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『通勤』という行為の解体
人工知能もなし得ない高度な行為者であるサラリーマン達。けれどここで再構築にくわわっているのは実質作者だけで、読者はなぞっているだけというか、現段階では外から見守るだけなのか? 黒田夏子さんが『abさんご』で同じ着眼点から、読み手に再構築させていたのかな? 穴が開くほど読んだわけでも専門家でもないのでよくは解りませんが、集団的認識の境界線を揺さぶってもおそらく目新しくはないのだから、これからの書き手は書き方じゃないのかもしれません。簡単に結論はだせませんが。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー “再構築”は、ことばの選び方を誤りました。創ったものが根を張ることへの執着がない(すくなくともそれが書き手の最大の目的ではないだろう)のに構築だなんてちゃんちゃらおかしな言い方です。作者さんのやられている表現は全然やりつくされていません。むしろ今必要とされるものの一つであるかもしれない。 『abさんご』と『論理通勤過程論考1』を読み比べてみると、あらゆる部分で相違が見えてきます。作者さんのほう(決めつけは極力控えたいのですが)は今のところ直截的な迂回という感じでより間口が広いようです。黒田さんのほうは空とぼけた先生の手で丁寧に筆書きされたような印象。書き手の視線の先(興味の対象)も違う。わかりきったことですが、こういうところに作り手のパーソナリティというか色がでるんでしょうね。それこそ誰にも真似ができない。『abさんご』については立ち読みでもいいから読んでみるのがいいのですが、ただご興味がわいたというだけでしたら、ウェブ上でも書評が簡単に拾えるので、検索をかけてみてはどうでしょうか。 以下引用 スマホやネットの発達で文字が未曽有なほど日常に溢れるいま、我々はなぜか言葉は透明だと疑いもしない。言葉(a)は物語内容(b)を運ぶ記号であり、これが気にならず、すっと読めるのがいい小説と思い込んではいないか。a=bの誘惑はかくも強い。 だが断じてa=bなどではない。『abさんご』の平仮名を多用した文体は、漢字による意味の視覚的把握に慣れた読者を惑わしながらおのずと音読を促し、我々自身の身体とともに、言葉それ自体の血肉を意識させてくれる。 (朝⽇新聞2013年02月03日掲載小野正嗣さんの書評 朝日新聞ウェブサイト「読書好日」より) いずれにせよ、考えさせられる作品でした。
『通勤』という行為の解体 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 707.2
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作成日時 2022-10-23
コメント日時 2022-10-23