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どうでもいい沢尻エリカと寺山修司記念館までの旅路
旅の終わりは土門拳のようでいいよと伸ばした両腕と押しつけたカメラの向こう 真顔を撮れと口笛をふく どうでもいいと くちびるが 終わりを選ぶ マリファナを吸ってしまえば素直にれ 答えの打ち明けが どうでもよくない沢尻エリカと似て そんなもの ゆるむ陽の滲み すべての死は還り これ以上の道 越えられぬ河をみとどけ みとどけようか ぼくが寺山に逢えたなら 生き還りの途中で 君に乞おう
どうでもいい沢尻エリカと寺山修司記念館までの旅路 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 2273.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 21
作成日時 2019-12-05
コメント日時 2019-12-07
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
---|---|---|
叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 3 | 3 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 11 | 11 |
技巧 | 2 | 2 |
音韻 | 3 | 3 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 21 | 21 |
平均値 | 中央値 | |
---|---|---|
叙情性 | 0.5 | 0.5 |
前衛性 | 0.8 | 0.5 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 2.8 | 1 |
技巧 | 0.5 | 0 |
音韻 | 0.8 | 0.5 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 5.3 | 4.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
素直にれ✖️ 素直に○
0感想ありがとうございます。なかなか鋭くてグッと久しぶりになりました。
0たくさんの想像の余地を残している文だと思います。特に第一連は、映像がたっぷりの余地を残し、 タバコを吸うようにリラックスした時間を持って、鑑賞できました。 沢尻エリカのことは、よくわかりませんが、マリファナのことは、次のことを語る前の、緩衝材(クッション) のような働きなのかな、と思いました。 第三連で、そんなもの、と述べられており、マリファナのことを、それほど大した意味がないということを、 言っているようであり、マリファナのような依存性を、意味ないものと、捨てるような、意味の到来を、 思いました。 >すべての死は還り 死についての言及があり、死生観を書いていると思いますが、それは、土門拳や寺山修司という偉人が、 亡くなった後に残っているものであるという点を考えさせられ、旅の感傷について、何らかの価値を、 見出したということが、述べられているのだと思います。善悪というのは、生死と並んで、またあると 思うのですが、善悪というのは、生きているからこそ生まれるのであり、生死を、生の側から、死の側からの両方から問うことの、切実さというものが、あるということに気づかされます。善悪は、共同体的なものであり、 それについて悩まなければおかしい。生死は、個人的なものであり、それについて考えるのは、 肉体的なことだと思います。 だから、体験としての旅ののち、生き還るということを思うことが、霊や被写体のイメージなどを、 考えるということと等しくて、思想と肉体の、混沌の中で、何かを産もうとしているという意味を、 僕は、取ることができました。
0ビーレビに今後一切関わらないと宣言した限り矛盾ではありますが、まぁみうらさんと言うことで感想を述べさせていただく。まず、土門拳、沢尻エリカ、寺山修司を風俗として作品に昇華できてるかといえばそれは上手くいってない。土門拳に対する理解が不足しているのか問い詰めて考察してないのかそのあたりが不明だが、これでは著名人を列挙して「」詩のような形」として擬似的な偽物の詩を書いているに過ぎない。この詩は非常に息の短い短い詩であるが、そこにこそ真実あるとすればどれほどのスパンで自分の詩が消化されていくのかその辺りどれほど計算されているのか不明瞭だ。沢尻エリカを詩に取り入れる。それは数ヶ月後には単なる風俗として誰もが忘却している社会現象である。その風俗の取り入れ方に意識的であるのかどうなのか?さらにこれほどの短詩で有れば当然暗喩を駆使して言葉の想像力の地平を広げなければならないわけだが、そうではなくみうらは散文的に詩を書いてしまってる。それならば普遍性を帯びないどころか一瞬の風俗として消化される。そこが課題である。
0追加。大江健三郎はかつて息の短い小説にこそ真実が宿るのではないか?という時代的な問題に突き当たり、そこで彼は息の長い、つまり古典として時代を超えて生き延びる小説を書くことを選択した。田中康夫の『なんとなくクリスタル』は風俗でのみ成立しているが、あの賞味期限はたかだか5年である。沢尻エリカという社会現象=風俗を詩に導入するにはそれ相応の覚悟と、高度資本主義社会における「消費」という概念についてもう少し意識的であるべきだ。風俗を詩に導入する必然性を深く考察して、敢えてその消費される言葉の価値について哲学的に考察されなければならない。
0黒髪さん コメント有難う御座います。死生を想うとき、なにものかに、自然に祈れたらいいと思うのです。その対象となるほどの覚悟を示した詩を書きたいと考えます。それ以外はろくでもないことでいいのかもしれません。でも、ろくでもないなかにしか生はないので、残念になります。
0沙一さん コメント有難う御座います。現実の世界を忘れて簡単に夢想できるようになってしまったら、有名人が神ではなくなりました。でも、私にとって特別な人を言葉として表すことは困難で、最初から誰にもわかってたまるかよってなります。孤独を学識の向こう側に会得するよりも、独り善がりな孤立を私は好み、そしてまた残念な気持ちになりながらも、安堵します。
0ボルカさん コメント有難う御座います。 とても昔に抱いていた隔絶感は、その他者にあるのではなくて、私は何もわかっていないんだという、自分の愚かさに帰結します。それはどうでもいいと言い切ってしまわなければ生きれなかった強がりであり、今もまだあります。それをもっと詩にしなければならないし、そうでなければ私は死ねないのかもしれません。
0アリハラさん 貴重なコメント有難う御座います。本作に欠落しているのは人前に晒して恥じない覚悟でしょう。しかしながら、覚悟が足りなかったと反省する気はさらさらありません。当たり前ですが、なぜならばそれは、覚悟があったかどうかなど、死ななければわからない。作品には優劣しかなく相対のなかに消費される。でも、私は私にしかわからない私の絶対があって、その吐いた言葉は、誰人にもそれを詫びる必要はなく、永久に絶対の言語として私の中にあり続けます。
0うーん、前半と後半にそれぞれ良さはあるのですが、「なぜ合体させてしまったのか」というのが先に来ます。いちおう全体を通じてある種の生に対するあかるい虚しさのような響きはあって、それを茶化したような(それでいて目は笑っていない)語り口で呟いたあとにすこし真面目なことを言うような、ある意味みうらさんらしいクレバーなふるまいはあって、そこは純粋にキャラクター込みとして武器ではあると思います。ただ、著しく統一感を欠いているのがまず勿体ないなと感じました。 すでにアリハラさん等のレッサーが指摘してはおりますが、個人的に沢尻エリカを素材にすることじたいは有りというかむしろそういうことしてくるほうが好きなのですが、それがクリティカルにキマるというのでもなく土門拳により相殺されたあげく“生のあかるい虚しさ”の単色に帰ってゆくのが「もうちょっと攻めて欲しい」となりました。破天荒キャラであるならばいっそ核燃料棒でストラトキャスターを弾くようなジミー・ペイジをやってもいいと思います。 後半は詩文の音楽性がよく、また「死に還り」と「生き還り」を「越えられぬ河」を挟んで照応させたり「みとどけ/みとどけようか」のためらいの話法などで巧く構造と叙情を生成していて一定の完成度を持っていると思います。また、おそらくみうらさんは「そんなものつまんね」とも思っていて、それもまた大正解だと感じます。書けるうえでその先に何を産み出すのかに挑むのが、たぶん詩人の本番なんだと思いました。
0たいへん申し訳ありません。 ×核燃料棒でストラトキャスターを弾くようなジミー・ペイジ ○核燃料棒でテレキャスターを弾くようなジミー・ペイジ でした。謹んで訂正致します。
0なゆた創さん コメント有難う御座います。なにかしらの反抗があるとしたら何も成せなかったことの無意味さへのもので、もはや手におえない、わらってしまうようなものです。それでも、それでもと執着する。詩人の本番がそのような肉体から遠いところであれば、私はまだそれを書きたい気持ちになるかもしれません。
0みうらさん。だったら詩を発表するなよ。一人でノートにでも書いて自己満足でもしとけばいい。わたしには分からない絶対の言語?それなら他者と共有できるはずがないので論理矛盾では?
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