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辛さ
とても気分の悪いこと。 同じ人間でないならどうやって 馬鹿にもしてない それでもそう思えることが 自分の抵抗と生きてきた道 後でも先でも言葉の爪がある 苦しんで行く、堪えて行く 何も求めないから 全然違うことを、教えたい。 何も見ずにへしゃげてわらう、そんな日々の積み重ねで 勝てるわけがないと ずっと気付いてる。 (盗むな、取るな。)
辛さ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 882.9
お気に入り数: 0
投票数 : 1
作成日時 2022-08-14
コメント日時 2022-08-17
ご推薦を賜りまして、ありがとうございます。復、些かならず驚いてもおります。 と、申しますのも、私は私自身の表現が、一時でさえ模倣を超越いたしました作品、つまりオリジナルであると確信いたしました事がございませんものですから。 誰かの贋作、オマージュやパロディの集積が自身であり、その表現であり。 それらは私自身の同一性の問題とその根底を等しく致しつつも、個の一貫性をついぞ具有すること無く、分解した自我‐意識の所産であると、苦々しくも意識せざるを得ないのです。 斯様な問題意識を推察なされまして、 (盗むな、取るな。) という御言葉を頂きましたのでしょうか、等と考えて居りました次第でございます。
1感想ありがとうございます。この鷹枕可様の詩が重いという意味で読めなくて、大変感銘しているのですが、こういう気持ちに沿って書いたということです。 批評といい、といっても賛否 や言葉を含めた大きなものを本当に書きたいのですが、取り上げてみた実感と前提的な肯定としてよろしくお願いします。辛口で気が綻びました。
0宛先を抜かしました。
0オリジナルとコピーが対比されますが、是非を省くと 確かに模倣によって高めていくっていうやり方のことが挙がります。模倣によって加える腹の足しにするのではなく 、どうしたいかを考える糸口です、ということをよく考えていたので思わず鷹枕可様の考えを聞けて飛び上がるほど嬉しいです。 私はオリジナルだぜと豪語することを夢に見て邁進します。 オマージュやパロディの集積が私自身なのだと、いう言い方が優しく、自分が泳いでいて良いのかさえわからない。他者の許可が無いことが他者がいないことというわけではないから このいわゆる自由の中で相手とどれだけ話せるだろう? この試みにオリジナルがあったりするのでしょう。私は柔軟さに対して鍛練をしていました。 柔軟でなくなるとは、どういうことでそうなるのか?考えるところです。 分解した自我意識は、安全な考えであるか聞きたいです。 綺麗な霧に包まれますが要は鷹枕可様の摂取した栄養であり、気にしたら止まらないところ。 そこで本文に目を戻せば、自分のほうが栄養を与えられていることを観る。 与えるということのコンプレックスが紛れもなく愛であり、何ごとも自己燃焼されたものであること。そして硬いものをあえて残しておくこと。 腹もちが良い。イワシのなる木。を、あとは、みんなで人と食べるものを食べ過ぎていないか、 漢文のほうになると打ち消すことは、相手の分の食糧を残してやるということになる。 うちに戻って、食べ過ぎなら食べ過ぎで注意して欲しい。流し込んでる人は荒いから隙が多い。心にその人にたいする不平もないのにイワシを狙うムー。 鷹枕可様の詩は広い方向に向いていて間にスピードを持って伝えられる寛容さがあります。
0折り返し、お返事を賜りありがとうございます。 身に余る程のご称讃を賜り、恐縮を致しております。 以下に於きましては、回答へと至ってはいないのではないか、と言う恐れもございますが。 何処まで自我を堅持するべきか、という問題、 何処までが模倣品であるべきか、という問題。この両者に付きまして、及ばずながら私見を陳べさせて頂きたく存じます。 自我の薄い人間、或は限り無く自己統一性を失った存在とは、現代では精神病、と看做されますでしょう。実際に、私は精神分裂病を罹患しております。 近代西洋的価値観から眺めましたなら、確固たる自己の尊厳、権利等を主張しなければ、彼等の堅牢な自分自身と謂う城塞は、脆くも略奪されて仕舞うのでしょう。 現実的には、彼等の都市建築を観察致しましたなら、それらは一目瞭然の事と、存じます。 人工性を鎧い、切削を施されました石材に拠る建築体、その集合が彼等の精神性を象徴致しております様に。 次に、オリジナルと模倣の問題に付きまして。 言わずもがな。言語の性質自体、模倣の産物でなければ共有の意味を附帯し得ない、という側面がございます。では、既成の言語秩序に一石を投じ得る、 新しい詩の個性とは何処に創造され得るのか。それは個々人の、奇抜且つ前例の無い一対の比喩関係、その積層の結果傾向にこそ顕ち上がるものであるとも、思われるのです。 詩言語の構造とは、繋がり様の無い程に掛離れた言葉同士を、同一化の技術、つまり比喩に拠って再構成を果す、行為であるとも、考えております。 凡庸の貉と成らぬ為には、微妙な差異に個別性、自己を求めず、今日の言語表現を広く俯瞰しつつ、再定義を致します洞察、審美眼が必需であり、 その実践としての作を呈示し続ける、不屈の意志こそが、言語表現の極北たる独自性、実の「現代詩、及び前衛短歌」に於いて普く試みられるべきであるとも、 沈思を致しつつ、 実践を致して居ります所存でございます。 以上、 拙き個人と致しまして、稍狂気染みた所見を述べさせて頂きました次第でございます。 最後迄ご閲覧を賜り、允にありがとうございました。
1「晩夏些事」を読んで見ました。読んだことのなかった作品だと思います。迂闊でした。独特な言葉遣いで、文極時代から読んで居たのですが、最近の作品ではこう言った調子の作品とは違う調子の作品も書いているようで、比較対象すれば興味深いのかもしれません。
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