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エッセイ飛ぶ
エッセイが終わるとき、格言になったり、ほっぽられたり、なにか、待っている のを置いておいてたけちゃんが世界旅行に発ちました。ほんとまじ三週間ひとりぼっち かのよう。 つまりわたしたちは愛者(あいもの)ってなんやねん。 現代交響曲を聴きに、友達と渋谷に行きました。その友達は、アプリで知り合った子がひとり、ツイッターで知り合った子がひとり、友達の友達がひとり。なんとなく、たちふるまうときに、女詩的マウンティングも思い出す。でも、ぼくたちはゆるやかな性とそれだけじゃないつながりがある。って大学の友達に言うと、理解してもらえちゃう。だから社会はもう敵にならなかった。どこかの遠い創作のままでいてくれる、(丁度エッセイのよう)一粒、一粒に、それでも感情をゆっくりと、両手で上に捧げると、消えていくのをぼんやり見た。 お客さんが今みんな上を見ている。 チェロが群衆の静寂のベッドに横たわると、目覚まし時計か鳴った。オーボエが慌てて手を伸ばすのだけど! 大阪にああいうのいた。バストロを演っていた十八歳差の元彼をiCloudの最奥にしまって、ぼくたちは若返りを始める。十台のバイオリンと十台のヴィオラの二十本の左手と百本の指が完璧に揃うとき、右手はハリー・ポッターになる。そしてぼそっと唱えて、ひかりを、まばゆくなった。人が生まれる前のことを全く知らないのに、死んでからがこわい。だから、定期的に、死にたくないな、とぼくはこれからもたけちゃんに言います。 飛行機が離れる瞬間、絶対にこれからも握らなければならない手。これはくそとてつもないくらい近過ぎて掛け替えの、その瞬間、泣くのをこれからもキスをするように続けたい。 そのエッセイは終わり、新しい息吹を脳筋に与えると、アメーバ型から少しずつ人型になっていき、そのようにしてぼくは君の前に現れました。創造神さん、ありがとうことよろ。これからも生むのは、大変かもしれないけれど、手を離れれば独り立ち。そしたら、貿易しましょうよ。 新しい人がシンガポールのようにハブ空港化して、豊かに紡がれていく姿を、ぼくたちの戸籍が養父でも、ぼくは親です。とたけちゃんにライン通話すると、アメリカの向こう側で、頷きました。みんな、ありがとう。プライム会員の大胆なステマなんだけど、雨のなか届けてくれてありがとうルーター。 成熟しきったら、ぼくもまた輸出入するほどのものを生み出せなくなるのでしょうが、他国との友好関係は、崩したくないな。離したくないな。 ぼくよ健康たれ。その脳を詰まらせるとき、何人死んでしまうの。なにが死んでしまうの。 もう一度、皿洗いをしながら、 いい曲だったから、死にたくないな、って今日はひとりつぶやくと。
エッセイ飛ぶ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1160.8
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-07-28
コメント日時 2018-08-11
項目 | 全期間(2024/11/24現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
思いついたまま、言葉を饒舌に並べているようでいて、非常に緻密に計算(というのは、合わないなあ・・・練られている?)されているようでもあり。 非常に惹かれる作品ながら、どこから、どういう切り口で「語ればいいのか」、が、わからない。わからないものは、わからないままに書くしかないのではあるが。 ライフストーリー、ライフステージが、ひとつのエッセイとして括られていく、区切りをつけられていくとして・・・「たけちゃん」を語り手の半身、分身のようにとらえるか、あるいは、語り手の養子、ととらえるか。「ゆるやかな性」の恋人どうし、ととらえるか。生み出された作品、と、あえて、拡大解釈してみると、何が見えて来るか・・・ 現代音楽を聴く(体感する)という体験と、様々なコミュニケーションの記憶を思い出す、という体感、疑似的な死を繰り返す(あるいは忘我の境地を体験する)快感と、生きねばならない、という日常の痛苦を、生きていてもいい、生きるのもまた面白い、に切り替えていく、生きるための刺激、としての快感と・・・が、うまく言語で説明できないながら、なんとなく、感覚として伝わって来る不思議。 「その瞬間、泣くのをこれからもキスをするように続けたい。」生きようとすることが哀しみでもあって、それがまた快感でもあるような感覚、を感じました。 「創造神さん、ありがとうことよろ。これからも生むのは、大変かもしれないけれど、手を離れれば独り立ち。そしたら、貿易しましょうよ。」「その脳を詰まらせるとき、何人死んでしまうの。」 脳内に生まれた一つの人格を持った誰か(小説家の頭の中で生きて動いている登場人物たち、みたいな)を想像し、その人格を持った誰か、が一つの世界、一つの国、でもある、とするならば、その国と語り手(これもまた一つの国)が貿易する、友好関係を築く、交易する、という言葉が出て来るのも、不思議はないな、と思いつつ、やっぱり、どこから出て来る言葉なんだ?と不思議が残る。 他に面白かった言葉は「女詩的マウンティング」(女詩、男詩、という仕分けのようなものが、あるのか、聞いてみたいと思いました。もちろん、ここでいう女/男は、ジェンダー的な区分であって、実際の性別とは異なります。フェミニン、マスキュリン、といった方がよいかもしれない) 「だから社会はもう敵にならなかった。どこかの遠い創作のままでいてくれる、(丁度エッセイのよう)一粒、一粒に、それでも感情をゆっくりと、両手で上に捧げると、消えていくのをぼんやり見た。」このフレーズも印象に残りました。 「人が生まれる前のことを全く知らないのに、死んでからがこわい。だから、定期的に、死にたくないな、とぼくはこれからもたけちゃんに言います。」・・・やっぱり、「たけちゃん」って、誰?が、気になる(笑)
0まりも 様 コメントをありがとうございます。 いつも一作一作言語化して噛み砕いてくださる姿勢は本当に感無量です。 そしてやはり、コメントが、特に「わからない」ことが前向きにも流れ、とても嬉しいです。 「交易」のくだりはまったくそのとおりで、 この加減でここまで充分ならば、書ききったときの僕に肩を叩いて励ましてあげたくなります。 さて、「女詩的マウンティング」という言葉はとても恣意的につくったので、この詩の中ではちょっと浮いているかもと思っていました。 ジェンダーの話は、なぜか純文学系統では男女の二極化があんまり崩されていない印象でしたので(今でも「女=神聖」みたいなテーマが前提のように謳われることを揶揄しようと思い)そうじゃないもっと剥いで剥いで芯だけになった人間関係をなんとか書こうと取り組んだら、そこには言葉がないのでこんな詩になった、みたいな経緯でございました。 なので、結局「たけちゃん」はある意味で実在の目の前の人物そのものでもあるのですが、 詰まる所、人間誰でも、「誰?」みたいな話でもあるなぁ、と思いました。
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