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階段国の趨勢
階段を上っているのか下っているのか分からない生物がそこにいた。 窓から滴る光の固まった血を飲もうと止まっている、一匹の蝿を見つけて私は足を止める。窓に近づくと、花束を抱いた恋人のふやけたにおいがしたため、意識が不愉快の回転を始める。ここは何処だ、という問いかけの水溜まりで切断された赤子の四肢が跳ねていて、私の靴が踊り場に腐り溶けていた。私も何か血を欲していて、これまで階段を歩いていたのだと、掌をみつめると、点滅を繰り返す吸盤が地平線にまだ引きずられていない記号をやはり欲している。胃袋の膜に、風の鱗が突き刺さっているのを感じた。転調に敏感な鳥のように窓の外を見るが、窓一面には茶色い薄い氷が張られていて、脳を焼くようなアルコール臭が歩いてくる。 私は歩かなければならなかったが、階を上っているのか下っているのかが分からなかった。おそらく上っていた。そう思って下り階段の方に目をやる。階段の下の踊り場には砂漠が広がっていた。軟体動物が地下で蠢いているようで、麦色の沈黙の砂粒の中から、赤い石の目や黒い木々がせり出ては消えている。踊り場の隅には揺れながら佇む小屋もある。さっきの蝿が私に見せつけるようにして、その小屋の方へと飛んでいった。踊り場の窓には、空と湖が逆さまに映り込んでいる。湖のほとりに、縫いぐるみにされた私の母が座っている。なぜ私はこんなにも視力がいいのだろう、と足元を見ると、階段で蟻たちが綺麗に私の足跡を縁取りながら、その跡を運び消しているようだった。つまり、私の上昇する魂の機能が失われつつあった。 上の階で窓の開く音がした。月にいるかのように、ふわふわした斜面の踊り場を駆けて、上り階段を見上げる。赤いマントを羽織った、トランスジェンダーに成功した初恋の人が窓を開けていた。こちらを振り向いて、ニコッと笑い、小さい箱をポケットから落としてきた。空のマッチ箱だった。正確には、さっきまで私が母胎としていたマッチ箱だとすぐ思い出されたのだけど、肝心のマッチ棒が一本もないというのは、私がこの国の笑い声に幾分か遅刻してしまっている証拠だった。一方で、二階下の踊り場に棄てられた、透明になっていく繭に夕暮れを灯さなければならない使命は思い出せずにいた。そんな私を見かねて、マントは驟雨に代わって呟く。「酸素の込められた銃が地底に飲み込まれている。まだ高熱の金属である記憶は国民の臓器に詰め込まれたままである。あたらしい眼球を抱き、重力の輪郭に火を灯して、戦争に会いにゆくのだ」 私は強く頷いて、自分の頭のてっぺんをマッチ箱の横に素速く擦りつけた。なんべんもなんべんもゴシゴシこすりつけた。マントが慌てて階段を駆け下りてくる頃にはもう、私の頭は轟々燃え盛って、階段が陽炎のように歪んで、季節が開始された。幽霊たちが雪を持ち込んで窓を通り抜けてくる。イデオロギーを焼きつくす太陽が、四足歩行で階段を駆け上がってきている。木枯らしが、屋上に溜まっていた悲劇の彫られた背骨の山を吹き運んで、ガラガラとマントを飲み込んだ。桜だけは何万本も列をなして、窓の向こうでじっとこちらを眺めて咲いている。すべてを燃やし尽くせるならこの上ないと私は思った。背骨の波を掻き分けて屋上へ、五段飛ばしで走っていく。私は全身炎になって駆けられている。やがて灰だけになったが魂すらも燃料にして、なんとか炎の輪郭を保っている。屋上から次第に聞こえてくる、船の汽笛が私を呼んでいる。海に被せた一枚の大きな毛布が靡く、その瞬間が遠い記憶で氾濫している。かつて洪水で流された銀河が、海底から無数の歌を送ってきていた。それは私が今まで上がってきた階段の遥か下から突き上げてきて、私の影を蝕もうと追いかけてくる。太陽犬は溺れ落ちた。私は消火されるべきではない! 桜の幹に背を預けている父を見て確信した。 屋上の扉に向かうにつれて盲目の鳥たちが私の体を啄む。タキシードを着てお辞儀する、一人の薄明が扉の前に立ち現れた。 「あなたの炎は水銀すら燃やせません。すでに死人になったあなたがこの先でお待ちです」 屋上の扉に描かれた巨大な爪。剥がせそうもない高級な時の流れ。私は急に、恥ずかしくなって恥ずかしくなって、燃える想いのカーテンに成った。私はこれ以上現れてはいけないのだと。階段がニヤニヤと、屋上で笑っている気がした。記号のオーパーツを含んだ濁流が下から迫る。その中で、マントを盗み羽織った鮪が、実存性あふれる泳ぎでこちらに勢いよく向かって来ていた。 自壊する、影だけの花びら。酩酊する無我くずれの総和。黒く折れるマッチ棒たちの、記されないべきだという観念。真の指令、だったのだろうかと、問いかけだけは、越境していた。
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作品データ
P V 数 : 474.2
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2024-07-03
コメント日時 6 時間前
項目 | 全期間(2024/07/06現在) |
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叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
もしかして夢日記付けてます? 最後は「で、どう解釈したらよいのでしょうか?」と問いたくなりますね。オチはない、とはいえないが、「夢なー」って思いましたねえ。 「トランスジェンダーに成功した初恋の人が…」という節がいちばん気になりましたね。性転換。 じつは、わたしは女子高生になる夢をみてみたい、という願望があるのですけど、なかなか見れません。 性転換でもっとひっぱってほしかったな。
1コメントありがとうございます。 夢日記は数年前つけてましたね、明晰夢を習得するために。ただ、習得までもう少しのところで怖い体験をしたのでそれっきりやめてしまいました。確かに、この詩も夢の終わり方みたいですね。波に飲まれてハッと起き上がるような終わり方。 性転換の表現は少し迷いながら書きました。1ヶ月に一篇はこのビーレビューのために詩を書き下ろしていて、これはその詩なのですが、最近そういう「性」にひらいた詩がビーレビューに多くなっている気がしていて(ちんちん考あたりから? 気のせいかもしれませんが……)、だからおまるたろうさんのような期待を持つ人がいるだろうなと予想しつつ、あえて引っ張りませんでした。少し嫌気が差していたのかもしれません、緩急だけの一行に棄てさせてもらいました。 LGBT系の体験はいくつか持ち合わせているので、書くとしたらそれメインの詩もいつか書いてみようと思います。ありがとうございます。
1「ふるふる」であれだけビーレビで話題を振りまいたのにもかからわず、全ての話題を「ちんちん考」に持って行かれてしまったおまるたろうです。どうもミハイさん、こんにちは。運営の選考は個人的に良いなと感じていて(4月の選考も良かったですね)、まあ、選考結果こそが「=運営の方針」そのものとも言えるのだが、あれ、他の人はどう感じているのだろう?とは思いました。
1ま、まあ、御愁傷様です…w 運営の方針云々は、私も何も不満とかはなくて、ただ留意しておくべきなのは、リバイバルの現象でしょうか。調べてみると、2021年6月に「ちんちん!」といった作品がアクセス数を稼いでいたり(毛色は違いますが)、ああ、今(2024年)はまたそういう時期なんだな、というのが感想ですね。テーマ自体じゃなく、その中の表現の凝らしが新しくて良かったということだと。 一方で先程も言いましたが、なんでしょう、季語と同じ感覚でしょうか。「~な夏」みたいな終わり方をする文章が、「夏」とつけられているだけでなんか良い感じがしてくるのと同じように、「ちんちん」とか使えば誰でもある程度面白くなるように思えます。 という、一つの主観に過ぎませんが、最近そういうことへのアンチテーゼは持っていますね。だからこそ、この詩でも四季を異様に表していたり。 選考してもよいものか選考委員を悩ませる作品づくり、というのもモットーの内にあるので、模索ですねぇ…。
1あ、そうなのか、いまは熱暴走中である、と。 その波に乗るのも一興、ながめてみるのも一興、なんちゃって。(でも、せいぜい10000PV以下とか、ちょっとヘボくないか?というのが本音としてあります...) Xでバズるような現象がおきればサイコーなんすけどね。
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