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糞便
洗っている 洗い流している こびりついた糞を延々と洗っている それは善い物だと思っていた自分自身から出てきた でも出てきたのは糞だ こびりつき なかなか落ちない 清い物から清い物が出る訳でもない 清いという想いがあっただけだった 自分自身から業病のような物体が出た 取り入れた物は自分自身に成りもせず 方々を汚し 流される 泡沫と共に なのに今日もまた 自分になる事のない物を喰う 死体のように冷え固まり 記憶にも残らず 糞は流れ落ちる 地底の下水を巡り 地獄の底に落ちていく 奈落へ落とすために今一心に洗い続ける ただ 輪廻し 草木を萌え出させる そこから生えた 自分自身にならない物を喰ってしまう 別れ また出会う 汚く臭うその姿を 今洗ったとしても 糞よ 実は友か
糞便 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1541.7
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 8
作成日時 2020-08-05
コメント日時 2020-08-14
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 1 | 1 |
構成 | 2 | 2 |
総合ポイント | 8 | 8 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 1 | 1 |
音韻 | 1 | 1 |
構成 | 2 | 2 |
総合 | 8 | 8 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
実(じつ)のある言葉に出会えました。 排泄物って、からだの内側にあるときは 汚くも臭くもないから 秘めていても 恥ずかしくも なんともないんですが、ひとたび 外に出ると「クッソー」ですね。 便の詩といえば、他には 濱口國雄の「便所掃除」や 一時期に流行った「便所の神様」が ありますが、あれと この詩の違うのは、ご自身のモノとして 実直にむきあっておられる点だなあと、なにかこう ……心うたれました。 ごまかしが、ない。 心意気が、いただけた気がします。 ありがとうございます。
0最後の一文で救われました。人間の体細胞は3年で全て入れ替わると聞いたことがあります。ということは3年間同じものを食べた2人は同じもので体ができているということになるのかななどと思いました。清い、汚いは概念というか「決め」ですよね。自分の中でそうだと決めるもの。そんなことを読みながら思わせていただきました。
0七年ほどし尿処理業者の次くらいに糞便を見ていた元牧場従業員です。 なもんで糞便に対する嫌悪感が薄れてしまいました。 自分が持っていたバックに糞便がついた夢をみたのですが、その時に「自分が出したもの嫌悪するってなんだ」と思ったのが、この作品を書いたきっかけです。 考えてみれば仏教で説く業のように巡るなと。 心をうたれたとは予想外です。 こちらこそ、感謝です。
0そういえば、体細胞も骨も一定の期間でそっくり変わるという話がありましたね。 動物によっては糞便に対してほとんど抵抗感を持っていないように思うことがあります。 牛とかはたまにべっとり体につけて、明らかに平然としていたりしますし。 汚いとは、妄想の一面はあるかなと。 そうすると、さらに実は友と言えるのかもしれません。
1今日は。パソコンが苦手でやっとコメントの読み方がわかるようになりました。「心は理屈じゃない」に返詩有り難うございました。大変おもしろく読ませていただきました。一味おいしい詩に昇格したような気分です。 「糞便」、目の覚めるようなタイトルを選択した心意気にまず感心しました。最後の一行でしっかり仕上げている。友、正に友です。またコメントさせていただきます。御挨拶が遅れて申し訳ありません。これからもよろしく。
0考えてみれば延々と一日で最大5時間も糞で汚れた牛の尻尾を洗いまくっていたのも、この作品を書くきっかけでした。 あれらは思えば、友なのでしょう。 楽しんでいただけたら幸いです。
0とっても深い作品だと思います。 糞便が土を肥やし、植物や動物を育て、それを私たちが食べる。命の循環を糞便の掃除をしながら感じる。実体験を伴っているので説得力があります。 最後の一文がやはり素敵です。この文があるだけで内容がガラッと変わるように感じます。
0大量の糞を出す牛のお陰でまた詩が書けました。 最後の一文は何気なく出たものですが、やはりあった方がいいいですね。これは。
0「古賀忠昭」 寒月 潟ん村口説 おいがxxん思い出はナンマイダブの声ばかり ナンマイダブ潟くうかナンマイダブ糞くうか <序の口説> ナンマイダブ ナンマイダブ 殺さんとでけんニンゲンのようけおると 仏壇の奥に手ば突っ込んで 親の親の親ちいうふうに 親の親の親まっでんハラワタんごつひき出して 死ね! のどぶえにカマうちこんで ああ 血の流れよる 汚なか血のふき出よる 殺さんとでけんニンゲンのようけおると 自分の血まで憎うなって まっ赤にそまった仏壇の前に 自分のこん体ば投げすてて 死ね! 親の親の親ののどぶえにカマばうちこんだごつ 自分ののどぶえにカマうちこんで ああ 血の流れよる おいの汚なか血のふき出よる くさか 汚なか ほいとんごたる ほいとは糞までくわんバイ 潟ん村干拓民の腹たちわると 城内ダンナさんの糞ばかり 殺さんとでけんニンゲンのようけおると こののどぶえにカマうち込んで 血の最後ん一滴まで流してん うらみがましく生きかえり 殺さんとでけんニンゲンがようけおる 殺さんとでけんニンゲンがようけおる ナンマイダブのごつくりかえし 糞くうセッチン虫のごつ生くるばっかり ナンマイダブ ナンマイダブ ナンマイダブのうらみ唄 *リンク http://bungoku.jp/ebbs/20170323_610_9509p 寒月さんという方の作品ですが、こちらもまた語り口や主題等々、渾然とした強い印象がありますね。ことばと身、地、血に糞と念仏とが分別なくといったところでしょうか。タイトルからおそらく故古賀忠昭さんという詩人と作品からなにか影響を受けられたのだと思います。 一点。業病のようなとありますが、気になりました。最近世間を騒がせたとある方のことばでしたから。
0寒月さんも故古賀忠昭さんも存じなかったです。 怒りに残虐性に諦観が混ざったこの詩は衝撃的ですね。 本来、南無阿弥陀仏はうらみ唄とは全く別の方向性のものだと思いますが、こうならざるえなかったのでしょうか。 業病について、最近騒がせた方のこともうかつにも全く知りませんでした。 業病のよう、と言いつつ最後は、実は友か、となっているので嫌うべきでもないという意味合いですし。 とはいえ、少々うかつだったかもしれません。
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