作品投稿掲示板 - B-REVIEW

日下ゆうみ


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2018-04-28

水温

2018-02-15

the Milky Way

2017-12-18

内容としては「ビッグイシューに対する文句を聞いて、「いつしかゴミ同然に見られる」としてもそれを覚悟で「面白くないなら/面白いものを作」ろうとするべきだと思った」という話だと思いましたが、その内で気に掛かる点が三点ありました。一つはビッグイシューを読まないことに語り手が批判的な視線を向けているが、自身は読むに際してビッグイシューに関わりの薄い「私は椎名林檎が好きだ」という告白をしている点です。二つ目は発想を共有していないと語り手自身が「どこかに居てくれるだろうか…」と不安に感じている読者に対し、「いつしかゴミ同然に見られる覚悟はあるか」と覚悟を問うている点です。三つ目は「面白いかどうかは私が決める」と述べているが「ゴミ同然に見られる」ことへの覚悟を迫っている点です。この三点では語り手は他者の視点を強く気にしているように感じられ、その為に語り手は自身の実情と異なることを語る必要に迫られているように思いました。以上からこの文では、その語りの内容に反して語り手自身のそうした周囲への気遣い、或いはそこで起こる戦きのようなものが現れているように思いました。 (捨てるゴミ拾うゴミ)

2018-10-09

冒頭の生死の問いが自身の生に対する意味の探索であるとすると、到達点としての、結婚願望の提示を伴う「あの日、君が爪弾いた愛の残響は何処に消えたのだろう?」という拘泥では、ここで振り返る対象としての「君」は最早かつての承認者としては存在しない以上、結局意味を見出すことが出来ないまま終わるように思いました。この作品の問いが「そっと胸に手をあてて、思案する」目標として生の意味に対するものであるとすれば、それが価値喪失として終わるべきではないように感じています。この点から言えば末尾の五行には個人的に物足りなさを感じており、それは「君が好きだった」という語り手の告白相手は我々ではないのに我々に語っているという奇異なズレにもあるのかもしれないと考えています。とはいえ、それ以前の振り返りの部分では2+1の3行でそれぞれの場面が描かれており、簡潔に語り手の振り返りが語られていると感じました。また前半部では開けた語りの方に近づいているように感じたため、個人的には好ましく感じました。 (残響)

2018-10-09

「小さな寝顔」「未来がうず巻いている」と表現され、そして窓から射しこむ光の淡い揺れを受けうるこの描写の対象は、子どもでしょう。その為、彼は「君は宝島を見つけたのか/シルバー船長や」「愛し愛される英雄」「その歩みはたくさんの花を産む」などの一見童話的なもの、或いは「称賛と勝利を浴びて/絶望も挫折も一時の/スパイスでしかない」という少年マンガ的なものを夢に描いている(この夢の意味は睡眠と将来とに意味が掛けられているのですが)者だとして描写されているのだと思います。そこでは語り手は、言わばこの子ども(およそ少年)に同化し、その寝顔という外見から彼の見る夢の内へと入っていこうとするようです。 しかしここで急に語り手は絶望を提示します。この提示の仕方は先の同化とは異なって、最早その子どもの知らない「当たり前に残酷で」あることに言及し、「ひとり眠る」という孤独の寂寞や「揺りかごを懐かしむ」という懐古など恐らく子どもがしないだろうことを想像しており、ここでは語り手は子どもとの同化から切り離され、一気に自分のことを語り始めているようです。そのことは最後の部分においてまた寝顔という外部の描写が示されていることにも関係しているかもしれませんが、ここで語り手は残酷さを語ろうとした瞬間に彼と自身との耐えがたい差のある者として現れてくると感じます。 そしてある意味、ここでは語り手は彼自身を語ることに失敗しているのですが、それがあるからこそ、この最後の連において最終的に「でもやさしい/うたたねの音いろが/うず巻き続ける」と彼をまだ安寧の内にある者として語ることが、彼に対する慈愛の気持ちと、そうはなれない語り手自身の悲哀を表すことに繋がっていると感じました。同化する語りに徹底できずに、そうした夢に浸るだけでいられた時代とは最早隔たってしまった者として語りを進めざるを得ない語り手は、それでも彼を再び優しげなものとして表現し返すのであり、それが語り手の在り方を示すことに繋がっているように感じました。 他方、個人的に夢の内実は膨らみがあり共感を覚えましたが、それに対置される残酷さは、「飢えを満たし満たされず/蒔いた種は奪われて」という人生を歩んだ者が現在「窓から/射しこむ/ひかりに揺れる/ちいさな寝顔」を見ることが出来るのだろうかという点を含め、そうした「明日があるのかもしれない」という想像に過ぎないように思われ(とはいえ、単純に私の人生経験の少なさに由来することかもしれません)、そうだとすると語り手の悲哀がやや被害妄想的な側面を含むだろうかと考えました。 (午睡の刻)

2018-10-09

まず埋葬する対象の取り扱いについて述べたいと思いますが、冒頭では「青みがかっ」てはいますが「鮮やかな色」が「棺の中」にあることが示されており、また「ウインクするような」という語に形容されるのが埋葬される「恋」だとすると(また埋葬される棺も「ピンクのはずだった」とある点を含めるならば)、ここでは埋葬されるものはどちらかと言えば明るいものであると考えました。そして次にその外側で何が起こっているかを考えると、「ピンクのはずだった棺の色が/影を連れて来て黒に変わ」り、また「視力を奪って光を遮る」「暗くて冷たくて甘い罠だ」などある点から、その埋葬を通じて暗い現状が現れてきたことが読み取れると思います。そこで、ここに「少しずつ距離を置けるなら良い」という語り手の評を考慮すると、ここまでの事態としては「恋などの明るいものを埋葬することになり自分は暗い現状に置かれたが、そうして埋葬によって「あの人」という形で距離を置けることは良いことだ」ということになるように思われます。ですが、以降の連を見ると次の連では「またねと手を振り棺を壊し」「今日はピンク色の雨が降ってる」など埋葬し隠れたはずのものが突如復活しており、この理解における語り手の評とは矛盾するため、ここでは別の理解を検討するか或いはこの相反を受け入れた上でその相反の訳を探すかということになるだろうとまず考えました。 そこでこの作品中におけるイメージを考えると、自分としてはその中に幾つか違和感を覚えるものがありました。その一つはチョコのイメージです。「影を連れて来」た時点で、影とは異なって物質的な側面が強い「チョコ」が「瞼」の上にあるのは何故なのかということが(二連目における「鮮やかな色」としてマーブルチョコを「身体に並べた」ということではないとは考えたのですが、一方でチョコを影などの暗さのイメージと結びつけるにはあまりにチョコは物質性が強く、一般にはバレンタインなどの好印象のものもあることから一概にどちらとは決めがたいものであると考え)自分としては解消しがたく感じました。そして、もう一つはピンクのイメージであり、クッション・棺・雨という物体につけられていながらもチョコと同様に(こちらは恋、甘い、という語と結びつくようにも考えたのですが、前者は埋葬される恋が棺の上に現れるのはどうしてかという疑問が生じ、後者はクッションの無機質性と相反するように思い、上手く整理することが出来なかったため)解消しがたく感じました。 そこでこうした整理のつかなさが幾つか全体に見られたことから、私としては結果として、そうした整理のつかないこと自体がこの作品の主題として捉えることが出来ないか、と考えました。そこで注目できるのは「さよならとこんにちはの/間にある言葉を探せば」という部分です。ここでは別れと出会いの間を彷徨う語り手の事態が表明されていますが、語り手がもしこうした彷徨の中にそもそもいるのだとすればこのイメージの錯綜と捉えたものは、その彷徨自体の表れであると考えることが出来るように思います。また、この作品では恋が一つ全体において主題となっているように思いますが、その関連でいえば先の矛盾は一つ建前と本音の錯綜とも捉えることが出来(つまり離れたいと言いつつ、出会うことの希望との間で依然と彷徨っている状態)、語り手はその彷徨の中で悩んでいるからこそ整理された形では表されていないのではないかと考えました。 とはいえ、このように相反が含まれているものとして自分は考えたのですが、些かここには自分の読み不足、或いは過剰な深読みが含まれているようにも感じます。他に良い解釈があれば、ご教授頂ければ幸いです。 (埋葬)

2018-10-09

この詩では「ノックしている」という言葉が複数回繰り返されて用いられており、その意味ではこの詩の主題は一つこの部分に現れているとみることも可能だと思います。そうだとすると、この言葉は「語り手が閉じた部屋にいること」と同時に「ノックする者との邂逅の不可避性」を示すものでもあり、従ってこの詩では語り手が感じている主題的な恐怖として死の不可避性に焦点が当てられていると言えると思います。そして、同時にこの詩の「ノックしている」という語の選択はそのようなイメージに加えて、他の興味深い影響を死のイメージに与えていると思います。 まず一つ興味深い点は、「ノックしている」ということは恐らく扉の向こうに叩く人物がいるのだと推察されますが、ここでは語り手がその存在を推察する手段は一つも場面の状況として明示されていないにも関わらず、「その存在が死である」と疑念の余地がない形で(「死が/ノックしている」と自然に示されている)認知されている、という点です。扉の向こうにいる存在が見ずとも誰だか分かるのは相手が日常的に良く知られている存在である場合が一つには考えられますが、そうだと仮定するなら語り手は日常的に良く知られている死の存在に不安を覚えているということであり、この一見した矛盾は興味深く思います(死の来訪が既に予定されていた可能性もあるでしょうが、死に限って何時に訪れるかが明確に知らされているといったことはないでしょう)。 また次に、「ノックしている」ということは死の存在は扉をノックできるほどの明確な実態を持った存在として現れているということであり、ここでは死霊や死神などに一般的に与えられている浮遊、すり抜け、などのイメージとは対照的なイメージが与えられている点も興味深く感じます。例えば幽霊の恐怖とは「いつ、どこに現れるか分からない」という点にあると思われますが、ここでの死の存在はむしろそうしたイメージとは対照的であるように感じられ、いつ命を取られるか分からない恐怖とは異なってこの明確な実態を持った死の存在は、果たしてどのような不安において捉えられているのかという点は興味深く思いました。 以上を踏まえ、私の解釈としては、このような「ノックしている」死の存在はむしろ語り手の不安を説明するために持ち出された架空な存在ではないか、と思いました。実際に語り手は「消えたくない!」と急に叫び出しはせずに「消えたくない絶対欲に駆られ/心が迷いなく/震える」と自身の心の内部を冷静に分析することが出来ており、自分の不安を説明しようとする態度で語っているようです。しかし死は、やはりいつやってくるのか分からない不可知なものであり、それ故、説明のために持ち出される死の存在は架空のままであるように思いました。 ただもし以上のような形ではなく、死は「ノックしている」ということに関して別のイメージを付与しようとしていたということであれば申し訳なく思います。後学のためにご指摘頂ければ幸いです。 (死人は)

2018-08-22

「どこ」ではなく「どれ」と問われるように具体的で、そして「ここから」「切り取り線」という形で身近に感じられている「夜のはじまり」が語り手の感覚の中にあって、しかしその感覚が全く「広い宇宙の中」という外部性へは接続されておらず、「四畳あまりの部屋の中で済んでしまう」程度の個人的で内部的なものに留まっていることが自覚されています。それは語り手が「スポットライト」「月が眩しい」という注目されるような大々的な光を恐れ、また「笑い声が聞こえてくる」朝が嫌いでその(嘲笑めいた)笑いの数々が自身に向けられるのを恐れているからなのかもしれません。対して語り手は「街灯」という孤独な小さい光に親和性を感じ、その夜の孤独な中で「これじゃあ転んでケガするよ」という失敗への恐れを思い返して「夜」に感覚を重ねる形で自身を慰めているようで、夜は誰からの干渉もなく、嫌になったら眠れば全て夢の中へ消え去るという安心感(「みんなの宝物をそっと大事にしてくれて、夢の中に案内してくれる」)も含まれているのかもしれないように感じました。 こうした夜の感覚は比較的共通したもので、多く語られていることのようにも思えます(私はサカナクションの曲を聴くことがあるのですが、「白波トップウォーター」や「スローモーション」にある夜の孤独さや嘲笑、灯りの眩しさは似たものが含まれているように感じます)。しかしその既に語られたものでは満足せずに語り手がそれを自身の手によって書こうとしているのは、また夜があるのだということを自分に確信させ、そうしてまた朝に訪れるかもしれない苦しみに耐える意思をここで見出しているからなのかもしれないと感じました。ただ逆に言えばそうした夜への確信と同時に朝の苦しみへの確信を同時にこの中へ含みこむことは、語り手自身をむしろ苦しませる方向性へと向かわせてはいないでしょうか。言葉の力によって夜の確信を強めるばかりではなくて、さらに朝に強く希望を与えるということが詩にできればより素敵なことだと思いました。 (夜のはじまり)

2018-05-23

>なかたつさん コメント頂きありがとうございました。自分としては、むしろ自分の感覚に引き寄せていくということを中心に考えていたつもりだったのですが、「他者の視線を借りる」ということをご指摘頂いて、そちらの方が中心にあったのかもしれないと思いました。何を書いているのか掴み切れてはいないものを、作品を作る過程で理解していくことは実際にどこかに含まれているようで、自分自身としても有意な行為だったかもしれないと考えました。評価頂き大変嬉しかったです。ありがとうございました。 >まりもさん コメント頂きありがとうございました。確かに「*などで区切り」などを含めて読者にとっての受け取られ方を考えきれていない突貫工事のような作品で、「無断引用、と「みなされる」ことがあります」と言われている点についても、言及などの配慮が足りていないのは反省すべき点だったと思います。「ある種の共同作業が生み出されてい」く過程が目に見えていくのもまた面白い試みだったかもしれないと思いますので、またその点についても配慮を考えつつ試みていきたいと思います。ご指摘頂いてありがとうございました。 >Rさん 度重なるコメント、大変ありがとうございました。モチーフそのものでさえ、確かにオリジナリティが含まれていることがあって、それは例えば注目されていないものに光を当てるという意味ではその人の功績でありながら、それを奪取するように書いてしまっていたとしたらそれらの方々には大変申し訳ないことだと反省しました。ご指摘頂きありがとうございます。試みとしては面白いという点では、私も少し配慮を重ねつつこの方法についてまた考えてみたいと思いました。「読めない」と感じられたという部分も含めてまた考えていきたいと思います。貴重な御意見を頂き、ありがとうございました。 (参照点)

2018-05-14

Rさんコメントありがとうございます。引用よりも少し距離を離す形で、それが書かれたモチーフに対して書く見込みではあったのですが、「この手の作品には、コンセプトの説明や参照元への一言などが必要だと思います」とのご指摘のように結局は引用に近いままになってしまっているなら、それが「読めない作品」として結実してしまったことも含めて、大変申し訳ない限りです。以降はそのようなことがないよう、引用を含まない形で出来る限り書いていこうと思います。 そのような作品に対してコメント頂き、大変ありがとうございました。感謝申し上げます。 (参照点)

2018-05-04

この詩はまず「リフレイン」という言葉の反復の合間に示されている内容を考えた場合、それは「死んだのは心/離れたのはあなた/望むまま/崩れた世界を/諦めた目で笑うだけ/でも忘れない/死んだのは心」という文章になり、この文の意を素直にくみ取るならば「私の心は今死んでいて、その原因はあなたが離れたということにある。この世界は崩れることを自ら望んでいるので、私はその崩壊を諦めてただ笑うことしかできない。でもそのことを忘れはしない。私の心は死んでいる」というような一種の惜別の詩を読み取ることが出来るように思いました(恋愛の要素を含む可能性はあるかと思います)。そしてここには「心」や「離れる」という行為、或いは「世界」などのそれぞれの語に多重のイメージは与えられていないので、このように素直な読み取りによってほぼ意味は一方向に(もちろん一つだけの意味ではないですが、多くの程度定まったものとして)確定できるように感じられました。 しかしこのような内容を示すにあたって、語り手は律儀にかつ冷静にリフレインという言葉を各一文の合間に挟んでいて、そのような感傷に浸りながらもむしろその語り方の側面に強い意識を向けているようです。語り手は単にその「死んだのは心/離れたのはあなた/望むまま/崩れた世界を/諦めた目で笑うだけ/でも忘れない/死んだのは心」という内容を伝えるだけではなく、むしろそれを「リフレイン」しているのだと繰り返すことによって、そのリフレインに関する強いアピールをしているように感じられます。何故語り手はこのように過去となってある程度冷静に捉えられるようになったはずの感傷を、リフレインという強いアピールを伴ってここに再提示しようとしているのでしょうか。それを考えたとき、その理由となるのはこの詩の中の「でも忘れない」というフレーズであって、語り手が既に冷静に捉えられるようになったその出来事をそのように忘れようとは決してしないからこそ、それがこの詩における形式としてのリフレインのアピールを伴って再提示しようとしているのではないかと感じました。 ここで、語り手はこの感傷をむしろ望んでもいるように感じられます。例えば「死んだのは心」と言いながらも、実際のところは語り手自身はまだ感傷を覚える心と今ここでそれを語ろうとする意識を維持しているのであって、そのような現在を捨象して「死んだのは心」なのだと断言することは、むしろ語り手の要求が現れているように思いました。また、その心が死んだ経緯については恐らく「望むまま/崩れた世界を」という点で述べられていて、この部分では「世界」が自分の意志の「望むまま」に「崩れた」という認識が示されていると思うのですが、しかしながらそれは「世界」という茫漠とした存在に崩壊の原因を求めるという曖昧な認識であり、語り手はその原因を追及することを既に「諦め」て望んではいないようです。以上の点をまとめると、私としては、語り手はむしろその感傷に未だ浸っていたいからこそ「死んだのは心」なのだと断言し、そして原因を深くは追求せずに「でも忘れない」という形で記憶をリフレインし続けているのではないかというように思え、この詩の意図はそのように詩として記憶をリフレインすることによってその記憶を何度も呼び覚まそうとするところにあるのではないかと考えました。 (リフレイン)

2018-05-02

この詩は語単位のレベルで連想が広がっていくというよりは、どちらかと言えば各文章がそれぞれで成立していてその単位で連想が広がっていくような形式になっていて、鑑賞の形式としては一語一語に拘泥していくよりもむしろ流れるように読んでいく方が良いのかもしれないと感じました。 そうした観点から文章ごとに何が示されているのかということに注目すると、例えば一連目における各文の内容は、「僕は嫌悪した」「ザラザラとした苦い後悔だけが」という近接している嫌悪すべきものと、「とても美しいと思った」「暖かい気持ちは全部冷えた夜の空気に溶け出して」という遠隔している愛好すべきものとの対比が描かれていることが読み取れます。この対比は二連目以降も続いていて「闇の中に消えていくその光景を僕はとても美しいと思った」という一文と「何もかもが取り返しがつかないほど醜くなってしまっていることに彼女はまるで無頓着で」という一文との対比は同様の比較の内に成りたっていると言うことができ、更にここで「電車を降りたその駅は」という形で日常的な現在の移動が描かれることによって、ますますその対比が過去と現在との対比としても際立っているように感じられました。そして三連目では一気にその内の「近接したもの」に注目が向かっていき(そこで見られているのは「僕の5本の指」であり「彼女の餓えた28個の骨」であり、そして「彼女の瞳」です)その嫌悪の感覚はその次の箇所で「私も好きです」というメッセージのあった過去へと一気に延長され、この嫌悪感はここで拡大されて強く感じられるようになっています。ここでは過去からその嫌悪感が続いていたかどうかの確からしさは検証しようがありませんが、その現在的な嫌悪感が今まで対比された過去にまで侵食していく様子がその嫌悪感の強さを示すことに繋がっているようで、この詩においてのその感情をより強く示すことに役立っていると感じました。 興味深いのは、こうした対比が「ふわふわと宇宙に浮かんでいる」「空気に溶け出してしまって」という淡い気体のようなイメージと「砂利の味」「骨」「鉄の味」という固体のイメージによっても対比されているということ、そしてその固体のイメージは水死体や骨のイメージと結びつくことで腐敗していく二人の醜さ、つまり老いへと向かっていくことへと結びつけられていて、それは「あの日」と比べる現在という形で意識されてもいるということです。つまり淡い気体のように理想的だった二人の関係や「あの日」の記憶が、今の肉体的な老いや性的な肉体関係が発生したことによって醜いものとして訂正されてしまったということがここから理解できるように感じました。また、こうした一連の関係が時空間の流れに沿って自然に示されていくというのが一つの技術であるように感じました。 しかし私が一方で疑問を覚えたのは、ここでの「僕」のやや受動的な(と形容すべきか少し怪しいのですが)傾向にある姿勢です。「僕」はただこのような醜さを感じさせている「彼女」に対しての苛立ちを全体において反復していて、その感情の原因をすぐに解決しようというような意欲は表象されていないように思います。もちろん、彼が「彼女と別れた男」なのだとすれば改善の意識に欠けている訳ではないので単に受動的な態度だとは言えないかと思いますが、とはいえこの詩は現実への肯定感に包まれているわけでは決してなく、一つの可能性としては鑑賞者がただ増幅された相手への嫌悪感ばかりを受け取ってしまい、厭世的な感情へと陥らせてしまうこともあるかと思いました。そのため、私はこの詩において、このようなやや否定的な傾向にある感情を描写することによって何を目的としたのかということが気になりました(とはいえもしかしたら、私が肯定的な部分を見逃してしまっているだけかもしれないので、そうでしたら後学のためにもご指摘頂けると幸いです……)。 (E# minor)

2018-05-02

enokizさん、ブルースを浸すというイメージ自体はenokizさんの詩を一つには参考にさせて頂いていてその意味では詩の欠片を使っていると言えると思いますが、一方でenokizさんの詩におけるブルースを浸すイメージへの感じ方をそのまま埋め込むのではなく、ブルースを浸すというモチーフに対して更に一つの感じ方を並べるようなつもりで書いたという意味では詩の欠片は使ってはいないと言えるかと思います。 (参照点)

2018-05-01

三浦さん、コメントありがとうございます。ブルースというところに感じて頂けたところがあったというのは嬉しい限りです。それだけで、こういう形で一つには投稿して良かったと感じられました。 「全体としての難解さ」が「冗長な感じに受けてしま」うこととなったのは、確かにそういう性質をこの作品自体が持っているせいなのかもしれないと思います。つまりこの作品は、「このサイトに掲載された幾つかの詩や詩中の語句を参照しつつ、それらと、そこから自分の形で詩を作ったものとを比較してもらえたら「難解」な形式の中にある感覚をある程度分かってもらえるようにできるのではないか」という断片的な試みの集積として成立していて、そのため中間部分は前半の延長ではないので前半から見た中間以降は冗長でしかなくなっており、またその説明を欠いてしまったために全体としても難解なままに留まってしまったのだと思います。従ってこの点ではこの作品は失敗してしまっていると言えると思います。 ただ、三浦さんがブルースという言葉にご関心があって、そこにまた一つの感覚を生み出せていたのだとしたら、一方ではこのブルースの文脈に一つの意味を作ることが出来たと言えるのかもしれないと思いました。もう少し「平易な言葉の展開」の中に身体感覚をこめるということについても考えてみたいと思います。ありがとうございました。 (参照点)

2018-04-30

冒頭で文章のリズムが四拍で読むことが出来、比較的平易な言葉が使われている点に歌に似た感じを覚えました。また題材としても口語詩に似合うような日常的景観を取り上げていて、よまれている感情としても、小さな渡り鳥がここにおいては異質な存在として扱われているという部分と自分のよそ者の感覚とを結びつけている点は理解できるように思いました。 私が一つ考えた点は、「どこから歩き始めたかは忘れたが/いつかどこかへかえるだろう」という最後の一連です。ここで、語り手は自身の現在地点として「いつかどこかへかえるだろう」という期待を持とうとしていて、私もその点には共感します。しかし渡り鳥が生物の習慣として帰る場所を持っている為に、「よそ者」となっても、或いは「置いていかれた」としても気にする必要はないのとは異なって、私が「どこかへかえるだろう」という期待は具体的な根拠がないようであり、どこかその帰還への期待には無責任な感覚が含まれているようにも思えます。もし語り手が「よそ者」ということで現実に排斥されているのだとしたら、語り手がこのような甘い認識でいてはいけないのではないかと、私は考えました。 しかし、むしろ実のところ、語り手は実際に排斥されているわけではなく、この表現において「よそ者」とは単に馴染めないという感覚であって、実際に一人旅は気儘であり、それは語り手の深刻な問題ではないということなのかもしれません。しかし今度はそうすると、そうした気儘な一人旅の感覚を示すことでこの詩において何を目指そうとされたのかという疑問が浮かび(つまり、それでは語り手にとっての問題がどこにあるのかという疑問が浮かんで)、一人でいることの決意なのか或いは他の意味なのか等々考えてみて、少々困惑してしまいました。 何か読み違えてしまっている点があれば申し訳ありません。そうした読み違えなどあれば是非ご指摘ください。 (HOME)

2018-04-18

「五日前の卵」というのは五日前に購入した卵の意であると私は考えたのですが、そうすると卵はmiyastorageさんの言う「「君」と「僕」の間に兆しつつあった関係」としては、随分と日常性を帯びたものとして表象されていると思います。そして、そうだとするならば「君と僕の最接近」によって卵が「落ちて割れ」るという事態は、そうした日常の中で思わぬ接近に動揺した「僕」が関係性をぎこちなくさせてしまうという事象が比喩されている、と見ることが出来るように感じました。 miyastorageさんはその次の「二枚貝の地層」を「時間を延伸して感じられるこころもち」の現れとして読んでいますが、私としてはむしろ「二枚貝の地層」は「卵」の日常性と対比される形で現れているものではないかと考えました。つまり、「二枚貝の地層」とは時間の延伸ではなく「僕」にとっての安寧の過去を表していて、現在的な「卵」を崩壊させてしまった「僕」は「ソファで膝を抱えて」、そうした「二枚貝の地層」としての過去に籠もってしまうということが表されているように感じました。とはいえ、それが行われているのはソファであり、「僕」は決して幻想の世界に浸ってしまうということがなく、どこかでまだ現在との接点を保ち続けてもいるようです。 私としては、こうした事柄がこの四行の内に表されているとすれば、この詩は比喩として良いものであるように感じました。短い語句によって表されているということは内容に深く入り込まないということに繋がる場合もありますが、むしろこの詩においては「僕」の感傷がその短さと沈黙を必然的なものとしているようにも思います。また、この詩的世界においてただ耽美的な感傷にのみ終わるのではなく、そうした感傷を示しつつも同時に日常との接点を保っている「僕」の立ち位置には興味深いものを感じました。単純に「五日前の卵は落ちて割れた」という感傷も心地よかったです。 (接触)

2018-03-17

>まりもさん コメントありがとうございます。「歌うような調子」ということでは、この詩ではどちらかと言えば直接的な表現に寄っていて、それと文章の区切れ方とが重なって、歌うような調子を感じさせているのかもしれず、また、ことことという音のリズムがその調子に関係している可能性もあるかと思いました。 そして、その「ことこと」という言葉に関しては、その空虚であり、かつ誰かの気配としても存在している音のイメージが、また「空虚であることに視点が注がれてい」るという内容部分で連関してこの文章自体を導いているのかもしれないと考えました。その音から頭韻として動いていくということで始めたこの詩の内容は、またその音によって「何かの訪れを聞く」という方向へも導かれていて、このように頭韻によって詩自体が導かれるという点に関しては振り返ると興味深い点であるように感じています。 ただ、こうした内容について「いのち」という点で詩情を感じて頂けたという点に関しては大変嬉しく感じましたが、「題名のストレートさや、(特に琴の連の)たどたどしさが、初心の印象を与える」という点に関してはご指摘を受け止めなければないだろうと感じています。題名が単純だから悪いとはもちろん一概にはいえないかもしれませんが、この内容に関しては折角このように言葉を費やして語っているものを、題名において一つの短い語句でまとめて終わらせてしまっているという点で批判されるべきものであるだろうと思いました。また詩作の際には内容的な側面にばかり集中していて、言葉の流れという点についてはあまり考えることが出来ていなかったように感じます。この2点については必ずしもまだ具体的な解決案やイメージを思いついているというわけではないのですが、次回以降も少しずつ取り上げながら考えていきたいと思います。 丁寧に読んで頂き、ありがとうございました。 (わたし いのち)

2018-03-15

>いかいかさん 返詩という形でのコメント、ありがとうございます。自分としては、湖は先にも述べたように自分の世界として目の前に見えるせいぜい小さな世界を表していると考えていたのですが、確かにさかなが「多くのものの一部となる」となるなら、湖は「死んだ、人の、/手を、巡」るものであるのかもしれないと考えました。ここには亡くなるということ、そして個と全体の関係について、まだ確かな言葉には出来ていない考えがあるような気がしています。 また、「生まれた、/光の、/影に、さかな、」という部分については、さかなのいる場所が光かつ陰であり、昼でありかつ夜でもあるという点が、この詩の一つの要素なのかもしれないと思っていて、それは生死(或いは別のものかもしれませんが)の境が重なっているという意味だったのではないかと、返詩のこの箇所を読んで考えさせられました。ありがとうございました。 (水温)

2018-03-15

この語り手は、相手に直接語りかけているようでいながら、「きみは…もう寝たかなあ?」と述べて、実は語る相手と直接対峙しているわけではないようです。しかし、それでいながら語り手は「こっちも、そろそろ寝るね」などと声をかけてしまう。まるでこの距離感は、既に亡くなってしまった誰かに延々と語りかけているようにも見え、それ故に一人語りにならざるを得なくなっているようにも見えます(もし電話なら相手が寝ているかは知ることが出来ますし、また想像上であれば「きれいだと おもうんじゃない? 知らんけどさ。」というような具体的な声かけはしないように考えました)。 しかしそうであるとすれば、むしろ死者への語りが「こんなポエム」になることは自然なのかもしれず、そしてそれこそが“continuous”な一人語りであるのかもしれないと思いました。何故ならここで重要なのは内容ではなく、死者へと想いを語ることそのものだからです。従ってこの文章において機能しているのは語りの内容ではなく、語る口調の方にあるのではないかと思いました。 とはいえ、このような「ポエム」に触れて個人的に疑問に感じたのは、「ポエム」は何故しばしば恋愛を取り上げるのだろうかという点です。「ポエム」は具体的な相手を常に持ち、それ故に恋愛を内容とするものなのでしょうか……。死や流浪を歌う、或いは語る相手のいない「ポエム」が可能なのか、やや気になるところではあります。 (continuous)

2018-03-09

初めに語り手は「邪魔なコート」「北風」「季節の変わり目」といったものについてどれも「はっきりとしない」と述べていますが、このように語り手が「はっきりとしない」と感じているのは語り手自身がコートや季節の変化から触発されて初めて行動を起こすという形でただ周りに流されるようにして生きているからであり、そのために物事の区別が捉えづらくなっているということを冒頭で思い出しているように思いました。 そしてそのように思い出してから、「はっきりとしない」という言葉をきっかけにして、そうした自身についての自分語りを始めますが、この内省的な語りでは文章の一呼吸の感覚も長くなっていて、それからこの内省的な箇所では表現が直接的になっているので、語り手は他のものに目を向けられないほど熱が籠もっているというように感じられます。しかしそこでぱっとその集中を解き放つのが「それにしてもこの街の夜の静けさは異常だ」という一文において語り手が外に目を向ける箇所で、ここには些かの集中から解き放たれた快感のようなものを覚えました。ここで語り手は「はっきりとし」た何かに出会いかけているようでもあります。 ですが、語り手は結局そうした外界の情報に対して「昼間あれだけ周囲を気にしながら夜になれば誰も自分以外を気にはしない」という形で自らの意味を付与し、そうして自分の世界へと取り込んでしまうのであって、それ故に結局は何が問題なのかを把握し損ねたままの「サイレントな悲鳴」に脅えることとなってしまっているように思います。 私としては、この詩では、自分語りから一瞬解き放たれるときの快感を覚えさせる「この街の夜の静けさ」が特に効果を得ているように感じました。とはいえ、これが夜であり静かなのも語り手の内省を用意してもいるのでしょう。語り手が自らの断罪から解放され、自身なりの新たなルールを発見するに至ることを祈りたいです。 (他人の中にある自分---)

2018-03-09

「真っ赤な空」としては広大な夕焼け空を思い浮かべたのですが、傷の真っ赤な血の色が夕焼け空のグラデーションに投影されるということは苦痛が和らいでいるかもしれないし、逆に上空いっぱいに広がっているという意味ではトラウマなのかもしれず、どちらの気持ちなのだろうかと思いました。 しかし、実際この詩では「傷ついて 傷つけて 夜に堕落してゆく」「燃える星、いつの間にか遠かった」と言われながらもまだ輝きは見えているのであって、本当は傷はその中間状態にあるのかもしれないように思います。傷ということに関しても、私としての感傷はあざのような感じがあり、却ってここで擦り傷として表現されることにはもっと鮮やかさがそこにある感じがしました。「熟れたいちご」にも何か固まりかけている途中の血のような痛みがあるように感じますし、「遺伝子よりも微かな匂い/心臓を包むどろ水を かき分けて」「造られた絵の具じゃ表現出来ない」にもそうした完全には固まってはいないまだ鮮やかな血のような感じを受けます。 語り手自身も(或いは世界自身が)最早今では「血にまみれた身体」であり、それ故に世界は「熟れたいちご」のようには甘いものではなくなってしまっているのですが、しかしそれでもどこか微かな匂いがあり「ほんとの煌めき」も残っているのであって、このようにどちらにだけにも偏らない姿勢はこの詩の一つ良いところであるかもしれないなと思いました。 (振り返るといつも赤)

2018-03-06

語り手はこの詩の冒頭から、例えば既に静かであるはずの「ささやきを/おとなしくさせて」いたり、カチャカチャ鳴りうるはずの「コーヒーカップのように静か暮らして」いたりするなど、感覚にいささかの混乱を生じさせているように見えます。また、「こころは割れてしまっている」と述べながらもその記述はそれほど動揺がなく、むしろその事態を遠くから冷静に見ているようで、語り手は自身の感覚との齟齬をきたしているようです。恐らくそれというのも、「出掛けよう」「冷やしにいこう」「御金を払おう」と来たるべき春に対して意欲を見せながら、しかし「そう考えたあとに/必ず溜息をついている」と意気消沈してもいるというように、語り手自身のうちに相反する気持ちがあるからなのでしょう。それ故に「雪山山間のきれいな川に」といったように景色の中に視線を泳がせつつ、しかしそれに対して多くを述べる前に次々と別の景色へと移ろってしまうのだろうと思いました。「こころない」といわれているのは「魚たち」ではなく次々と景色の中を「泳いでゆく」私の目線なのではないでしょうか。 そして最終的に語り手は地に着いている脚と痛みという現地点における感覚をもって現在地点に戻ってくるわけですが、しかし逆に言えば現在地点にあるのはその2本の脚と痛みの感覚だけに過ぎないということであり、それを語り手が「生」と呼ぼうとしていても、そこには春としての生の目覚めのような何かが特別に存在しているわけではありません。そこで、しかし語り手はその感覚を持って「春だ!」と叫ぶのであり、むしろ語り手は現在の困惑において春という安定を早急に呼び覚まそうとしているように思われました。もしかしたら景色の中で矢継ぎ早に視線を動かしている(川や月などの一つ一つの対象からすぐに目線を動かしてしまう)のも、そうした春の感覚を早急に呼び起こそうとしているからなのかもしれません。 私としては、もし語り手が春の感覚を呼び覚まそうとしているのであれば、むしろそのような焦燥感に駆られずに景色の中にある春の感覚をより深く辿っていくこともあり得たのではないかというように思いました。しかし、却って景色の中にそのような春の感覚が見つからないからこそ、語り手は「こころは割れてしまって」おり「歩道に立ちすく」んでしまっているのかもしれないとも思います。 (haru)

2018-03-06

「屑篭の無い家」について、この詩は幾らかの読み(とはいえ深読みですが……)の可能性に開かれているように感じました。例えば、そのような読みの一つとしては、「今日も食卓に/ゴミを並べます」と並べたのが語り手であり、「さあ、いただきます」と食事を促しているのも語り手であるとしたときに(もちろん、語り手はこの詩においてただの観察者に過ぎませんが)、語り手がゴミのように言葉を捨てる少女に対して、それならばとゴミを食べさせようとするという恐怖的な構図になるというものを考えました。また別の読みとしては、このゴミが放射性物質汚染廃棄物のようなゴミであるとしたとき(もちろん、ゴミということでは様々なものがあるので、読者の方で勝手に限定することは出来ませんが)、政治においてぞんざいに扱われている言葉によって、汚染されたゴミが食卓に並べられることになってしまっているという政治的な詩にもなるかと思い、或いは、詩中のゴミが道ばたに吐かれたガムのようなゴミであるとすると、都市で生活するストレスの中で味気のないゴミのようなものばかりを食べているという消耗した人物の詩としても読めるのかもしれないなどと考えました。しかし、実際のところはそうではなく、この詩では語り手は未だ観察者に留まっていて、かつ「ゴミ」は未だ抽象的な形でまとめられているので、そのことによってどのようなものが表されているのでしょうか……。 個人的には、いずれも短く終わっていて、自由に読むとしても考える材料がやや少ないように感じたので、一つの主題をもっと掘り下げても良いのかなと思いました。例えば他の詩においても、鳴って目を覚ますものの同時にすぐに鳴り止ませることのできるものとしての「現代詩」とはどのようなものなのか、「椅子が減っていく」ことでなぜ「小さな家が/深呼吸した気がした」のか、「根こそぎ/自分を引き抜くように/家を出る」とき自分はどこに根を張っているのか、といった部分が気になりました。 (家族八景)

2018-03-06

「ぼくの腕は半分 映る水にさしいれてある」という一文において、まずは主題的な感覚がとても示されているように思いました。「腕」は頭ほどには本体としての性格を持ってはいませんが、しかしそのように本体ではないながらも、「右腕」という表現によって示されるように、半ば本体としての存在を獲得しているものでもあると思います。そしてそれが半分だけ水に入っていて、しかもその水には不安定にもう一人の自分がそこに映じているのでもあり、そうした、自分ではないような不安定な何かが既存してしまっているということを語り手は冒頭において示しているように感じます。そして、「やわらかな母体を見うしなって」「ゆれる草花にアクセスして」「風景という風景」とあるように、この語り手はそのように外部に見えているものに自分の感覚や在処のようなものを認めようとしながら、しかし外部化による存在不安にも晒されていることを「わずかに動揺させて」といった部分において感じているようにも見えます。 また、こうした感覚は構成においても表現されていて、一文ずつ空けて語っていくことによって、そしてひらがなに開いていくことによって、意味が文章上において充実するということがなく、それによって読者は何か満たされない感覚を語り手と共に体験することになるように感じました。 ナルキッソスの物語については、この物語では彼は投影された自分を他者として惚れてしまいますが、しかしそのように確かな存在として投影された自分を感じるということは、この詩とはむしろ相反しているのではないかと、私は感じました。私としては、イソップ童話のうちの一つとして「よくばりな犬」などの題で知られている物語が、この詩における感覚に近いものがあり得るのかもしれないと連想しました。「よくばりな犬」は、他者として感じていた川の中の自分が、むしろ自分そのものであったことが分かるという話であり、もちろん教訓は別にあるのですが、ここにも自他の境界の揺れの感覚があり得るのかもしれないと考えました。 しかし、主題的な感覚が以上のようなものだったとした場合、確かにこの詩ではその感覚が水という対象を通してとてもよく表されていると感じたのですが、しかしそれは私たちにとって現在的な感覚なのだろうかと、軽い疑問を感じました。例えば「映る水」「湿潤」「ゆれる草花」などの表現からは森の奥にある泉としての水を思い浮かべたのですが、しかしそのような水の鏡面は現代では見る機会が少なく、その意味ではこの詩の感覚もどこかで私自身の感覚とどこかずれているように思いました。映じる対象を考えることは、可能性の一つとしてあるのかもしれません。 (こうふく)

2018-03-06

>花緒@B-REVIEWさん コメントありがとうございます。湖としての暗喩や湖上のことについては、しかし少し図式で分かるようにしすぎたのかなということを思っています。また、こうした部分については前の作品に意識が向いてしまって、まだ自分の中の感覚を伴うところまで追求できていない表現であるかなとも思い返していました。 ですが、自分としては、湖上の人は自分の世界の外という感じを受けていたので、花緒さんに自分の中での意識、無意識の違いと受け取って頂いたのはまた一つの新しい発見でした。構成にも注目して頂き、嬉しいです。ありがとうございました。 (水温)

2018-03-03

ありがとうございます。感謝申し上げます。 (わたし いのち)

2018-03-02

この詩を俯瞰してみて、意味や文章の流れによって長さを変えるということをせずにきっちりと最後までルールを厳格に適用してしまう部分からは、強迫観念の現れを感じました。精神的に不安定な場合にこのように強迫観念に襲われてということは感覚として私も想像しました。 しかし、全体としてみたときにはそのような不安さに対する厳格なルールのように見えていたものが、その内容を見ていく過程においてはむしろ余裕の現れのように私には思えてきて、それは一つには「迷」から始めるというルールの存在です。この詩において「迷」を始めに持ってくるということは、明らかに語り手が迷うということのテーマを伝えようとする意志があってのことであり、従って語り手はそのように自分を客観的に提供できる立場にあるということが示されているように思われます。また、この詩では視覚が中心に取り上げられていて(「白骨化した首吊のスーツがぶら下がり」「迷走していた自分の足跡を眺めて佇み」など)、やや迷彩服や射撃などの語句と関連して私がやや過剰に連想してしまったのかもしれませんが、視覚という点ではキャラクターを眺めるプレイヤー視点に近いものを少し感じました。個人的には強迫観念というものはより身体的なものであって、例えばドアを閉めたかどうか気になるというような場合でも頭に何か負担がかかって軽く眩暈が誘われているような感覚がするというような、内部の感覚のように思っていたので、視覚を中心に表現されているのは少し意外に感じました。 しかしこうしたものが、そうした迷いの現れとしても読めるかもしれないと考えました。「スーツ」「メイク」「皮を剥ぎ」「迷界に陥る幻」等に共通するのは中身ではなく、むしろ中身を失った外見そのものということで、つまり生々しい感覚を失ってただ中身を失った自分を見ている光景が繰り返されている夢、そうした浮ついた感覚(と言って良いかは分かりませんが)の強迫的な反復として、この詩は語られているのかもしれないと思いました。 (迷彩)

2018-02-15

「他人事ね」「変わらなかったな」という口語的な表現の中で、電車やシロップなどの日常的に目にするものを題材にしていることで、等身大の言葉という感じをこの詩に覚えます。内容についてもそんな等身大な感じの中でそっとした悲しさのようなものが言われていて、その組み合わせがとてもいいと思いました。例えば第一連だと、人が集まる空間としての電車が他人事になってしまって私は独り言を呟いているしかなくて、だけどそこで向かう場所がもう決してロマンチックな詩で詠われるような星ではなくてネオンでしかないというのが、何だか哀しい感じがあります。 ただ一つ思ったのは、そうして日常的な素材を選んでいることで、気持ちがちょうどいい大きさで表されているように感じた反面で、シロップの苦さを気持ちの苦さと重ね合わせたり、或いは星とネオンを光の中での自然と人工として対比させたりするのは私としては日常の言葉の中でも見られる形のように感じて、そのことが、単にこの気持ちを日常の気持ちとしてではなくて詩として出すだけの力を弱めてしまっているかもしれないと感じました。でも、本当はそんなに変に詩として厳かに振舞ったりしていないから、この詩が良く感じるのかもしれません……。 (独り言)

2018-02-14

コンセプトを見てしまってから書いているのですが、現代詩なるものとポエムなるものの鑑賞者を近づけようとする作品であるとしたら、面白い試みだと思いました(ただ、この詩の試みとして「これが好きなんだろう」という迎合的な形で隠喩表現が用いられているのだとしたら、〔手術台、ミシン、コウモリ傘の引用などは特にそうしたものかもしれません〕ここに詩情を読み込んでしまうのはやや躊躇われますが……)。 特にその表現の混合は、この詩が愛情表現として語られ始めるという部分で一つには意味を持っているように感じます。つまり、愛の表現のテンプレートに、例えばRakeの『100万回の「I love you」』にある「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好き」というような言葉がありますが、私としてはこのように直接的な表現では伝えられないものがあるからこそ(愛情表現に限らず)特殊な表現として詩的な言語を用いるのであり、この詩はポエムなるものから現代詩なるものへという過程を通してそのような表現を一つ実践しているように感じました。しかし、この一連の詩が仮に愛情表現であるとした場合に、隠喩表現は直接伝わらないという問題も抱えていて、実際に愛情表現においてはそのことが致命的だというのが同時に面白い点でもあると思います。従って、愛情表現という形態において、ポエムなるものの限界が現代詩なるものによって乗り越えられようとしているが、かつその現代詩なるものの限界をポエムが支えてもいるという詩として読めるのかもしれないと思いました。 ただ、このような読みは内容と少しばかり関係していて、このように純粋に詩というジャンルに対するメタ的な思考のみならずそれ以前の一次的な詩の読解(つまり作者ではなくテキストそのものが何を言おうとしているかが読解されうる)を可能にしているという点では、この詩がこのように純粋にコンセプチュアルなものではなくなっていることによって、そのコンセプトを説明する必要性がより生じているのかもしれないと思いました。 (ワタシのきもち (エルサポエム))

2018-02-14

この詩では、「詩」に対して今では口を噤んでいるが、しかしその「詩」がかつては刺し貫かれるような生々しいものとしてあったと述べられていますが、その生々しい感覚の喪失としては(「詩」はそのような感覚を表していると私には思われたので)私にも思い出されるものがありました。特にこの詩情とよく結びついているのが、何か思い出すというような語り手の口調で、その口調に鑑賞者を誘うことによって子どもの頃の何かをなくしたという喪失感を甘く想起させるような詩であると感じました。また、世界に対するまだ幼く淡い感覚が、刺し貫かれる経験によってその生々しさに気づかされ、しかしそれが禁忌化・希薄化することで喪失されていくという流れも、私の子どもの頃の感覚に幾らか似ているように感じられました。 しかし、「詩」という語がそのような感覚を示していると詩の文脈からは感じられるのですが、詩そのものは感覚自体ではなく発声や文字であるという感覚があり、それ故に「庭に詩が幾つか落ちている」や「たいがい枯葉と一緒に燃やして」という部分に違和が感じられてしまうので、ややこの考えは安易に結びつけすぎているのかもしれないと思いました。或いはもしかするとこの部分に関しては、詩に対する感じ方の、或いはそれ以前の生の直観に対する感じ方の違いなのかもしれませんが……。 (思い出す詩のことなど)

2018-02-14

フィラデルフィアは私にとってはどこか遠い空間であり、そこの夜と小さな灯り、それからどことなく音が聞えてくるという場面導入からの始まり、そして、それをですます調で優しげに語ることで、童話的な空間を想起させているように思います。語り手はそうした子ども的な童話空間で何かを思い出そうと、イメージしたいと思っているように感じます。そしてここでは、小さな灯りでは何も見えないから音だけが聞えていて、その音も、重ねられていく中で、音という言葉だけが特に反復されていくと共に、その修飾が短くなっていくことで密かに音だけが頭の中を占めていくようでした。このように語り手が音を重視するのは、ここは誰も来ない空間であって、ここに一人で、そうして音だけが自分にとって聞える唯一の外界と繋がる手立てになっているが故で、「誰か来たのでしょうか」と述べているのはそのためなのだろうと考えました。 そんな孤独な、誰もいない世界に突如大きな光が表れて、私の目の前にクリスマスツリーを浮かび上がらせることで、この印象が鮮やかなものになっているように感じます。他のものは暗闇の中で背景となっていて、ただクリスマスツリーだけが光っているという事態ですが、語り手が想起していた誰かの存在がまるでこのクリスマスツリーであったかのように感じられます。語り手の孤独にとってクリスマスツリーが特別であったのであろうと私は思いました。そしてそのイメージは墓場の上に結びついていて、語り手は孤独を感じているのだから、元々ここで墓場に対する認識として、亡くなった誰かの存在を身に感じているということはないかと思うのですが、しかしクリスマスツリーは確かにモノとしてあるならば或る意味では死者にさせられてしまったモノであり、それに対して語り手が生者として相対しようとしているのなら、何かそうした消してしまった温度をもう一度手に掴もうとしていることもあるかもしれないと思いました。 ただ、私はこのように語り手はここで、記憶の中で生きているはずの死者、或いは現実に生きている樹という生者を、本当に単なるモノとしての死者にしてしまう作用について自覚をし、それに抗おうとしてこう語っているのだろうと思ったのですが、最終的に語り手は「そして雪が降り、この日の事は誰も知る事はありませんでした」として単なる個人的感傷の詩としてそれを収束させているように思われ、最後に結局感傷に浸ってしまうのは解決としては良くないのではないかと思いました。しかし、この点についてはもし私の過剰な深読みであるかもしれないとも思うので、そうであればすみません……。 (フィラデルフィアの夜に Ⅳ)

2017-12-25

私も「てめえ」という呼びかけに、違和感を覚えました。つまり、私としては、「おまえ」という言葉はどこか相手を大事に思っているところがあるような気がして、例えば昔の時代劇では夫が妻のことを「おまえ」とは読んでいても「てめえ」とは声を掛けていないところを思うとそういうイメージを思い浮かべるのですが、しかし、この詩では例えば「僕は僕の有り金を叩き/てめえに飲ました」「てめえどもに愛の泡を教える為/サンタの格好をした」というところからを見ると、語り手が恨みを言いつつも相手との関係によって自分を成り立たせているところがあって(また相手に何かをしてあげているところも、相手との関係を切り離せていなくて)、まだ「てめえ」という形で切り離せてはいないのではないかと思いました。その点で、「てめえ」という言葉を使うのは少し違和感があるように思いました。 また、前半の部分では私としてはあまりイメージが湧かず、単純に私にとって漢字が読みづらいせいなのか、或いは漢字の形が似ていて判別するのに労力を要するせいなのか(釘打ちなど)、或いは「夕暮れ」のような視覚イメージに対して、そのように何かの五感に結びつくような言葉が足りないのかは分かりませんが、いずれにせよ私にはあまり感じるところが難しかったです。読み不足であれば、申し訳ないです……。 ただ、私がこの詩で一番好きなのは「トナカイに乗ったおまえは死ぬ/ただ死ぬ/それだけ」という箇所で、恨みの中において相手を自分の言葉で死ぬ者として定義していくことで、自分の中で相手を処理してしまうというその自立が、この詩においては良い印象を残していると思いました。 (泡)

2017-12-25

>百均さん コメントありがとうございました。確かに区切れが短く、主語がすぐに述語と結びつけられていて、その点でこの語り口はプレーンですね。「それが最後の霜に繋がって」というところが少し理解が難しくて、面白いと言っていただけたのは嬉しいので、もう少しその点についてはどのように繋がっていて、或いは繋がっていないのかを考えてみたいと思います。 システマティックというのは今回は少し意識していて、5・4・5・4の形式と、それから各文の長さもやや考えて作ったところがあります。作るときはあまりその効果は強く意識していなかったのですが、この詩は恐らく少し伝わりづらいところがあって、システマティックな部分はそうした硬派な部分に貢献しているのだろうか、と思いました。また、作りとしては初めてということもあり、イメージの繋がりを強く意識したところがあったので、上手くいっているようであれば嬉しいです。ありがとうございました。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-25

百均さん コメントありがとうございました。実はこの詩は他人の言葉に端を発していて、その点ではまだ自分の中でも慈悲深さはまだ頼ってしまっている部分があるのだろうと思います。ただ自分としてはその内で、失くしたものをすくうというところが強くあって、それも掬うと救うという二つのイメージがそこに重なっているように感じていて、一つとしてはそれを出すつもりでこの詩を書いていたので、そのすくっていく側面に注目していただいて嬉しいです。 「あらゆる叙情をこのワンフレーズが無慈悲にすくっていってしまう」というご指摘でしたが、確かにささやかな喪失を差し挟みつつ、そうした何もかもを最後にすくいとるというこの詩の形式も、この詩のテーマに関連して大事なことだったのだろうと思いました。ありがとうございました。 (the Milky Way)

2017-12-25

>三浦果実さん コメントありがとうございました。「十二月の夜を」が最後まで情景を引っ張っているという指摘で、確かに例えばその寒さが無ければその後の熱は確かに機能していなかったかもしれないと思って、イメージの引っ張りという意味ではこれからもその点を大事に考えていきたいと思いました。 また、イージーな感じというのも詩のイメージとしてこの詩では祈りに対して大事なことだったのかもしれないと考えました。 ご指摘頂き、ありがとうございました。 (the Milky Way)

2017-12-20

>李沙英さん コメントありがとうございました。自分は一つのイメージを続けていくのがなかなか苦手だと感じているので、それが出来ているなら良かったです。the Milky Wayの意味を自分の中で確かにしようと努めたのが功をそうしたのかもしれません。 自分としてはあまりメルヘンや恐々しさというイメージを意識していなかったのですが、天の川に託してしまう箇所や、そもそも祈らなければならないという状況はそういうものを抱えているのかもしれないなと、少し発見がありました。ありがとうございました。 (the Milky Way)

2017-12-20

>仲程 コメントありがとうございました。この詩では確かに輪廻のように還っていく場所として天の川があって、思い出はそれに熱を与えて帰る故郷としての意味を与えているのかなと思いました。 語呂合わせは言葉の音の側面を思い出させてくれるという点で面白いですよね。いつか試してみても良いかもしれないなと思います。 (the Milky Way)

2017-12-20

>カオティクルConverge!!貴音さん コメントありがとうございました。暗くないレクイエムや、メメントモリーを感じて頂けて嬉しいです。自分としても非当事者ではありながら、何かそこに通底するものがあるかもしれないと考えて作っていたので、そう感じて頂けたなら嬉しい限りです。ありがとうございました。 (the Milky Way)

2017-12-20

はじめまして。この詩は「死」「火」「童話」のイメージを、夜の暗闇やドレスの白との対比や、火葬の熱と体温の記憶との連想などを通じて強いイメージとして表せていると思いました。また、死の絶対的離別への悲しみのようなものが、こうした連想や対比の中でよく伝えられているような気がしました。 ただ、どこかこの詩が実際的に響くところに欠けている気がして、つまりこの語り手は「君」が死んでしまった割には、どこか冷静的すぎるように感じます。例えばこの詩では「宝石の重さで内側を計るのはやめにして」というような言い方で、日常とは違ってイメージが上手く作用するように言葉を選んでいると思うのですが、そうするとこの語り手は「君」が死んで火葬されていく前でそんな冷静なことをしているわけで、そんな薄い感傷でしかなかったのだろうか、という風にわたしとしては考えてしまいます。第四連や第五連の場合は、その感傷が実際に存在しているように感じるのですが、その他の幾つかの部分で技巧的で、感傷に冷静さが優っているように感じました。 (白絶の火)

2017-12-16

>花緒さん コメントありがとうございます。怖い感覚というのは今回はその痛みを一つには目指していて、或いは赤い血の鮮烈さはその痛みにも通ずる点だと思いますが、そこがまず表せているとすれば嬉しい限りです。しかし、それのみで終わってしまうならば、この詩は含蓄する意味の狭さに問題があると言えるかもしれないと感じました。過剰な抽象性に問題があるのかもしれません。 また、題名についてはなるべく良いものを選択したいとは思うのですが、生憎その点について成功した例がないので、今回は避けて直接的に付けています。しかし、やはり題名は初めに見るものであり、読みの観点や可能性、或いは期待を提供する点でも、それを工夫するということは必要なことでもあるのでしょう。今後考えていきたいと思います。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-12

>まりもさん コメントありがとうございました。今回はまず自分に近い身体感覚として痛みからイメージの繋がりを言葉にしてみたのですが、孤独と集合ということを言われていて、確かにそうだと感じました。しかし、そのように後で理解するということは、自分の中で感覚の意味や論理を把握し、繋げることが出来ていないということであって、それが<誰か>という漠然さに繋がっているのだろうと思います。これらのイメージをより精緻化するために、自己の感情と照らし合わせつつ他作品の連想形式を参考にしたり、自己内部での感覚を反省したり出来たと思うので、そこは反省点です。ありがとうございました。 (冷たい夜明けの湖畔にて)

2017-12-12

まず解釈について述べるならば、銀杏は普段は緑で別に目立たない植物ですが、秋になると紅葉し、秋の訪れを感じさせる存在で、ここでの銀杏に対する「何故かしら」という疑問は、自然の時間の流れに対して母の感じる速度が見合っていないという不思議さを表していると思いました。その次の連を見ると、「胎児と/お母さんは共犯者」とあって、そこに父は含まれていないので、つまり、母は産むに当たって共犯できるのが胎児のみ、という母の事情を想像させます。それで母は、それに対処する時間として見積もっていたものと、実際に流れた時間との齟齬を感じたのかもしれないと思いました。しかし、「命は/ひとりごと」なのであって、その胎児は未だに声を発さず母の相談相手とはなり得ないことが示され、それ故、「秋雨の下で/濡れ重なってい」ても濡れるのは母だけだという悲しい事態が最後に明かされているように思いました。 次に、詩における効果について述べるならば、上記の解釈が成り立つとき、銀杏のイメージによって時間を指示する、或いは文章上での父親の不在という形で孤立する母親の指示するという示し方は、私達にとってその意味が直ぐに感覚において把握できることでありながらそれを明示しないということによって、私達がこの作品を感覚のレベルで鑑賞するのに一役買っていると感じました。また、その後の胎児の「命」は重なっているイメージであると同時に温かいイメージもあり、それに対して、秋雨・濡れる(寒さ)、そしてひとりごと(孤独)という言葉を与えるのは、イメージに対する言葉の与え方が上手いと思いました。 長くなってしまいましたが、以上踏まえまして、非常に良い作品だと感じました。 (黄金色のストール)

2017-12-09

第一連では、甘えを感じさせる話し方が上手く表現されているように感じました。「~なの」「~の」というこの作品での終助詞は主に女性が用いるものであると思いますが、そのような語尾を付けて話をする「わたし」は相手に対して女性性を強く感じさせようとしているように思われ、また、「~、さ」という語尾までに一つ空白を置くのも強く相手を意識している「わたし」を感じました。このように、好きというメッセージも含めて、語り手は強く聞き手を意識していながら、悲しいことにはこの一連の発言に相手に届いていないのか、返答がなく、「酔ってなくてもわたしはきみに/ついていったとおもう。」、または「てゆーかここ、わたしの部屋だっけ? きみのだっけ?」と返事がないにも関わらず尋ねてしまう点に、この人物の依存と虚しさを感じます。 そして、これが崩れるのが第二連で、「汚い電柱と犬の糞とそのへんのババア」という強い言葉遣いが、この夢見がちな<きみ>を馬鹿馬鹿しく感じたのでしょうか、語り手の自立を感じました。また、「女の子が」という表現だけでも<わたし>でないことが想像されるところに、敢えて「わたしではない」という形容を付しているのは、それが過去の<わたし>だったからであるようにも思え、そうだとすると、その更に上に存在する<わたし>は一段と自立しているのだろうと思います。この自立が、私としてはこの作品の面白さであるように思いました。しかし、それをこの作品の中心に据えるとすると、この部分については「信じて!」「物語のどこにもきみはいないのに、さ。」という語りかけが、結局相手に依存し自立できない甘さが残る「わたし」の性質を示していて、それがこの詩を終始甘ったるいものとしてしまっているように感じました。 (alcholol)

2017-12-09

朝焼けや、天の川、あの夏を感じる余裕があったのは私にとっては子どもの頃で、「おかしなアタマ」は或る絵本に出て来そうなピエロを、或いは「窓から静寂を数えてる」のは夜空を眺めて眠りを待つ子どもの姿を思い浮かべました。しかし、「ニセモノの天の川」という部分からは、少し甘い期待を裏切られるという苦い経験を経た語り手を想像させ、従って私にはこの人物が、子どもの時間を失えないままの女の子であるというような感覚を覚えました。その意味では、靴下や窓という生活感の中で大人になりつつも、夢や星に託して(記憶を懐かしみつつ)夢想を繰り広げている「無重力」な感覚が上手く表現されているように感じました。 この観点から言えば、最後の一行、記憶の中の「いつかの言葉」が「食べられた」という表現はその夢想が壊されるということを意味していて、特にそれは「アパート」「ねこ」という具体的な目の前にあると思われる事物に即して語られていることから、現実によって破壊されるという悲しい事態を意味しているように感じました。私としては、夢想をしてしまうということからは、それほどに目を背けたい現実というのがあるように感じられるので、ねこのあくびはまだ甘いのではないかというようにも感じます。しかしここでも「チェシャ猫」を思わせるような「ねこ」を持ち出すところがまた語り手のリアルなのかもしれないなとも感じました。 (朝焼け)

2017-12-09