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裸の自分
自分が表現者たる器じゃないと分かったはずなのに、いまだ詩や文の中にこそ真実があると思ってしまう程度には書き物中毒で。ディアローグとモノローグの違いとは?みたいな大上段からの問いに答えることなど僕には到底できないけれど、僕自身の感覚に降りていくことならできる。僕にとってモノローグとは、いわば甘えである。自身の内面の切実さが未加工のままに皆に伝わってほしいという、甘えである。文とは他でもなく加工することであるだろうけど、けっきょく裸の自分を見てほしいという願望の周りをまわるようにして捏ね上げていることを思うなら、それはつまるところ未加工へと加工していると言えるのであり、なによりも僕自身がそれを「ありのままの自分(の現れ)」として捉えているところにすべては極まってしまっている。たとえ最愛の人と午後の浜辺で語り合ったとしても、裸の自分にはなり得ないかもしれないという感覚。性愛もしかり。じっとりとしているようでその実、それらはどこか乾いているよう。それはきっと目の前に他人がいるからで、彼女の視線が自分を何者かに変えているような感覚をたしかに感じる。逆に物を書く折に僕を見つめている(ような)視線は、皆の視線の集合であると言うよりは、なにか抽象化された一対の視線であるかのようだ。そこに向かって、僕は裸の自分となって祈る……こうして書いてみると、なんだか極めて幻想的なものに囚われてしまっているような気がしてきた。もしかすると、裸の自分が存在するから書くというよりは、書くという様式が裸の自分を拵えるのかもしれない。
裸の自分 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 877.1
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2023-11-18
コメント日時 2023-12-16
項目 | 全期間(2024/11/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
詩を書く時に、前半は陥りやすいこと、後半は理想を語っているように思いました。 ディアローグ、読み手と対話する詩だけれど独り善がりにはなっていない。 生のテキストとして散見するものをよく見かけるからかなと思います。 海の向こうのものをさらっても面白くなければ、自分の持ち駒を何でも繰り出す。 でも手垢びっしりなので、元の原型の姿を留めているのか不確かなまま。 でも果たしてこれは詩なのかよく分かりません。 コメント欄に書いたら大変説得力がありそうです。
1モノローグを書くこと=裸の自分を拵えること=未加工への加工=甘え。 とても興味深い感覚だと思います。 「物を書く折に僕を見つめている(ような)視線は、皆の視線の集合であると言うよりは、なにか抽象化された一対の視線であるかのようだ。」 この中の「一対の視線」というのか特に興味深いです。 一対とは二つそろって一組として扱われるものという意味なのですが、その二つ一組の二つとは何か。 私が思うに、それは書き手の視線と読み手への視線なのではないでしょうか。 ソシュールによれば 「個々の実体や意味は、もともと存在しない あるのは、隣接項との対立関係だけ その対立関係から意味は生まれる」 ということだそうです。 ですから「私」とは、全ての「他者」ではないという否定によって、その意味をなしているのだと思います。 従って、たとえそれが裸の私であっても他者の存在なしには存立しない。それが即ち一対の視線の下で裸の私を拵えるということである。そして、その加工が対立関係としての一対の視線に依存しているが故に甘えとも捉えられる。 そんなふうに受け取りました。
1自分で書いたこの文章を、もうすぐ3週間になるいま振り返る。「甘え」と「祈り」という2つは相容れないのではないか。真摯に 祈るかぎりにおいて、甘えは排されるはず。そんな詩をこそ、書いていきたい。
0あっすごく素直な抒情で素晴らしいと思いました どんどん自分の感覚に降りていって もっともっと長くオリジナルに書いてほしい すくなくとも俺は読んでみたい 人の心の中を覗くのはとても興味深いですし シンプルな語り口がとても透明性があってわかりやすいです 水中が見える丸窓みたいです 面白い
0矢張り一番最後の「もしかすると、裸の自分が存在するから書くというよりは、書くという様式が裸の自分を拵えるのかもしれない。」と言う知見と言うか詩表現が衝撃的で、ディアローグとモノローグの違いを越えて、伝わって来る知見だと思いました。「甘え」。モノローグは甘えであると言う認識も常識的な知見と言うよりは、自分の経験の中で、築き上げられ、結晶化した、尊い達成物のような、ヴォキャブラリーのような気がするから不思議です。
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