱き自分を晒そうとするのでは強度が違う。 自分のために頑張れるほど人は強くない。そこに気づく、自覚する。自分の頭で考えられる人間が一番強い。 自分に対し不満がある。その思いをわかってあげたい。誹謗的な物でも、やっぱり聞いてあげたい。その世話心優しさ愛情がない表現者を私はどこかで信用しない。 愛とは摩擦から起きるものだ。ここ数年本物のロックはお茶の間に聞こえてこなかった。ネトウヨが自分を気に入らないなら、なにが気に入らないか、問いただして、それを歌にするようなロッカーがいなかった。その良識の胡散臭さが、音楽をダメにしていたと思う。 >今では元祖詩畜を気取っているが 子どもの頃はいじめられっ子だった いつも公衆便所にこもって給食を食べ 公衆便所にこもってうとうと舟をこぎ もっぱら 左カーブ右カーブ真ん中通って ストライクという落書きを暗唱して 孤独な時間をつぶした これが詩畜のはじまりである これはフィクションであり、からかいである。本気にして怒ることだとは思えない。私ならそう思う。全体的に鵜呑みにして怒るようなことだとは思えないのだけれど、嫌なら嫌で本気で怒るのは、本人の自由。ネットは公衆便所の書き込みのようなものもあるし、有象無象。表現として言葉の芸術を競うサイトでも、そう言うことはある。摩擦から熱が生まれることを思えば、このプロレスをやめることが良いことなのかは、まだわからない。 正直な声を聞きたい。正直な不満を聞いてあげたい。そう言う公のための表現を志す表現者にとって悪いことばかりではないと思います。
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作品データ
P V 数 : 521.6
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作成日時 2023-11-20
コメント日時 2023-11-20