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bananamwllow


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花緒さん こんばんは。 なるほど。事情がおありだったのですね。 その諸事情、可能な範囲でお聞かせ願いたく思います。 tetsuakifuzimoto@hotmail.com 上記宛にメールいただければ幸いです。 八月の選考等でお忙しいかと思います。 こちらはまったく急ぎではありませんので、お手隙の折りにメールにてお聞かせください。 よろしくお願いいたします。 なお、コメント付けと作品の評価の件に関してややミスリーディングな書き振りをいたしました。ひらにご容赦を。 (mapping)

2017-09-14

shizuku000さん こんにちは。 「ウタウ」 「しばらく麻痺」 「一人称多数」 「未来光年」 ここに投稿された詩行のタイトルが、まずもって正しくJ-popに対抗出来ている、というのが最初の感想です。 詩行自体は、詩篇ごとにバラツキを感じ、やや像が掴みにくいのですが、この「一人称多数」はわりかし、像が結びやすいという点で面白く拝読しました。 改行ごとに一行空けてありますが、その空白を削って書いてみてはどうでしょうか?と無責任な提案をしてみたくなります。これまでとまた異なった「行分け」への感覚を獲得すれば、より面白いものをものされるように思いました。 (一人称多数)

2017-09-14

水星さん こんにちは、はじめまして。 これは傑作の部類に入る詩行だと感じました。 たとえば、声を用いた音楽においては、リズムや韻以外にフロウというものが極めて重要な要素となり得ると考えます。 あ、完全にラップを想定して話しています。 で、この詩行は書き手がその統覚の中で明らかに「行分け」を選択的に用いている。 書かれた文字のつらなりである詩行において、ラップで言うところの「フロウ」を構成するのはどういうことか、最近そのようなことを考えてばかりなのですが、ふつうに考えるとまずパンチラインを作らないことが大きな要素であると思っており、そのうえで、改行によって「リズム」でなく「フロウ」で勝負することの可能性、そのようなことを考えさせられました。 三連が特に出色だと思います。 「八分音符、いいえ、血痕でした」 この詩句のみをもってしても傑作だ、傑作だ、とひとり呟きたくなります。 (変調)

2017-09-14

二個優さん はじめまして、こんにちは。 面白い、明らかに面白いと思って拝読いたしました。 この面白みは何なのか、即座に言い当てるのは難しいですが、たとえば二連の締めである、 「とても自販機が温かいものでございましょう!」 への接続はなまなかに真似できるものではないと思われます。 (ケーブルサラダ・フレーズドレッシング)

2017-09-14

エイクピアさん こんにちは。 まったくもって完璧なスタイルを持った詩文だと思います。 ただ、このスタイルで量産された果ての姿をみたいと思わされるもします。 「又医者に」というタイトルからして、「又」という漢字のあて方が、まったくもってキザでもなく文学臭をも放っていないところなど、明らかに稀有な書き手だと感じています。 (又医者に)

2017-09-14

前田ふむふむさん こんにちは。 非常に良いと思いました。 「良い」という価値言明を詩文に対して、どのように使用するかは難しい問題を孕むかとは思いますが、「傑作」や「快作」といったことばを私はこの詩文に対して使いづらく、ただただ「良い詩」であると申したく思います。 後日、もう少し述べさせてください。 (透明な統計表)

2017-09-14

この詩文の評価に関することで、一言だけ。 この詩文の書き手は、コメント返しをしておらず、また掲示板の他の詩文へのコメントもされてはおりません。 しかし、そのことと七月の月間選評で言及されるかどうかがイレレヴァントであるなら、まったく月評にて言及されていなかったことに驚きました。 私は、七月にこの掲示板に投稿されたもののなかで、群を抜いていたと考えていたので。 ここに書くに相応しくない内容でしたら、申し訳ないです。 フォーラムにて、提起しても良かったとは思いますが、より多くの人の評価をうかがってみたく、ここでのコメントにてアゲさせてくださいませ。 (mapping)

2017-09-14

御三方、コメントありがとうございます。 レス返しが、大変遅くなりました。 花緒さん こんにちは。 このテクスト自体は、以前やっていたブログに連載小説を書いてみようとして一回こっきりで投げ出していたものです。 あれから、8年以上経って、そろそろ続きでも書こうかと思っているところです。 2008年の群像新人賞にて、諏訪哲史の『アサッテの人』ともう一つ佳作の方の『ぐぐぐな街、だだだな俺』(だったか…タイトル失念)が異様に刺激的で、この『溝口ノート』は、前者の形式をまるっとパクっております。 ただ、指摘していただいたように、「絶対に間違えないでください」という命題を主軸に置いたことはこの小説のオリジナリティではないかと今になって思います。 お読みいただきありがとうございました。 田中修子さん こんにちは。 続き、がんばっていずれ書きます。ありがとうございます。 まりもさん こんにちは。 いつも丁寧に読んでいただきありがとうございます。 一点だけ。 語り手も溝口さんもジェンダーは女性のつもりで書いていたので、語り手が「男性」と解されていたことに驚きました。 自分の中での設定でしたので、アレな感じですが… 今後どう展開させるか、今のところアイデアゼロですが、やはりいずれ着手したく思います。 ありがとうございました。 (溝口ノート(一))

2017-09-14

まりもさん こんにちは。 丁寧な読みを示していただきありがとうございます。 これはかなり以前、2010年ころに書いたものです。 黒田喜夫のテクスト群に対しては、まだまだ書きたいこと、書くべきと思われることが残っており、続編も書くつもりです。 この批評自体は、悪くはないと私は今でも思っています。 ただし! アンティゴネ―のくだりを含め、≪補.≫はかなり無理があったかと読み直して考えています。 今後、黒田について書くならば、「詩的虚構」の問題、あるいはファザーフッド、マミーフッド、ブラザーフッドと旧左翼の問題等、突っ込んでいこうと思っています。「あんにゃ」の問題、被差別部落の問題は、ずっと後回しでよい、少なくとも、そこに関してばかり着目していてはみえてこない黒田喜夫の「可能性の中心」に迫っていきたいと考えています。 それはとりもなおさず、なぜいま黒田について書くのか、という視点が必要だということでしょう。 そこに、無自覚なまま、昨今の黒田リバイバルのような風潮に乗っかることは避けたいと考えています。 もちろん、共和国のような志の高いと思われる出版社が、黒田のテクストをまとめている仕事にはリスペクトを持ちつつ。 コメント、ありがとうございました。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-08-02

田中修子さん こんにちは、はじめまして。 読んでくださりありがとうございます。 (死者の眼は優しさを帯びない―黒田喜夫の初期作品について)

2017-08-02

澤あづささん こんにちは。 コメント返し、たいへん遅くなりました。 いくつか、もし、私自身がこの詩行をヒヒョーするなら、という観点でリンク先を示してみたいと思います。 「パーシャル・アンタゴニスティックな機序に」 http://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/all/series/drug/update/200606/500878.html 「すこぶるラッキーマンの様相を」 https://www.youtube.com/watch?v=NBsib89HVdY https://www.youtube.com/watch?v=01TOcbxurGo 「≪共産主義的人間≫の、」 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%81%94%E5%A4%AB#.E8.91.97.E4.BD.9C 「≪悲しい色≫に」 https://www.youtube.com/watch?v=xQeEOoKhIqg さしあたって、こんな感じでしょうか。 概して、澤さんの「読み」が示されていて、非常に興味深く拝見しました。 以下は、蛇足ですが、詩作品の批評というものは、ほんとうに難しいと思います。 テクスト分析、というものが、どこまで機能し得るのか、という点で。 私自身は、『詩の構造としての覚え書』を15年前、必死に読んでいました。大学図書館にて、ひたすら書き写していたのは、先人の詩行よりも、むしろこの入沢康夫の「詩作品入門書(イニシアシオン)」であったわけです。 その後、この書物での入沢のテーゼ「詩は表現ではない」に対して、北川透が猛烈に反発し、『像の不安』という書物が書かれるわけですよね。 この論争自体は、70年代後半の話です。 しかし、この問題圏から詩の批評、あるいは、詩を読む行為が自由になっているとは私はまるで考えられない。 近年では、『トルタの国語 冒険の書』にて、故・安川奈緒が「感傷的筋肉、詩的虚構について」というエッセイを寄せています。 そこでは、入沢ー北川の問題系を、ジェラール・ジュネットやドミニク・コンプの議論を参照しながら、「抒情主体」の在り処について分析がなされています。 「抒情主体」の問題系は、私自身の関心、という領域をはみ出ていると思います。なぜなら、詩の歴史はある時期、それも何千年単位以前の時期から、どうしても「抒情」というものと切れない関係を結んでしまったからです。 INTERNATIONAL HIT MAN BLUESは、2016年初頭に作りました。 私の過去作(2008~2011くらいまでの)との比較を行うと、あきらかに「詩的技術」の側面では、ゆるくなっていると写るかと思われます。しかし、私自身は当然、近年のもののほうが気に入っている。あるいは、詩学への意識が反映されていなかった以前の作品群はすべて「抒情小曲集」程度にしかとらえられずにいるのが正直なところです。 それらの他人、他者からの評価とはイレレヴァントに。 以上です。 素敵なヒヒョー、ほんとうにありがとうございます! (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-08-02

たいへんコメント返しおそくなりました。 順次、コメントを受けてのリアクションをしていきたく思います。 花緒さん 「大きな物語」という観点ですが、やはり私自身は書き手としては、そういう言説と切れたところで詩について考え書いているので、うまく返答できるか、心もとないです。 「大きな物語」ときいてひとまず思い出す書物としては、まず『物語の哲学』(野家啓一)です。 文学、あるいは表現一般で「大きな物語」という言説にそれなりに加担しているものとして、宇野常寛の一連の仕事があると思います。ただ、宇野氏の著作に関しては、『ゼロ年代の想像力』を読み、読み物としての面白さ以上のものはないと考えたので、以後フォローしていない状態です。 一篇の詩行、あるいは漫画や映画や小説やアニメや音楽やなんでもいいですが、それらを評するときに、「大きな物語」というタームやその含意、文脈を用いるには相当注意深くなる必要があるように思われます。 そして、私自身は、詩や詩学といったものと、あるいは詩論といったものと、「大きな物語」はなんら内在的には切り結ばないという考えであり、これ以上言及することがないのですが、ともかくも、花緒さんのコメントによって改めてそのことを確認することができました。 ありがとうございました。 (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-25

お三方へ 取り急ぎのコメント返しです。 後日、もう少し述べさせてください。 いずれにしろ、どれも貴重な感想でありがとうございました! (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-09

まりもさん はじまして、こんにちは。 コメントありがとうございます。 語り手が、往事を経ているという指摘、参考になりました。 ありがとうございます。 花緒さん こんにちは、はじまして。 コメントありがとうございます。 「大きな物語」とこの詩行が関連しているとは書き手としてはまったく想像していませんでした。 なかたつさん こんにちは、はじまして。 異様に妥当な読みを示していただきありがとうございます。 ただ、書き手として、《あなた》が語り手の身体にのみ限定されて読まれるとすれば、力不足だったと感じます。 フェアな読み、感謝しつつ以後精進いたします。 (INTERNATIONAL HIT MAN BLUES)

2017-07-09

5or6さん こんにちは、はじまして。 うーむ。語り手がなぜそのような位置に立っているのかが私には分かりませんでした。 この詩行の良い読み手にはなり得ないのでひとことだけ。 「東京サイファーに参加したい」 すれば良いと思う。 こんなとこで、詩を載せている暇があれば、毎日ノートにリリックを書き溜めて、そこからサイファーという即興の遊戯に跳ぶのがいかに難しいか、この語り手は知ったほうが良いと思う。 私は、地元の人たちがサイファーをしているのを見かけると、いつも遠巻きにみて勉強しています。 そして、私には出来ないということも分かるので、詩など書くしかないといつも思っています。 後半、私語りですみません。 (ポエケットは明日両国でやるってよ。と書いたが、なんにも響かなかった。)

2017-07-09

なみたまさん こんにちは。 四行目の「いきものだったのでしょうか」に句点、少なくとも読点が付されていないことが 極めて均衡を欠いた不穏さをもたらしていると思います。 その一点だけでも、素晴らしい「発見」の詩行だと感じました。 詩行は、「人間」という生きものが書いている以上、「生きものの記録」という側面をはらまざるを得ないと私は考えます。 同時に、書かれた詩行はテクストとしてのみ残存するという意味で、「いずれは朽ちるナマモノである」とも考えいます。 しかし、このようにネットの空間で生き延びるテクスト群は、「朽ちるナマモノ」である権利すら失われているのかもしれない。 そのような一般論を述べたい気持ちを正直、誘発されました。 しかし、上記の感想はこの詩行の強度にとても対抗できません。 まぎれもなく、新しく、同時に朽ちづらい一篇だと思います。 (mapping)

2017-07-06