前を行く僕とそれに遅れてやって来る僕が
ラジオの周波数を合わせるように重なり合って
一つになるとき
僕は僕になる
小学生のころ
食事が終わると母の前に立たされて頭と腹をたたかれた
手でたたくと手が痛くなるからと、足で蹴られた
蹴ると足が痛くなるからと、竹かプラスチックの物差しでたたかれた
プラスチックより竹の方がピシッと撓って痛いから
母に「あれ持ってこい」と言われたら、必ずプラスチックの物差しを取ってきた
他にもいろいろやられたが
要するに
やられるたびに少しずつ僕が僕から飛び散って
もう一つの僕ができた
そのもう一つの、遅れて来る僕が
僕と一つに重なり合わずに
僕を追い越していくと
記憶がなくなるんだ
だから
もう一つの遅れて来る僕が僕を追い越すのは
怖かった
覚えていないということは
その時に何をやっていたか分からない、ということで
それが怖かった
その、遅れてやって来るもう一つの僕は、何か破壊的に凶暴なものをその中に眠らせていて、
それが目覚めると、何をやるかわからなかった
遅れてやって来る僕が僕を追い越して、記憶がぬけるたびに
なにかとんでもないことを、人殺しとかを
やってしまったのではないかと、恐ろしい思いにとらわれた
その、遅れて来る僕は
教壇に立っている教師や教室にいる同級生たちを馬鹿にしていた
わけのわからない優越感
今の僕は凶暴な何かを僕の中に眠らせている僕で
その凶暴な何かが目覚めれば、おまえら全員皆殺しだ
そう思っていた
嗚呼、そして今日も
その遅れてやって来る僕が僕を追い越していく
僕は慌てて
自分の首を絞めて死に至らしめるのに相応しいものはないか
そこいらじゅうを狂ったように探しまわるんだ
やっと気づくのは、這いずり回ってへとへとになってからだ
大丈夫、母はもう死んだんだ…糖尿病で足も心臓も朽ち果てて死んだんだ
この世界には母はいないんだ
十分にゆっくりと
僕はラジオの周波数を合わせる
そして
僕は僕になる
作品データ
コメント数 : 5
P V 数 : 330.4
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2024-11-21
コメント日時 8 時間前
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/11/23現在) |
叙情性 | 0 |
前衛性 | 0 |
可読性 | 0 |
エンタメ | 0 |
技巧 | 0 |
音韻 | 0 |
構成 | 0 |
総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:330.4
2024/11/23 16時55分10秒現在
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トラウマを本人が客観的に把握して、その断片を繋ぎ合わせて記述することは非常な困難を伴うと思う。 それでも、どうしても証言者が必要だ。頑張って証言してくれたことに感謝したいと思う。 その存在を認め、確かにそういうことがあったのだと、私は確信する。そしてそれを作品として投稿した君の勇気を賞賛します。
0子供の頃に虐待を受けると、多重人格者になりやすいと何かで読んだことがありますが、詩の投稿なので、そのまま作者の体験談と読むのは拙速過ぎるのかなと思います。 話は変わりますが、高校生の頃塾から帰って来た時に妹が「あれっ、さっき帰ってきたじゃん」とか言ってきて、ぞーっとしたことがあります。 後にも先にもそれ一回きりでしたが。 あれは何だったのでしょう。早く帰りたかったのでしょうか。
0そうなんだなと思ったので、 承認のメッセージを伝えることが、そうなんだと感じた読者のつとめのようなものと思いました。 たとえば、作者は嘘つきと言われているかも知れないから
0良すみで文学みを感じました…… 遅れてくる僕っていうのがよくて「キリトの話かな?」と一瞬思わせて、全然キリトじゃない。だから自己陶酔やナルシストじゃないから性格がかなり悪くなった私の血液脳関門を余裕で通過した……みたいな感じなんです 撓むと撓るがおなじ漢字なの私は知らなかったのでそこも学びになりました。撓むという漢字はこの掲示板で鷹枕可さんという方に教えてもらったんです。 自分についてはどんな喩を使っても全てナルシストの意味にしかならないように感じる。遅れてくる僕はなにか自分ではないものだと理解るからそれがありませんでした……
0個人の苦痛が文面からひしひしと伝わってくるようです。しかしながら、これは極めてエゴスティックな理由からですが、その苦痛の種を大切にあたためて、新しい芽を生やしてほしいとも思います。即ち、創造してほしいのです。個人の苦痛の壁を打ち砕く、文学の力でもって創造してほしいのです。勿論、個人を取り巻く環境、出来事を一度言語化することで、浄化作用ではないけれども、個人の背景を整理し、創造の糧となる素材として把握できる、というメリットもあるでしょう。私が伝えたいことは、筆者の今回の作品は、単なる記憶、あるいは現況の言語化に過ぎないのであって、勿論それも一つのスタイルとして成立するとしても、苦痛の種を大切に育て、創造することの楽しみがあっても良いのでないか、発見することの喜びがあっても良いのではないか、そのようなことです。勿論、心の準備が必要であることも分かっています。もしも、筆者の今回の作品が、純然な虚構であるとすれば、卑屈な悪意しか感じられず面白くもなんともありません。勿論、虚構ではないだろうとは思います。淡々と事実を記すような乾いた文体が、告白の現実味を担保していると私には思えるからです。
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