枯れていくあじさい
ゴリゴリとした背中
子供たちが歩く
ゴリゴリした背中は
大人になり面に現れる
背中は食い散らかされて
見るからにガタガタになる
筋肉をつけても痩せても同様に
食い散らかさている
食ったのは誰
神秘だと鬼だと言っておく
せを超すは如何すべからむ
知らぬぞ
ただ見よ
枯れし花
枯れていたら
どうしたのさ
綺麗だから
どうしたさ
どうしたらさ
善くなれるのさ
花や言葉に人生に善があると知れたらば
死ぬまで俺は分かりっこない
まぁ束の間の信心さをだしてみよう
気休めで一瞬でなくなる真理を言ってやろう
言葉の後に
すぐに真理でない独り善がりの戯言と
見抜けるチョイとした真剣な言葉さ
枯れていくあじさいの後にセミ時雨がやってくる
あの耳障りはいつかなくなる
これを様々に対象を変えて言い表す
内面に向かい確かな言葉にすれば、
より意味が尖りだす
チクチク内面を刺して、しまいには
体ごと内面をぶっ刺していく
極力意味は顧みず、ただ浮かびあがった
言葉と感覚を他者と妥当できる範囲で整理する
他者の理解は心からは必要とせず、自身の感情は相手にせず
この妥当の根拠こそ
生活と色彩ある月日と草花や生き物
つまり
平日やら休日やらの日常
会話
開店前のパチンコ店の灰皿に立ち三本
ただ見ていた
枯れていくあじさい
作品データ
コメント数 : 2
P V 数 : 585.9
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作成日時 2023-07-05
コメント日時 2023-07-05
#縦書き
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2024/11/21 22時03分25秒現在
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こんにちは。 なかなか深い作品ですね。 この詩は3つの要素があるように感じました。 子供たちのゴリゴリとした背中。 枯れてゆくあじさいの花。 チクチク内面を刺す言葉。 この子供たちや枯れし花といった、日常の風景から浮かび上がった言葉を研ぎ澄まし、そしてまた表現という形で、再び日常の世界に還ってくる。そんな印象を受けました。 禅語に「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」というものがあります。 禅の境地を極めた上で、再び手ぶらで街に戻ってくる、といったような意味だそうです。 この詩を読んで、そんな禅語を思い出しました。
0コメントありがとうございます にってんすいしゅ という言葉を初めて知りました。 ネットで調べると布袋和尚が町に出て 何もせずに遊んでいる 遊んだ人、子供たちは何か救われている この意味は間違っているかもしれませんがご了承願います。 浅学で仏教を知らないのですが、 私が仏教を好きに思えることがあります。 すべてではないですが立派なお寺の門前に金剛力士像があります。 仏門を潜れば馴染みがある観音菩薩、大日如来やらがおられます。 その仏像は穏やかな顔をされており、菩薩の体は丸みがあります。 悟りを目指す方はこうなのかなと感じるのですが、仏門の横の金剛力士像の顔はそうでなくて、体もたくましくでかい 仏教的な悪に打ち勝つためにいるからあんな顔されているのかと勝手に思います。 仏教の慈悲深さ、厳しさが頭でなく体感できるのは、やはり仏教はどこかで世の中に馴染んでいると思えて好きなんです。 その感覚を考えてました。 勉強になりました。
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