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ビーレビューという道、「キラキラ」して。或いは自分語り。
※このテキストでは、自分語り、そしてビーレビューという道について そして私の芸術論について語ります。 これらは相互関係にあり、なかなか読みにくいテキストになって しまっているけれども、一生懸命に書いたので読んで欲しい。 現在、わが家庭、ふたりの家族ですけど その家庭をつくる際に、これ、無信仰ということを選択しました。 私は元々、熱っぽい念者でしたが、今、無信仰という、そのよすがない生活に 中々不慣れながらも、いろいろ対応しようとしてまして 日々、これ、つとめていますけれども その日本人の多くが無信仰であるかといわれると、これ僕のお義父さんにあたる方 の言なのですけれど 日本人にはこれ、そもそも日本的霊性があると。 うむうむ、例えば、日本人には「たましい」というものの考えがあり それが、例えば、平穏な世に於いて、たましいの発露される場を失くし 和歌、なり、歌仙なり、詩なりになった、論を読みすすめても。 また、お米。「実りと祈り」と称されますが 「お米はよく噛んでしっかり食べなさい。一粒に七人の神様がいる」 というようなことに、自然ふれてきた身としても これはあると思うのです。 そして、自覚的に無信仰であっても、なくても、この日本的霊性感の内側にいる。 無信仰であることを自覚するとき、それは客観的にみて 日本の神道の世界観の内に、勝手、抱かれる。 大半の日本人はこれ、無信仰だと言われていますが、僕が思うに前述した理由で 無自覚な有信仰である、の間違いではないかと。 そして、なぜこのような自分語りを書くかというと、その他者様の作品を用いた形で 私の芸術論を語ってしまいまして、反省しきりなのですが、ですから その批判はこれ、もっともだと思っておりまして反省するのですが その、「反省」、反省の語をじぶんなりにビーレビューという道において 連発していることを客観視、 「これって反省してないじゃん、それは態度でしめそうよ」 それは書くこと。テキストとして提出した方が 私としても、他の方にとっても、精神衛生上良いだろうと判断しました。 で、私としては、そろそろ、「文化的にひきこもって」自分の趣味に 「遊」して、じぶんの課題に取り組みたい気持ちがあるのですが 要は、ビーレビューという道を、横道に逸れ、そこでまた何か見つけたいのですけれど。 そもそも、ビーレビューという道、これは魅力的なお店がいっぱいだ。 それぞれのもちろんそれは作品それ自体、美学、批評性 店のあるじのこだわり、これが、百花繚乱。 しかし、私から見れば、その、詩がうまくなりたい、として 一体どの店の「粋」、「通」になればよろしいのでしょう、皆目これがわからない。 むしろ、かつての「窃盗犯」だった私のように、それはいいところだけを盗み 隙間産業、を選択せざるを得ないとして それはもっと若い方がやるべきことで、私がやるべきことではないだろうと。 で、隙間産業、もアリであるが、私のパターン、これ、うまくいかなった。最悪で、 「詩を失った」、そういうことを書いておく有益はあるのかな、と。 まあ、才能が無かったのです。 ですから これ書き手さんが何か困ってらっしゃるのでしたら、まずはどこかの お店の「粋」「通」になりなさい、と説教臭くて嫌ですけど書きます。 その投票というシステムがある、月間賞というものがある それには広い支持を得なければならないとしても 別個に、スターシステムがあり、この道はスターに恵まれているでしょう。 まあ実際、これは「受けた」けれども、一方でこのスターな方一名には 申し訳ないような評を書かせてしまって、「駄目」だった。 その多くの人が行きかう道に店をかまえ、お客さんが入ってくる。 そこに 「どこか申し訳ないという気持ちがなければ私なんか詩は書けません」 これが僕の芸術論に、正確にバシリ、当たると思います。 最初の話に戻り、 無自覚であれ、意識的であれ、その作品が書かれたからにはある種の芸術論、イズム の内にある。たとえ「芸術論を否定する」と言っても それも一つの立派な芸術論だろう、だと今、私は考えているのですが その言を冷静に説いた方が良かったのです。 しかし、説く、というのはなんだか、やっぱりこのテキストも失敗しているし。
ビーレビューという道、「キラキラ」して。或いは自分語り。 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1009.7
お気に入り数: 2
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2023-05-03
コメント日時 2023-05-06
項目 | 全期間(2024/12/04現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
こんにちは。 すみません。私は頭が良くないのでうまく内容をつかめなかったのですが、要は無自覚の有信仰と芸術についてということでしょうか。 私の家庭も宗教NG的な雰囲気で、神棚も仏壇もありません。でも、この無自覚な有信仰ということには頷けるものがありまして、詩を書く際にそれを詩に込めることがよくあります。 そもそも芸術は信仰の表現を源とするものだと思いますので、現代においても芸術と信仰との関連はなくなってはおらず、特に叙情詩においては信仰の影響は、たとえ無自覚であっても多分にあるのだと思います。 ただ現代にあっては、詩も様々なタイプに分化していて、皆それぞれの芸術観に基づいているようなのですが、それでもその根本にある無自覚の信仰、日本的霊性のような無宗教的な信仰というようなものを知っておいた方がいいような気もします。 蛇足ですか、私もここで様々な詩を読んで、己の才能の無さを痛感しております。 美しい詩に出逢うと、己の非力さ拙さに、強い寂寥を覚えてしまいます。
1まあ、信教について突っ込んでトークすべきでなかったが、それもやはり 要は各々のスタンスがあって、私はそれは相互理解の世になってきていると 思っているので、「私のスタンスとしては」ここを強調してコメントします。 >この無自覚な有信仰ということには頷けるものがありまして、詩を書く際にそれを詩に込める>ことがよくあります。 >そもそも芸術は信仰の表現を源とするものだと思いますので、現代においても芸術と信仰との>関連はなくなってはおらず、特に叙情詩においては信仰の影響は、たとえ無自覚であっても多>分にあるのだと思います。 >現代においても芸術と信仰との関連はなくなってはおらず、特に叙情詩においては信仰の影響>は、たとえ無自覚であっても多分にあるのだと思います。 そういう読み方をなさってくれるならば、前半については ほとんどの理解を得られたと思っています。 読んでくださってありがとう。 例えば、私は以前、種田山頭火という自由律俳人の「けふもだまつて草履履く」 という句に「救われた」と思っている。 そしてその瞬間は、彼の信仰などぜんぜん問題にならない。 不思議なもので。 しかしそういう経験があって、その、詩が好きな方も多いだろうと。殆どかな? >蛇足ですか、私もここで様々な詩を読んで、己の才能の無さを痛感しております。 >美しい詩に出逢うと、己の非力さ拙さに、強い寂寥を覚えてしまいます。 全然蛇足ではないと思う。私はむしろ本筋だと思うけれど 文中あったように元「窃盗犯」に聞いても、要はどううまく盗むか、反対に どう堂々と盗むかというしょうもない話になってしまって。 これは自らの目指すべき詩の在り方なんかをぐっと掴み そういう詩を書く方の粋やこだわりについて「通」になればよろしかろうと。 こう説教臭くなるので、嫌なのですが(一一")
0そもそも、この、そもそもの語も使い過ぎているけれど 何の為の現代のネットワーク環境なのか。 自己実現でも、夢の実現でもいいけれども、要はネガティブに軍事利用されていたものを ポジティブに使ってこそではないか。 ビーレビューはそのポジティブに適った道であると、私は考えています。 応援しております。 あっ。私のように「詩を失っちゃ」いけないような気がしますよー。
0前半部分の、日本人の宗教観が無信仰と言う事で思い出したのですが、本地垂迹説と言うのですか、神仏習合みたいな考え方が浮かびました。芸術論でしたね。「粋」や「通」。特定の分野を極めるのは難しいと思うのですが、その過程で宗教的なバックボーンは確かに重要で、それで前半部分で論じられて居たのかと思いました。
1すみません、まず信仰というものはあると思います。日本人は別に神を信じていないが御守りを持ったりなんかする人っていうのはけっこういて、私も一人暮らしをする前までは御守りを買ったりしていましたが、どっかの大学の先生が講義の中で無宗教だと自覚するならそれを今ここでハサミで切れますかという風なテーマでディベートをされて、当然だけど誰もそんなことできなかった、という話を平成時代にどこかで聞いたことがあります。 ただ、私にはなんというか時代がまた少し変わったんじゃないかという予感があり、この話、令和じゃ通用しないんじゃないかと思っています。今時の若者は御守りをハサミで切れるんじゃないかと。私も、なんというか、切ろうと思えば切れるような気がしています。というか、切る必要があるのであれば切ると思います。ただ、私も人間だからか、信仰心と言えるものはあります。 とりとめもない感想文ですみません。
1お読みくださり、ありがとうございます。 このテキストでは仏様について意識的か、無意識的か、のけていますね。 それと日本の「なんでも神様」化、しちゃうカルチャー 最近ではヤクルトの「村上」から「村神様」とか そういうことにも書くべきだったか、それではもうテキストが破綻してしまう。 そもそも失敗していると思うのだけれども。 本地垂迹説、神仏習合。 こう、キー、を挙げて下さるのがまた嬉しくて。 また別個でキーを挙げておく→ 七福神 その、この書き手さんの書いたものは素晴らしいと思うときに そう判断したのは、その感動というのは・・・ まあこれも逃げ口上だけれど「理屈じゃない」側面があるだろうと。 バックホーン、後ろで何か響いてくるものに対して それは何か考えてみる。そういう時間を少しだけでも持ってみてはどうかと。 これは提案できる。 ともかく重ねてありがとう。応援しております。
0まず感謝です。何もすいませんということは無いと思います。 それを言われるとこういったテキストを書いた身としては こんなお目汚しを、よく読んで下さって、ありがとうしかない。 そのどっかの大学の先生は相当な方ですね。 講義を想像しただけで、背筋が凍る自分がおります。 その、今時の若者に、寄っていくべきかどうか この意識で一つ何か別項で物が書けるだろうと。 具体的には私の場合 読めないということ=その世界に参加できない 詩は、そういうハンデキャップを負っていると考えており まあ最近若いアーティスト志望と話すことがあったけれど そのリテラシーとして、自分からすり寄ってゆくしかない もどかしさ、があります。危惧、かな。 これは文学じゃなくて音楽の話だけれど 楽器店でギターを試し弾きしていると なにか物言いたげで立ち止まったり、うろうろしている方がいて その方がドラムスティックを握っているから 「あ、いっしょにスタジオ入る?」 なんて声をかけると、いえ、いえ、いえ、と言う。 まあ、蛇足ではあったが 最近印象に残ったことだったので書いておきます。 重ねてありがとうございます。応援しております。
1興味深く拝読させて頂きました。 別スレッドですが。実は「海紅」に所属しようとしておりました若年の頃(漢字を羅列したような俳句をしたためておりました)の事、 近年は自身の詩に全く疎くなっております事(つまり、詩の喪失です)、 芸術論の桎梏に四苦八苦しつつ、実践の上手くいかなさを楽しんでおります事、など。 身につまされるなあ、と。 私は、自己の外部に手本があっても良いのでは、寧ろ某かの外部の影響無しには発展、変化は、と考えておりますので。 剽窃を為し続ける(現代より過去からの)そう謂った営為に明け暮れて居ります。 それは、考えて下さいますと自明の様に、乃ち伝統の継承ではないか、と言う事実にしたためさせて頂きながら気付きました次第でございます。 そして今、私が思うより良い創作とは、伝統の古層を踏襲し、その上澄みに細やかな個性を付け加える営為の様でございます。 累々たる伝統性と、個性の両輪に支持され走りゆく車駕を夢想しつつ。 何か、とりとめのない駄文を失礼致しました。 しかし、否応無しにコメントを付けねばならぬビーレビのシステムは、良いですよね。 口論もあれど、変化発展の余地もございまして。
1鷹枕可様コメントありがとうございます。 その、鷹枕可様の短歌群をまず一読する、で、そこで前衛短歌、塚本邦雄、句またがり 等のキーを拾ってゆく。そして、まあこのコメントではそう書いてしまっているけれど (たとえ、その、伝統の、要は参照先があったとして それを挙げてゆく作業は、やはりその、作者様のスタンス、個性に対して 失礼かな、と思う自分もいまして・・・) で、それをクリアして前衛短歌と鷹枕可様の短歌とどういう差異があるのか そこまですり合わして、批評、になると思うのですけれど これが中々むずかしくて、何か塚本邦雄までが凄くとおくなってしまって そりゃあ、2020年代だものなぁ、と。 むしろ、そういうキーを抜きにして、鷹枕可様の作品へ当たってゆくべきか。 今まで迷っていた自分がいたので 否応無しにスタンスを表明しなければならない、ビーレビシステム これは健康的であるのかな、と今、実際、鷹枕可様のコメントに 助けられている自分がいますので。 ありがとうございます。感謝します。 キー:前衛短歌 塚本邦夫 ←さいきん、こうしてメモしてるようにしております。
1>大江健三郎「信仰を持たない者の祈り」 拝聴させていただきました。ありがとうございました。 聞きながら、それは大江健三郎氏の「確固とした主体性の在り方」を思いました。 その信仰をこれ、やめたとして、それは日本的霊性、その世界観の内に抱かれる このロジックなのですけれど、それは「確固とした主体性の在り方」という ものを、勝手、のけてしまっており それはわたくしが、自分の主体性をこれ、性分として嫌っているのかな 何回も、あっ、これはやらかしてしまった、と気づかされました。 ですので、やはり、このサイトのコメント欄丸ごと含めて批評が成立すること これに助けられます。蛾兆ボルカ様、ありがとうございました。 そしてその祈り、ですが、自分のことをかえりみて祈ること ともかくもそこに重きを置く、そして真剣生きるということ これは・・・できていなかったと思います。 そもそも「無信仰の祈り」、頭でっかちなもので、あっ そういう いえ、そのような立場から祈りがあっても良いのかと。 少し軽いショックにくらくらしつつ今何とかともかくこのコメントを 書こうとしているのですけれども。 中段にあっては蛾兆ボルカ様にしてみては、すいません そんなインスタントに奇跡は起こりますか、違うでしょう!!と こう、熱いエネルギーをビシバシと感じまして そして、そのインスタントな態度の究極が「窃盗」なんですれど、最悪で・・・。 もう昔のじぶんをかえりみて、何やっているのだか、といった印象です。 本当にありがとうございました!! 何かこれだけのコメントを書くのに 三時間かかってしまいました(笑)。 眠りなおします!!
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