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東横線が多摩川を渡る
東横線が多摩川を渡る ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1773.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 85
作成日時 2020-08-07
コメント日時 2020-08-13
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 12 | 12 |
前衛性 | 3 | 3 |
可読性 | 18 | 18 |
エンタメ | 20 | 20 |
技巧 | 17 | 17 |
音韻 | 5 | 5 |
構成 | 10 | 10 |
総合ポイント | 85 | 85 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 3 | 1 |
前衛性 | 0.8 | 0 |
可読性 | 4.5 | 1 |
エンタメ | 5 | 0 |
技巧 | 4.3 | 1 |
音韻 | 1.3 | 0 |
構成 | 2.5 | 0 |
総合 | 21.3 | 2.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
東横線が多摩川を渡ることそのものではなくそれを知っておりイメージできるということがそれを存在させるのだろうなと思いました。強い言葉、そして言葉にならない気持ちを感じました。
1お読み下さりありがとうございます。ありがたいコメントをいただきました。そうですね、「東横線が多摩川を渡る」ことそのものは単純な一つのセンテンスで、意味することも具体的で単純です。でも私にとっては「東横線が多摩川を渡る」ことはどこかそのままにしておけないもっと大きな意味を持った、思い入れ深いことなのです。どうしたらこういうことを表現して他者に伝えられるかを考えました。結果、「書く」というよりは「歌う」ような仕上がりになりました。しつこいほどに「東横線が多摩川を渡る」と繰り返すことになりました。それで、読まれるよりは聞いてもらえたらと願い、自分で朗読した声を動画に撮って付した次第です。聞いていただければなおうれしいです。
1音声、聞かせていただきました。ポエトリーリーディングというのでしょうか。友部正人氏主宰のものなどDVDで見たことはありますがあれも表現形態の一つだと思っています。おすすめいただいた音声についても興味を持って聞きました。率直な感想を申し上げるとこの詩は音声を必要としないほど完成され強い言葉の響きを持っていると感じます。むしろそれを邪魔と感じるほどに。それくらい強く胸を打たれました。
1ご視聴ありがとうございます。そうでしたか、音声はなくても伝えられたのですね。友部正人さんのことは知らなかったので、ウィキペディアとYouTubeによって情報と音楽に触れました。ウィキペディアにはそのDVDのことも載っていました。私の動画はとても雑で、またポエトリー・リーディングと呼べるものか自分では分かりません。ただ自作詩を自ら朗読したものではあります。初めての経験でした。本当は実際に多摩川の河川敷に行って、そこで動画を作りたかったのですが……。詩という表現は広々としたものですね。
1友部正人さん。ご覧いただきありがとうございます。私の大好きな歌手であり、表現者です。様々な表現がありますが、どれも言葉としてチカラがあるかどうかが鍵になると思います。何よりもまず動画や朗読の拙巧ではなく文字としての力に心を強く打たれました。凄い詩だと思います。一種の落とし文だとご笑納ください。
1多摩川の河川敷で動画を撮ることだけはやめたほうがいいのではないでしょうか。そんなにつまらないことはないでしょう。満天の星空の写真に「星がきらきら光っている」という言葉を添えるようなものです。それはともかくこの詩はお上手だなあと思いました。
1お読み下さりありがとうございます。ご指摘を受け、自分が多摩川の河川敷で動画を撮りながらこの詩を朗読している姿を想像し直してみました。本当につまらないことですね。詩が内包している、そして同時に放出しているものを小さく限定してしまいます。私は鉄道ファンであるがゆえにこの詩を書いたのではなく、「東横線が多摩川を渡る」という言葉に、端的な意味以上の効果、情感、劇をこめたのですから、もし直接的に、東横線が多摩川を渡る映像にのせてこの詩を読みあげたなら、そういうものを読者が受け取ることができなくなると確実に思われます。安易に「コラボレーション」ということを考えてしまっていたようです。それをするならば、真に表現したかったこと(効果、印象、情感、物語など)を捕捉しなければなりませんね。基本が抜け落ちていました。賢明なご指摘をありがたく思います。
0これほどまでにシンプルなのに、引き込まれる作品でありました。まるで、ゴトゴトと走る列車に自分も乗せられているように、安定感のあるリズムのなかに吸い込まれて。
1お読み下さりありがとうございます。私はこれを「書いた」のですが、「歌った」と言った方がよりぴったりします。私にしては久しぶりの「制作感覚」でした。指先から言葉が流れ出ました。書き切るまで時間はかかりませんでした。直しを入れる必要も感じませんでした。今にして読み返してみれば、どの行も難しいことは書いておらず、平凡な表現ばかりです。シンプルです。このことは良いことなのか、自分では危惧されることなのですが、かと言って今もどこを直せば良いか分かりません。たぶんこれはこれで良いのでしょう。このまま読まれ、中にこの拙作に引き込まれた方がいらっしゃったことはうれしい限りです。
1人為と、無機的なもの? 例えば爆弾。東横線、の中にいるもの(人が有機物であるとして) それでもやはり希望を感じるのです。 朗読の声からも。
1東横線が多摩川を渡る、と言う日常の光景が不変であるかのように、ただそれだけの風景が美しいひかりが走り抜けたかのように思えました。永遠、爆弾、地球が軸を失っても、という強い言葉にも負けていない響きが東横線が多摩川を渡る、という言葉に宿っていますね。写真を撮ったことや、乗ったことなど主体の体験を書くことで、読み手に訴えるものがあります。朴訥とした飾らない空気が良かったです。細部の言葉の使い方、なんという、の繰り返しは端的にまとめてもいいかと思いましたが些細なものです。耳で聴くとリーディングにはあっている気がしますね。
1私は昔、東横線沿線の横浜に住んでいました。恋人は、東横線沿線の東京に住んでいました。大学も東京にありました。東横線に乗って多摩川を渡った回数は数え切れず、毎日のことだったと言って過言ではありません。 この詩にはこんな具体的なことは書かずに、表層的感覚だけを書きました。 録音に際しては、手をげんこつにして振りながら朗読しました。 今でも胸を焦がす青春にまつわる私の熱い思いが、効果として伝わることを願ったのがこの詩であるわけです。
1お読み下さりありがとうございます。 この詩にこめた思いの具体はryinxさんにあてて書いた返信の通りです。 「不変」、このことを感じ取っていただけてうれしいです。 私としては、「東横線が多摩川を渡る」というフレーズをこんなにも繰り返していいものか、いまだ自分の中で問うているのですが、他にどうしようもなかったというのが本当のところです。ラップにはこういうのがありますね。詩でそれをやるのは詩の独立性を破っているとも言えます。詩にしかできないことを追求したいとは思っているのですが……。
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