作品投稿掲示板 - B-REVIEW

miyastorage


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宝島

2018-03-25

ストロワヤ

2018-02-02

愛してる。

2018-01-18

Defeat

2017-12-30

誰かの内心の発露の受け皿として作品が存在価値を与えられるなら、これは捻転する誰かの内心という荒れ球を苦心惨憺リードして試合を作る優秀なキャッチャーですね。でもきっと試合が壊れて終われとも、内心考えている節がある。グレートリセットのために。本当なら俺がマウンドに立っているべきだったし、立っていたはずだろ?という無念を感じる。もうだめだ、と言い残してマウンドを下りられるやつに俺の気持ちは分かるまいという凄味があるッ! >私、ためらいなくあなたを刺しますから。 とは河原先輩(キャッチャー)が須田(一塁ランナー)に向かって発した言葉であるように思えるが、実際は不甲斐ない後藤(ピッチャー)に向けて発したそれなのかもしれないと思うと、 >指を一本一本切り落として から始まり >魚のような地球外生物になりますから。 で受ける河原先輩の独白を、とても親しみをもって受け止めることができる。 昨日が終われば、今日のスコアブックは、昨日の結果に関わらず白紙となるものだろう。にも関わらず、のっけから「もうだめだ」はいかんでしょとは思えないのは、本当は人類滅べと宣いたい河原先輩と口唇術でやり取りするベンチの苦労が手に取るように分かる気がするからなんだろう。 (探せ。)

2018-08-19

さ さん そうですか。なぜでしょうね。 5or6(ゴロちゃん。)さん ファッキンなふたりがカップル強盗なのか、ギャングのふたりなのか。そこは大事な問題な気がします。個人的にはフット・マッサージの話はぜひ引用したいとこです。 (Adam’s Apple(It’s Missing) )

2018-05-27

それぞれロック的なアイコンとして頂点を極めた感のある二人の名が出てくる。彼らには、共に揃って語られるべき女性がいたことも、多分偶然じゃないんだろうなと思って読んでみた。1960年代くらいから、ロックは同じことしか言ってない。そう独断すると、この作品で述べられていることも、1960〜2000年の間に発表されたロック作品を15、6枚ピックして、それらの中の歌詞をコラージュしたもののように見えてくる。聞いたら見たりしたその場ではえらく共感できるけど、翌日からの現実が適応を迫ってくる。「マフィアに終われた売人」のことは映画でしか知らない。ロック的なものをコラージュしたように見えるし、事実その通りなのかもしれない。だとすると、この作品はどこに照準を合わせて作られたものなんだろう?そこが僕には不分明だった。 「神の息子みたいな苦難も奇跡も要らないから退屈な日常を返して」。キリストの死と復活のことだろうか?試しにジョンレノンとカートコバーンとジーザスとで画像検索してみると、両名を神になぞらえた(んだろうと思われる)画像が散見された。両名は間違いなく死に続けているし、キリストもまた同じだろうけど、人々の口伝の中で生き続け、拡散し、再解釈され続けるあたり、頂点を極めたロックスターは、ゴルゴダの丘に赴くことでその人生が完結するシステムでもあったのかと訝りたくなる。彼らの熱心なファンひとりひとりの振る舞いが彼らを死に向かわせたとすると、誰かがこれは虚像やぞと言わなければいけなかったのかなあ。ジョンレノンは他殺らしいけど。 ここまで余談だしここからも余談だけど、アメリカで発売される楽曲の5割くらいはヒップホップらしい。ロックは主役の座をすっかり奪われてしまったとか。ロックの神話も潰えた今、この間、スリップノットのボーカルの人が自殺したらしいけど、熱心なコミュニティ以外で話題になっていない感があるのは、皆ほかの話題に興味があるか、己の情報発信に勤しんでいるせいかもしれない。 (病み上がり)

2018-05-04

「奥方」というのは貴人への敬称らしい。なので、「ほとんどの時間、勤めに出ている」女性の二人称として用いるのは少し奇妙な感じがする。あるいは、この二人称によってアロワナの立ち位置が端的に示されているのだろうか。 ペットを飼う、という行為には主客転倒するところがあると思う。例えば人間と犬だったら前者が主人なのが建前。後者は前者の庇護なしでは生きられないし、また庇護するがゆえに、前者は後者の生殺与奪さえも自由にできるような部分がある。しかし実際には、人はその行動を飼い犬によって制限されるし(遊びに出てものんびりできない、旅行に行けない、etc)、また進んで彼(女)の犠牲になることも厭わなくなるであろうあたり、ペットが王のように君臨するカリカチュアを思わせる。 ここでアロワナは王として君臨している訳ではなさそうだ。ただ家族の崩壊過程の語り手を勤めている。「吾輩は〜」のようであると言われればそんな気もする。個人的には、あの話で覚えているのは、最後に猫が井戸に落ちて溺れ死に、しかしなぜか法悦境に至るところ。アロワナは代替可能な存在として描かれている。死んだら捨てられて、新しいものといれかわるだけ。またアロワナの心情はひとつも描かれていないあたり、作品の在り方がそれを代替しているのかな、と思う。確信はない。 代替可能と書いて思ったのは、例え嫌悪によって繋がる間柄だとしても、家族に代替は効かないということ。この家族が崩壊に至る機序には、この父親、母親、子供達と彼らの演ずる役割が必要だったのであって、結果はともあれ、お互いの存在は「代替不能」であったはずだと思う。最後に現れる妻と子供の影は、主人の体から立ち登るあたり、代替不能なものを損失したという認識の擬人化のようなものだろうか。 失って初めて分かる、のような概念は珍しくないし、実際に体験してみるのが何より理解の早道なんだろう。立ち上がった影の、極めて日常的な所作が、主人にとっての家族の価値を担保しているように感じられる。 (旋回)

2018-05-03

根底にあるのはペーソスではなく、母の強さをわずかにシニカルに、基本的には女性たる彼女のもつ強さを賛美していると思う。それも男根主義的な価値観の優勢な世界にあって、女性にとっては単なる障壁にもなりうるその価値観の壁を、家「婦」長として家を切り盛りしながら笑い飛ばしていた肝っ玉母ちゃん的な人物像が容易に想像できる。「あたしンち」の母のような人だろうか。あたしンちを見たことないけど。 おそらく彼女の夫は、仕事はして生活の糧は稼いでいるけれど、大変影の薄い人なのだろうと思う。そういう家「父」長像は、多分だけど、80年代くらいから色んな媒体で描かれてきたんだろうと思う。だからそれを当然の前提とし、この作品中には、妻の不死身っぷりに右往左往する夫さえも描かれていない。このような夫(父)像が今日、なお有効なのかどうか、興味がある。またあるいは、夫はその存在を措定さえされていないのかも。受難やね。 上手にまとまっている作品だと思う。子供受けしそうと思うけど、どうだろう。棺桶からの脱出はベアトリクス・キドーみたいにやったんだろうか? (母、帰る)

2018-04-29

enokizさん ありがとうございます。 三浦さん パルプ・フィクションの本編シーンをコラージュした映像作品とか、面白いかもしれませんね。そうなると、この作品がコラージュに押し負けるでしょうけど。 (Adam’s Apple(It’s Missing) )

2018-04-29

まりもさん コメントをいただいていたことに気がつきませんでした。お読みいただきありがとうございます。 「灰」と「胚」をかけるのはいいアイデアだと思います。でも、終わらないくそったれの日常を呪う余力すらないほど無気力な人たちが多い場所。そういうイメージが先行しているので、やはり誰にも顧みられずに降りしきる「胚」であって欲しいなと、僕は思います。山本直樹の漫画とか、古谷実の「グリーンヒル」の主人公とか、「センチメントの季節」に出てきた中学生でやりまくってる幼馴染のふたりとか、それらを手前勝手に取り込んで、終わらない無色の春が延々と続く感じなんですよ。 (【選評】3月投稿作品)

2018-04-15

くつずり ゆうさん 読んでいただきありがとうございます。 記録映画のように見ていただけたのは、多分この作品のお行儀が良すぎるせいでしょう。 誰もいない・いなくなるのは僕の作品に繰り返し現れるモチーフで、今後も形を変えて現れてくることだろうと思います。 (宝島)

2018-03-28

「私生児」という言葉に話者の身上が仮託されているとみるのは少し安易でしょうか。 しかし「番いの二羽が視線をずらして」ともある。雉の番いがことさらに仲がいいということも、個人的には聞いたことがなく、また、雉の子育ては雌に一任されるという。 また、ググって知ったのだけど、「雉も鳴かずば撃たれまい」という故事。これも父の不在がその骨子にあるらしい。なので、話者の「精神的な父の不在」(実際のところは分からないけど)のようなものが、この作品の底流にあるように思う。そしてそれを内包している。 >壁を隔てた廊下から >番いの雉が >難癖のない角度で >植えられた目玉で >じっと見ていた 熱病の見せた幻影かもしれない。あるいは、わたしと、わたしを取り巻く状況と、わたしの心情とを、一段高い場所から俯瞰するまなざしかもしれない。 この5行により示される、独白とは違う視点があり、この後に現れる、剥製の雉を「抱きすくめたくなる」という一見奇妙な衝動があり。これを「わたしの愛しさの一部なのだろう」としているあたりに、不在を内包して結実できる話者の精神的な成熟をうかがい知れる…ような気がする。 (雉)

2018-03-21

話者が信じるところの「正義」について書かれている作品でしょうか。「コイン」の「表裏」。仮に話者の正義を「表」とするなら、「君」のそれは「裏」とみなしているところから、この作品は始まり、どうやら「僕」も裏のそれを信奉していたことをほのめかし、「あの娘」に会いに行くことで「表」に還れることを示唆している。 最初の連で、セックスやそれにまつわる概念が無価値であることを強調している、ように思える。なので、「あの娘」が「僕」に提供するのは肉欲や、「冷笑」や「悪態」、死を物体の廃棄のように捉える不感症のようなものとも無縁の、なにか無謬の価値であるらしいと感じる。少なくとも「僕」はそう信じてはいる様子。しかし、かつて信じていたものを、今や己にとって「裏」側の正義とみなしている様子からすると、僕個人的には、「あの娘」の価値も、宙に放り上げられたコインのように、地上に落ちるまで裏表の定まらないものなのではないかな、という気がする。 (花束をのせて)

2018-03-18

「君と僕の最接近」とはなんだろうか。そして「五日前の卵」とは。 「卵」が「君」と「僕」の間に兆しつつあった関係を仮託されたものであるとしたら、落ちたそれはおそらく割れて、こわれてしまった、ということだろうか。「落ちて割れてしまう卵」は、不意の、予測外の、歓迎しない出来事を表しているように思う。 2連目で、話者は「ソファで膝を抱えて」、「二枚貝の地層」に丸まっているという。二枚貝の地層という言葉には、不本意に土砂に飲みこまれた貝が化石と化すような、長い長い時間経過を想起させられる。それほど時間を延伸して感じられるこころもちなんだろうか。実感としてわかる気がする。 ソファで膝を抱えて眠るのは、いつもの寝床で眠れない事情があるからだろうか。膝を折らなくても横になれるソファもあるだろう。「膝を抱えて」「丸まって」の表現は、そうしなければ体の収められない幅のソファと、そのサイズがちょうどいい部屋の広さと、話者の窮屈な体と心の状態をうまく表現できている気がする。また、同時に、険悪なムードの中に、わずかにそれを弛緩させてくれるユーモアの萌芽のようなものも表していると思う。 (接触)

2018-03-16

並ぶのは人生の慣い。整然とした人の列を蛇の胴体に見立て、その行き先は明確ではない、という入れ子状の夢の作品。道の角を折れる、とは話者の道徳感情や経済状況が許さない道(生き方)の暗喩と読めた。だから話者は「真っ直ぐ」にしか進めないし、「真っ直ぐ帰宅」することを尊ぶのだろう。 一方、「生きるためにはしかたがない」のような諦念。あるいは、「どこに繋がるかもわからない列の途中にいて」、「きっと最後尾のことも/もちろん先頭のことも/生涯わからないまま自分が消えるんだなと/そのことを彼はとても面白がった」のようなアイロニカルな視点。真っ直ぐにしか進めない自分への懐疑。真っ直ぐに生きる/真っ直ぐにしか生きられない。進むべきとしている道へのアンビバレントな感情も、あるいは、愉悦を惹起させる燃料でしかないのかもしれない。 「大蛇を見つめている」巨大な目の主は何者だろうか。「みんなで繋がっ」て、「綺麗に整列した」はずなのに、「道草ばかりしてる」のはなぜだろう。進む列(蛇)が死のメタファーなら、道草する蛇は遅延を表現している?なんの? 見当はずれを承知で、電車の人身事故を思った。人身事故とは元は隠語だったはずだが、今では礫死体を想起させる。おそらく見知らぬ誰かの死が、数多くの、おそらく互いに見知ることもない乗客たちそれぞれの「どこに繋がるかもわからない列」は、唯一確実に繋がっている終点のことを認識させる。 大抵の場合、人の死は自分にまるで無関係だ。自分の死さえ体験できるものではない。明日も明後日も、多分自分は、自分の家族や同僚は死なないことを前提に組み上げられていく日々は、悲喜劇みたいなものかも、と思った。 (大蛇)

2018-03-11

5or6さん 読んでいただきありがとうございます。 できれば置物のようでも、静物のようでもある作品を書きたいと思ってます。だからそのご意見、 ありがたく受け取ります。 (愛してる。)

2018-02-16

百均さん 読んでいただきありがとうございます。 どろんと落ちる星って、昔、短歌を作っていたら出てきたフレーズでした。お先にどろんします、ってリバイバルしてるみたいですけど、本当にそんなこと言ってたのかな、当時は。 それで最初は散文詩で書いて、愛してる。というフレーズを埋没させることで処理しようと試みたりしていましたが、あえて行分けにしてみることで得られるものはなんだろうと。しかし色々難しいな、正直中途半端な作品だなと思いながら投稿の場をお借りしたものの、色々な意見をいただき、本当にありがたい。 往診は話者か、もしくは愛してる。対象かがやってくるイメージかもしれないし、触診はもしかすると行為のイメージかもしれません。マービン・ゲイのSexual Healing的な。 出窓はなぜ燃えたのか?出窓って採光面積は広いけど、雨戸をつけられないし、広い分だけ放熱面積も広くなるわけで一長一短らしいですね。でも出窓で頬杖ついてるイメージって好きなんです。できれば平日の午前10時半頃、かすかに掃除機の音も聞こえる郊外、通り過ぎる自転車やベビーカー。安寧のフルセットみたいなイメージの中に、ひらく薔薇色の傷口みたいな出窓。それで窓越しに、確かめ合う。でも燃えてるんだから、それは死のイメージを内包しているかもしれない。でも、死は安寧のイメージも内包しているかもしれない。僕は熾火の方が好きだから、畢竟この作品に現れるようなフレーズを選択するのだろうと思います。焼けて、まだ燻っている出窓で、内と外から語り合う。鼻先で確かめ合う。内は此岸で、外は彼岸。やってきた人の腐れた身体から、やがて実さえ付けるであろう花が芽吹き、そのまま花畑になるような。そういうものも、描きたいのかもしれません。 (愛してる。)

2018-02-15

まりもさん お読みいただきありがとうございます。柑橘類、口内炎にしみますよね。でも口内炎ができると酸っぱいフルーツを 食べようと考えてしまう。 これは割と古い作品で、そのように読んでいただくと、作品が生き返るようであり、この後に繋がるかもしれない 示唆をいただけるようであり、感謝いたします。パラフィン紙も杉綾の俳句もくさいわあと書いた当時は思ってい ましたが、まあいいかと切り離せるようになったのは僕がおっさんになった成果かもしれません。死者の新譜は、 傘をさしたチャールズ・ミンガスかセロニアス・モンクのイメージだったような気がします。 ウォッカうがいは、その後数分は口中が痺れ、口内炎の痛みが遠のきますが、すぐに元に戻りました。 (ストロワヤ)

2018-02-13

>大体が、 から始まるように読んでしまいました。抒情というのは厄介な概念ですね。なにか”言ったように気分”にさせてくれる。 もののあはれ、でググってwikiをかいつまんで読むと、本居宣長がその著作の中で提唱した概念だそうで、それと地続き であるのかと僕などは思うのですが、どうなんだろう。 即興的な詩句を紡がせるならAIの方が人よりずっと優秀だし無尽蔵だよね、って時代に生死とか病とか老いとか、旧態依然としたテーマで、しかも抒情の串を刺して詩を紡ごうとする姿勢そのものへの問いかけ、自他への警句。そのような作品であるように思います。 最後に電話していたのは誰か。砂漠の味のする牛乳とは何か。牛乳は文字通り砂漠の味がしたのだろうけど、普通、砂漠は舌で味わうものではないから、その味は分からない。その不分明な隠喩で、作者もまた、自分が思うところの作詩の隘路みたいなとこにあることを暗示しているような。いないような。 (風は北から)

2018-02-12

冒頭の英文。あいつはいったいどこのどいつだ?って訳になるでしょうか。 どこから発話されているか不分明なこれが、タイトルとあいまって、作品全体に浮遊感めいたものを与えているように思います。 個人的には、用いられる言葉と言葉同士の連結により、頭の中で生成される(読み手なりの)意味が勝ち過ぎてしまい、先述した「浮遊感」、読む心地良さ、を殺してしまっているように思います。作者の言葉のチョイス、言葉同士を繋いで組み上げていく構造、その辺りが弱いのかもしれないと感じました。 (テセウスの船)

2018-02-11

くつずり ゆうさん kaz.さん 読んでいただきありがとうございます。もう少し、取り組んでいこうと思います。 ストロワヤを注いだグラスの表面には透明な炎が点りました。 (ストロワヤ)

2018-02-10

荒地派、鮎川信夫。アホでもここまで分かる。鮎川の根底にあったのは言葉、思想、民主主義、戦前の価値や戦後のそれ、または、愛情。そういったものへの不信であったらしい。彼が信頼していたのは死者との友情だけである、とも。人のブログの受け売りだけど。 作者や僕らの意識は、70余年前から育まれている精神性や物質性みたいなのと地続きであるかもしれない。この作品には、日々起きていること、起きてしまっていることに対するコミットメントがあるのだろう。 >この私へ流れる今だ 「今」、この後の2連で示されているイメージは不吉だ。70余年前とは形も意義も様変わりさせて、僕らの時代の境目となる出来事を予見しているように思える。ただ、この予見する目を、作者は呪っているのかもしれない。今更何を、と。世界は変わらない。少なくとも「いい方」には。僕はどうするべきか、死ぬまで決められない。露悪に生きるか、己の無謬を疑わない白痴となるか。最後のは独白。あるいは飽和。申し訳ない。 (    )

2018-02-10

訃報。水墨の濃淡。丹頂と、セキセインコと、文鳥と、桃色の嘴の彩り。乞食から転じた少女の飛翔。掻き手と書き手の人筆に跫音は不似合いなのかしら、など、取り止めなく考えて、考えるのが心地いい作品でした。水墨画の黒白の中に、悲しい作品なのかもしれないけど、鮮やかなイメージが灯され、それを頼りに桟道を進むような足元の覚束なさも楽しめました。 (夜の掻き手)

2018-02-04

嗚咽って「泣く」より重い言葉ですね。 >こんな風にして >僕らは涙を捨てる。 >(ごめんね) >哀しいからじゃない >その手を振り払らい この部分が浮いているように見えます。ラインでも使いそうな話し言葉で、他の行はやや書き言葉よりな感が。人に伝えるより、作品に強度を与えるために表現に凝ってみた、と言いますか。だから引用部分が唐突に映ってしまった。独白でもいいと思うんです、詩作品って。その上で、読者に強いイマジネーションや不安や安寧や、様々な感情を喚起させられるなら、優れて詩作品と呼べるんじゃないかなと思います。しかし、この作品については、僕はなんら感情を喚起させられることがありませんでした。 (嗚咽)

2018-01-26

アラメルモさん 読んでいただきありがとうございます。 物語めいた世界観を成就したいなら、散文形式の方が自分には容易だったかもしれません。一行がきりきりと立った行分け詩に憧れがあるんですが、僕の技量では難しいみたいです。愛してる。と伝える方がなんぼか容易でした。 (愛してる。)

2018-01-26

読んでいただきありがとうございます。 ロ三さん 何かを書くと、おそらくほとんどの場合、過去に誰かによって書かれたものに行き当たるのだろうかと、 最近そんな気がしています。書くことは、ほぼもれなく誰かの剽窃に当たるのでは?ゾッとしますね。 もなかさん 「ポエジーの自動化」、素晴らしく言い得て妙だと思いました。一つ裏話を許していただくと、この作品、 元は散文詩だったんですよ。改行によりポエジーの誕生を狙う。そういういやらしい作者の手技が丸見えで 見苦しいですね。 (愛してる。)

2018-01-24

すごく曖昧な指示を受けながら、どこかも分からない目的地を目指すことを強要されている気分。言葉が何かを指示していて、僕は僕の中にある指示されたもののイメージを喚起させるんですが、像を結ぶ前に置き去りにされるような。それが心地いいこともありますが、この作品にはそれがない。 >私が鏡の中で剃刀で自らの腕を裂くと、 例えば。「で」が続いて文章から滑らかさを奪っていると思う。「鏡の中の私が、剃刀で腕を裂くと」とか、どうでしょう。この文を含む「青い幽霊を視た、」から始まる連にだけ読点が振られていて、ここがこの作品の棘波かと思いましたが、上述の文に限らず、率直に言って文章が下手だと思います。少なくとも下手なのが魅力になっていない。読みやすさを忌避するなら、一度、例えば友人にも見せられるような下書きをして、そこから彫琢しつつ読みやすさを放擲していくと、有効かどうかは分かりませんが、思いがけない形にはなったりするかもしれません。 (black)

2018-01-23

読んでいただきありがとうございます。 この作品に限らず、僕の作品は何も言っていないようなものですが、そのようにとらえていただけたのは 望外でした。 (愛してる。)

2018-01-23

各連に一つ以上ある擬音が目に止まり、全体は歌詞のように読めました。 >転んで滑って泥だらけのゾンビ この一文には、作品をいい方に導くエッセンスがあると思う。 >自分も許せないのに誰を許せるだろう >誰もが愛されたいし愛したし >認められたいし認めたい これらの箴言くさい文は、この作品においてはその価値を減じさせるだけだと思うので、 効果的ではないように思えます。 (星探し)

2018-01-14

読んでいただきありがとうございます。 ロ三 さん リル・ピープという人を初めて知りました。彼の略歴を見て、ヒップホップが一番苦手とするらしいテーマ 「内省」ってやつを、カニエ・ウエストが切り開き、彼のような人がごく自然にこなし、ごく自然に世間に 受け入れられていく時代になったんだろうな、と思いました。孤独や矛盾に耐えかねてオーバードーズで死 ぬってロックの専売特許じゃないんだなあ、とも。 奇偶さん ご指摘の箇所は読点で区切られていますが息の長い文章になっているので、それが読みずらさに 繋がっているかもしれません。フロウとかイルとかドープとか、実感としてよく分かりませんが、 感じていただいた疾走感がこの作品なりのフロウであったら幸いです。 (Defeat)

2018-01-04

こんにちは。 婉曲な人、というのは死者のイメージかな。同時に話者自身を指しているようにも思えます。 先生というのは主治医でしょうか。灯りの絶えない向かいの部屋はナースセンターで、一日の 終わりが延々と先延ばしされ、その裡に今夜も新たな死が生まれる。そのように考えると色々 腑に落ちました。 「光」がもつ物理法則に話者が語るべきことを担わせようとする時、自然に宇宙的なイメージ、あるいは 人の住む街の構成要素となる建物→部屋の灯り、等々が浮かんでくる。この辺り、壮大さと卑近さの対比 により、話者の視点をズームイン・アウトさせて、最終連に至る道筋を不明瞭なものにしようとしている ように感じます。 光→光速、宇宙の果て、電灯→人の営み(宇宙と真反対・地を這うような日々の生活) 赤く見えたり→遠ざかるもの・赤方偏移 青く見えたり→近づくもの・青方偏移 黒→無明状態・話者の内心を仮託されている? それぞれについて、話者が象徴することを期待するものがあるのは察せられますが、それが割合、 読者が考えるイメージと近接しているのかも?加えて詩句が研がれていないので、「破滅はいつ だって/純粋なまでに黒色をしている」という一文が陳腐に見えてしまう。そのような悪循環が 作品の価値を減じているように思えます。 (ひと)

2018-01-01

読んでいただきありがとうございました。挙げられた箇所は推敲の結果、書き足された部分でした。 (Defeat)

2018-01-01