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on A bed
花がある。 蜜を吸う。 鳴く。 生きてこそ。 垂んとする。 死へ。 闌ける。 「目を覚まして。」 女のまなざし。 女よりも大きな女のまなざし。 この手で 君の何を温めれば 僕は君を抱きしめたと言えるだろう。 自分を見る自分。 その自分を抱きしめることすら イツノマニカ 忘れてしまっているというのに。 僕はパンツを履いた。
on A bed ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1058.5
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-07-04
コメント日時 2018-07-08
項目 | 全期間(2024/11/24現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
誤字なのかもしれないけど「垂んとする。」がなんかいいかんじ。たんとする。
0花緒さん、ありがとうございます。 この詩は男性じゃないと分かりにくいかもしれません。 行為が終わった後、こんなことを考える男もいるんだなと思っていただければ。 獣のようにセックスができる人間って本当にうらやましい。
0祝儀敷さん、ありがとうございます。 「垂んとする」は「なんなんとする」と読みます。 辞書を眺めていて見つけた言葉で、「もう少しでそうなろうとする。」という意味だそうです。 「千年になんなんとする歳月」という使い方をするそうです。 面白いと思ったのは、この言葉の音が射精前のじわじわとくるムズ痒い感じにピッタリじゃないかと思ったんです。 その上で意味とずれていない。 「なんなんとする」 かなり気に入っちゃいました。笑 これが誤字だった場合、「垂れんとする」ということになるのでしょうが、これも確かに悪くはない。 「垂れんとする。死へ。」 ダークなイメージで結構いいなと思います。 でも、それより面白いのが、祝儀敷さんが指摘してくれた「たんとする」です。 「たんとする。死へ。」 一体なんなんだ?という驚きがあります。 でも全く悪い感じがしないんです。 音だけなのかもしれないけれども、何か意味が通じているような気がします。 読んだ瞬間に思考停止せざるをえないような、でも心地いい感じがします。 そこで思ったのですが、誤字や脱字で構成され、かつ全体でアレゴリーが成り立っている詩が現代詩なら可能ではないか。 こういうのって既にあるんですかね? ないなら、やってみる価値はありそうです。 ただ、今の僕の語彙ではとても到達できそうにありません。 引き出せる言葉が少なすぎるし、言葉を正確に使おうという意志が強すぎて、そっちの方向で自由にはみ出せないんですよね…。 誰か言葉遣いに長けていて、自由に操れる人が書いてくれないかなぁ。笑
0拝読させていただきました。 なかなか興味深いことが書いてあるなと思いました。楽しんだというか、分からないのが面白いのです。えぐい言葉もなく、 難しい漢字もすごいなぁって思ったのですが、最後のパンツを履いた、は簡単すぎて良くない気がしました。山本さんの 次作も、すごく楽しみです。というのは、別の題材はどう料理するのかな、という期待をするからです。 いま、焦っている最中なので、失礼な言葉や勝手な思い込みを書いているかもしれません、ご容赦ください。
0こんばんは。 >女のまなざし。 >女よりも大きな女のまなざし。 「個人」を越えた、「存在」というくくりでの人の見方をする瞬間、なんでしょうか。存在には役割があるけど、そうなるとなんだか人と物の区別がなくなってしまうようで。 今そこにいるあなたと、あなた「個人」と繋がりたいのに、というもどかしさを感じます。 (>自分を見る自分 「その自分」は見られる側の自分のことですよね。) 最後みたいなパンツの履き方を知らないんですが、そんなことを考える男の人もいるんですね。
0黒髪さん、ありがとうございます。 失礼な言葉を使ってるなんて全然思っていませんよ。 むしろコメントいただいてありがたい限りです。 実はこの詩は1000字くらいの長い詩で、それを一か月かけて削っていったものです。 僕はあまり装飾しすぎるのが好きではなくて、なるべく核だけを残したいというタイプの人間です。 削るだけ削って、かつ道理に反していないという詩が好きですね。 そちらの方が頭の中で繰り返しやすいので、ずっと残るんですよね。 この詩の感覚って5年くらい前に最初に経験して今も感じているものなんですよ。 当時は現実に飲み込まれて、上手く言葉にできなかった。 この気持ちを何と言ったらいいのか分からなかった。 それが発酵して、やっと言葉になったって感じですね。 「そうそう、言いたかったのはこれよこれ」という言葉、それに適した形を見つけるまで、かなり時間がかかりました。 「感覚を書き写す」となるとそれなりに待たないとダメなんじゃないですかね。 「今の今」の感覚を書き写すなんて、情報が多すぎて不可能でしょう。 5年前の僕もそういう状態でした。 無駄なものが省かれて、自然にふっと湧いた感覚にどんな言葉を当てればいいのか。 それでいつも悩んでいますし、それが楽しくてしかたなくもあります。 コメント欄が面白いと思ったのは、「僕はパンツを履いた。」という一行が、花緒さんは「パンチがある」、黒髪さんは「簡単すぎてよくない」と真逆の意見があるということですね。 この二つの意見が両立してあることは、作者としては嬉しいんです。 多分、外向的か内向的かで視点が違うのだと思います。 「パンツを履く」というのは、『規則』のシンボルとして使いました。 バタイユという哲学者がいるのですが、この人はもともと真面目なカトリック信者だったのですが、売春宿に通いふけて信仰を捨ててしまうんですね。 それで幸せになったかといえばそうではなくて、自分の情けなさに悩み悶えていたそうです。 そこで生まれたのがバタイユの哲学なのですが、簡単に言えば、 「エロティシズムとは神聖を冒すこと。『死』求めた結果、快楽は生まれる。人間は快楽を得るために、絶えず『死を体験する』状況を作り出している。これを『過剰』と呼ぶ。」というものでした。 オルガズムに達するとき、なぜか「イク」という言葉を共有して使っていますよね。 これは「逝く」からきているそうで、バタイユの思想に沿うものだと思います。 この思想を元に、栗本慎一郎という人が「パンツをはいたサル」という本を書いています。 「人間は『パンツを脱ぎたい(=過剰)』からパンツを履いている。そういう性質のサルなのだ。」と言い切ったんです。 つまり、「パンツを脱ぐ快楽を求めるために、パンツを履いて我慢している」というのです。 簡単に言えば「人間は快楽物質中毒の機械だ」と言っているようなものです。 これを究極に実践してしまったのが三島由紀夫なんですね。 割腹自殺前に、「一番親近感を持っているのはバタイユ」と述べています。 僕は「金閣寺」を高校生の頃から10年かけて読んだのですが(正確には10年かけて様々な経験をしないと内容を理解できなかったというだけなんですが)、「美のために美を破壊する」というテーマはまさにバタイユ的です。 「超バタイユ」と言ってもいいかもしれません。 三島が好きだった僕は、自分の求める美が『死』に向かっていることに気づいて、危機感を募らせました。 このままいけば、美のために身を滅ぼしかねないと本気で思ったんです。 「本当にそれでいいのか。生きることを全うせずにそう言い切れるのか。」 そんなことで悶々と悩みました。 そんな葛藤を抱えた中出会ったのが萩原朔太郎で、彼は「自殺の恐ろしさ」「詩人の死ぬや悲し」という散文詩を書いています。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/395.html#ANK7 彼は友人である芥川龍之介を自殺で亡くしています。 それでも「自殺は怖い。詩人が死ぬのは悲しい。」と言う。 なんだか胸が温まりました。 「ああ、正直でいるっていいことだな」と。 話が逸れてしまいましたが、「パンツを履く」という言葉との最初の出会いは、バタイユの著書を直接読んだわけではなくて、ビートたけしの「下世話の作法」という本で少しニュアンスが違った形で出会いました。 「作法というのは金持ちの特権ではない。パンツを履いたサルが作法をはじめた。うんこをするとき、そのサルはちゃんとパンツを脱いだと思う。履く行為、脱ぐ行為が身についている。これは作法だと思う。」と。 こっちの考え方の方が僕はずっと好きです。 バタイユの思想で欠けていると思うのは、「胸が温もる」という感覚を説明していないところです。 ただ快楽を求め、そのために我慢をするだけが、人間ではないと思うのです。 しかし、セックスという場面に直面した時、理性は取っ払わなければならないのに、そう簡単に心を裸にはできない。 客観的に自分を見ている自分が、コバエのように邪魔をする。 相手を温めることも、自分を温めることもできないまま、行為が終わる。 そして『規則』に戻る。 そんな孤独をこの詩で描きました。 ただ、この詩に希望があるなら、「まずは自分に慈愛を向ける」ということではないでしょうか。 疲れた体を労わるとか、過激すぎるものは見ないとか、そうやって自分を守るということですかね。 それが死に向かうということではなく、「生に向かう」ということではないかと。 パンツの説明だけでこんなに長くなってしまいましたw 今日が土曜でよかったw 次作に期待をしていただけることはとても嬉しいことなのですが、この詩を書けたことで今は達成感を感じていて、他に何か書きたいものがあるかと言えばちょっと見つかりません。 頭で考えて書いてもいいのですが、それだとあまり楽しくないんですね。 いつになるか分かりませんが、多分書きたいものは出てくると思うので、それ待ちでお願いします。m(__)m
0社町さん、ありがとうございます。 この詩の解釈として全く間違ってないです。 「その自分」は仰る通り、見られる側の自分です。 散文的に読めば、見ている自分ということになるのですが、「自分を見る自分。」というのがワンシーンとしてイメージされることを狙いました。 そこまで理解してくれて本当に嬉しいです。 パンツの履き方は、単に自意識過剰なだけかもしれません。 社町さんと一回「恥」についてやり取りしましたよね? あの延長でいけば、パンツを履いている自分を見られるって結構恥ずかしいなと思ったんですw なんか妙に現実を見られているような気がして、困ってしまいます。 堂々と履ける男になりたいですねw
0快を「与える」喜びを得た・・・ように思ったのも束の間、結局は目の前の女・・・を通じて、もっと大きな、自然そのもの、のような大きさに包まれてしまっている・・・僕は未だに、君をしっかりと体感できていない、とらえられていない、そんな感覚なのかな、と思いました。 日常に戻るときに、パンツを履いた、という、ちょっとずっこけるようなユーモアにずらして切り替えているところが、賛否の別れるところでもあるのかなと思いました。 まぐわいを描きながら、陶酔や官能に溺れるでもなく、具体的な描写や湿潤に流れるでもなく・・・対象をとらえる、とらえられるとは何か、という、観念的な位相に踏み込んでいるのに、使っている語彙や用法は徹底的なほどに日常から離れない。そこに注目しつつ・・・イツノマニカ、このカタカナ表記の必然性が、イマヒトツ、伝わってこない。 いまカタカナを使ったのは、読みを区切って、少しだけ強調したかったから、なんですが・・・イツノマニカ、これは、硬質な音感に変容させたかったから、なのか・・・パンツ、のカタカナと呼応させるということでもないのでしょうけれど・・・読みの速度をそこだけ変えたかったからなのか、などなど。 身支度を整える、服を着る。そのあとは、立ち去ることになる。そこまで含む寂しさのようなものが、ユーモアでいったんかき混ぜられる。パンツ、という、幼児期から馴染んだ表現や、何となく可愛らしい言葉の響きがもたらす効果について、もう一度考えたいと思いました。
0ついしん 大文字のAと、小文字のbが並んでいるという字面、印象に残ります。A面B面の、A面を強調するという感覚もあり・・・アベ政権の批評なのか?とも(一瞬)思ったのですが、いかに(笑)
0まりもさん、ありがとうございます。 まりもさんにこの詩をもっと理解してもらうために是非聴いてもらいたい曲があります。 宇多田ヒカル「Distance」です。 多分、僕はこの曲にかなり影響を受けています。 この前NHKで宇多田ヒカル特集をやっていたのですが、そこで興味深いことを言っていました。 「自分はいつも転校生だった。どこかに属すという感覚がなく育ってきて、今もその必要性を感じない。私の曲はみんなに一斉に聴いてもらうというよりは、部屋で一人でイヤホンで聴いてくれるイメージしかないんです。」と。 そう語る宇多田ヒカルは少し病んでいるように見えた。 宇多田ヒカルが売れたとき、僕は小学生でしたが、今思えば15歳で「Automatic」を書けるのはやはり天才と言わざるを得ない。 ただ、それが書けたのはあまりに自分を客観視しているからだと思うんですね。 その番組を見終わったあと、思い出したのは横光利一でした。 Wikipediaより引用 横光利一は「純粋小説論」(初出『改造』1935年)の中で「四人称の発明工夫をしない限り、表現の方法はない」と主張した。それは「自意識」つまり「自分を見る自分」という人称であると説明される。 ...現代のように、一人の人間が人としての眼と、個人としての眼と、その個人を見る眼と、三様の眼を持って出現し始め、そうしてなお且つ作者としての眼さえ持った上に、しかもただ一途に頼んだ道徳や理智までが再び分解せられた今になって、何が美しきものであろうか。(中略)けれども、ここに作家の楽しみが新しく生れて来たのである。それはわれわれには、四人称の設定の自由が赦されているということだ。純粋小説はこの四人称を設定して、新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ。まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ。... 横光利一は戦前は文壇の横綱だったのですが、戦後、日本を敗戦に追い込むような思想を植え付けたとして菊池寛とともに責任を取らされました。 敗戦によって神経衰弱になり2年後に死ぬんですが、彼には彼なりの美徳があり、戦中は多くの日本人がそれを賞賛した。 とくに日本の伝統を維持するという面において、かなり純粋な面がありました。 まあこういったことはあまり関係ないのですが、注目してほしいのは『四人称』というワードです。 これをそばにいた母に説明して、「ユーミンと宇多田ヒカル」について議論を交わしたんです。 僕は「ユーミンの歌は大衆に向けて歌っているが、宇多田ヒカルは個人に向かって歌っている」と言ったんですが、母はそれを否定して「宇多田は自分に向かって歌っている」と言われて、なるほどと納得したんですね。 それでしばらく考えたんですけど、「自分を客観視することは道徳的に悪いことではないけれども、あまりに自分を客観視しすぎると、いつの間にか自分を蔑ろにしてしまうのではないか」と思ったんです。 宇多田ヒカルの曲は相手との距離を感じさせるが、同時に自分との距離も感じさせる。 これをそのまま放っておいてしまうと、いつの間にか自分を虐めてしまうことになるのではないか。 体が悲鳴を上げているのに、冷たい目線で自分をみて、無理やりに動かそうとしてしまうのではないか。 横光利一の生涯と重ねて、そんなことを思いました。 だから、「イツノマニカ」とカタカナにしたんです。 「自分自身に愛を向けるということを忘れてしまう」という無機質な忘却、それを忘れないために強調しておこうと。 難しいのは「自己愛」と「自愛」の区別がなかなか上手くいかないことですね。 「自己愛」はナルシシズムですから、他者の目線を意識しすぎるあまり、行動を制限してしまって結局自分を苦しめてしまう。 それは全く自由ではない。 病気になった人に「ご自愛ください。」と言いますが、これは健康でも常に意識しておいた方がいいと思います。 自愛とは「自分を慈しむ」ということだと思います。 ときには「自分を抱きしめる」ということも大事なのではないかと思います。 題字の「A」について質問していただけることは本当にうれしいです。 かなり悩んだところなので。 自由に捉えていただいていいのですが、作成過程を暴露すれば、A面、B面という構想はありませんでした。 同時に政治的主張は全くありません。 あまり政治を芸術に持ち込むのは好きではないので、今後もそういう詩は書かないと思います。 「A」と比較してほしかったのは「The」なんです。 「the」はみんなが指差せるという感覚があり、「a」は「一つの」という意味もありますが、具体的に何かのベッドが一つイメージとして浮かぶ感覚と英文法書に書いてありました。 「on the bed」とすると、僕が所有しているのベットということになるので、個人的体験を書くことになってしまいます。 しかし、僕のこの気持ちは決して僕だけが感じるものではないと思います。 どのベッドの上でも起こりうることだと思います。 だから、みんなと共有するなら「on A bed」がいいのではないか。 それぞれのベッドを想像してもらえればいいなと思いました。 大文字にしたのは単にそこに気づいてほしかったからです。 最後に、僕はまりもさんの詩の受け取り方が好きです。 常に慎重に解釈をしようとしている姿勢が伝わってきます。 「お星さま」にコメントしていただいたとき、本当に核心に触れていただいて嬉しかったです。 今回も僕が気を遣ったところを見事に見抜いていただいて、すごいなと思います。 鋭いご指摘、ありがとうございました。 また、よろしくおねがいします。
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