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求仙
断霞残雪依山転 茅宇竹籬向水連 舒柳催花堪避世 留賓沽酒此求仙 呵筆敲詩多著述 掃庭移几愛才賢 綵箋佳句毫端玉 棋声篆影紙上烟 断霞 残雪 山に依りて転じ 茅宇 竹籬 水に向ひて連なる 柳を舒し花を催し世を避くるに堪へ 賓を留め酒を沽て此に仙を求む 筆を呵して詩を敲き多く著述し 庭を掃て几を移し才賢を愛す 綵箋 佳句 毫端の玉 棋声 篆影 紙上の烟
求仙 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1047.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2018-04-30
コメント日時 2018-05-27
項目 | 全期間(2024/11/23現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
以前「田高節」の名で投稿しましたが、twitter界隈で最近すっかり「酔翁」の名前で通っているので改めてこちらの名義を使わせていただきました。 ということで、七言律詩です。 以前どなたかキュレーターさんの発言で現代詩以外のカルチャーについても投稿を期待したいということであったので、投稿させていただきます。 現代詩の方が漢詩をどう読まれるのか、興味を持っています。 どのようなご意見があるのか楽しみにしております。よろしくお願いします。
0春、都市から離れた農村部に居を構えている知識人の暮らし。 描写はまず遠景から。霞が晴れ、ねじれた山の稜線に沿ってところどころに残った雪があらわれる。 次に中景。茅葺の家々や竹垣が、生きるものを育む川や水路のまわりに連なっている。 そしてメインである近景の生活へ。柳を伸びるに任せ、花を世話しては開かせ、俗世から離れた暮らしを寂しくないようにしている。客と交歓し、詩作し、障子を開けて庭を眺めながら読書。美しい紙片にしたためた麗しい句は、筆先から生まれ出た繊細なる玉だ。 しかし恥ずかしながら漢詩をまったく嗜んでこなかった私には、最終行が少しよくわかりません。「棋声」が将棋を打つ音、「篆影」が書体を指すのだとすると、「紙上の烟」は棋譜のことなのか、それとも戦乱の記録を指すのでしょうか。後者として読むことが許されるとすれば、この詩の語り手は、かつて政変や戦乱により隔世の暮らしを送らなければならなかった詩人たちとは異なり、いまではもっぱら記録のなかで触れるばかりだということを暗示しているように思われます。つまり今や、隔世の暮らしは、政変や戦乱を避けるために送るものではなく、もっぱら楽しむために楽しむものなのだと言っているに等しいでしょう。しかし本当にそう読んでよいのでしょうか。 もうひとつ気になるのは、本作は暮らしを描いているはずなのに、いわゆる「生活感」を持たないことです。例えば、食べているものを誰がどうやって取ってきたか、またそれを誰がどのように料理しているかが少しも見えません。少なくとも自らが田畑を耕し、炊事をしているようではありません。そこに意識があるならば、それを暗示する一字がおのずと書かれるはずでしょうが、それがここに認められない。私は、主題に照らし合わせた場合にあるべきものが書かれないことのなかに軽視の姿勢を見出すので、それを軽視してもその暮らしには何の滞りもないほど誰かに世話をされている語り手なのだなと思ってしまいます。もっと言えば、例えばしばしば、高齢者が自分よりも年上の高齢者を支えることが常態化している現在の農村部では、雑草や虫の大量発生を防ぐために休耕田を減らそうとして苦悩しているものですが、語り手はそういう努力や苦悩ともかかわりなくもっぱら自分の詩作と読書に酔いしれるだけの生活ができているようです。それは語り手が過去に生きている亡霊だからであるのか、それとも語り手が現在に生きながら現在とは関りがない生活を送っているからであるのか、はたまた書き手が何らかの意図により意識して現在との関わりを詩の語り手から排除しているからであるのか、はっきりしません。 いずれにせよ隔世というテーマを持つ詩が社会的インパクトを持つとしたら、その詩が読者に対して現在を一歩引いて捉え直す視点を提供する場合だと私は考えます。例えば、「政変や戦乱などは自然の営みに比べればささやかなことであるのに、それが生み出す悲劇たるや長らく人を荒廃させるばかりだ」といわんばかりの嘆きは、政変や戦乱をなおも続けている私たちに反省をもたらし、平和や安定への意識を育てるでしょう。しかしこの詩はどうでしょうか、上に述べたような生活の労苦や農村社会の問題などの現在の問題を反省させるでしょうか?
0ありがとうございます。興味深く拝見しております。 いくつか言うべきことがないわけではありませんが、まずはもう少しみなさんのお考えを伺ってから、色々のレスポンスをさせていただこうと思います。 よろしくお願いします。
0案外レスポンスが多いわけではありませんね。 物珍しいとすればもう少し反応があるかと思ったのですが、こんなものでしょうか。 さて原口昇平さま、レスありがとうございます。 ・「紙上の烟」について これは絵(南画)の様子と考えていただければと思います。 なおこれを「戦乱の記憶」の象徴であると仮定した場合ですが、記録は基本的には書籍ですから、筆跡も楷書になると思います。つまり烟=揺れ動くもの=記録の筆跡とするのは難があります。 ・「生活感」について これは漢詩文の約束事にかかわります。 基本的に漢詩文を作るのは士大夫もしくはそれと教養を同じくする広義の文人ということになっています。具体的には、四書五経をマスターし、漢詩文を書いて科挙に合格した(もしくは合格しうる可能性をもつ)人物であるということです(私はそれには全く及びませんが)。そして孟子に「民為本」という言葉がある通り、人々の生活を念頭に政治にかかわることは前提事項のひとつです(その質は常に問われますが)。ですから、作品内容がどのようなものであれ、現実社会から完全に切り離された漢詩というものは原則として存在しません。 その限りにおいて、 ①人生には楽しみも必要です(身を賭して何かと対決すると非常に疲れます) ②ですので今回の作品では現実感を敢えて切ってあります(いわゆる隠逸です) ③そういう姿勢で友達がほしいです(それが今回の詩の表題であり内容です) ④ご期待のような作品を作ることもできます(杜甫の真似をすればよいですね) ということになります。 ・こちらからの感想 詩は「生活の労苦や農村社会の問題などの現在の問題を反省させる」べきであるという原口さんの詩観が浮かび上がってきて興味深かったです。ありがとうございました。
0まさか漢詩をここで読むことになるとは。 「教科書に載ってそうだ」というのが最初の感想だったのですが、色々制約があるものだったのですね。 正直知りませんでした。 意外と反応がない、との事ですが予備知識なしで歌舞伎や能を観るごとく敷居が高かったかなと。 漢詩は高校時代の古文以来全く触れてない(しかも理系でした)のためでしょうか、制約上仕方ない点はあるとしても、上から目線のように感じてしまいあまり共感を得ることができませんでした。 地に足をつけて欲しい、歩き感じる感触や痛みを覚えてほしい、そんな思いが湧いてしまいました。 漢詩には不慣れなので読み違いはあるかと思いますが。 とはいえ漢詩を投稿すること自体は面白いと思うので、個人的には漢詩を読む人間の裾野を広げるような作品を書いてほしいなと。 現代詩を読む機会はあっても漢詩を読む機会のある人は、ここでは少ないですし。 予想外の物を漢詩で詠むとよりいい反応があるかと思います。 (サブカル系統を漢詩で詠むとか)
0酔翁さん、「(漢詩文にとって)人々の生活を念頭に政治にかかわることは前提事項のひとつです(略)。ですから、作品内容がどのようなものであれ、現実社会から完全に切り離された漢詩というものは原則として存在しません」とおっしゃいました。このお考えは、「選挙によって選ばれた政治家の行動は民意を常に必ず反映している」という主張に似て、規範と事実を混同しているように私には見えます。人々の生活を念頭に政治にかかわることは、漢詩文の作者の規範です。一方、個々の漢詩文が現実社会を軽んじていないかどうかということは、個々に問われるべき事実の問題です。もしも酔翁さんが規範と事実を混同しているのでないとなおもおっしゃるならば、私としては「なるほど現実社会とほとんど関係がないこの詩は漢詩ではないのだな」と受けとめるほかなくなります。 また私は「詩は『生活の労苦や農村社会の問題などの現在の問題を反省させる』べきである」とは申しておりません。「隔世」というテーマを持つ作品のなかで優れているものは一歩引いた視点を提供することで「世」への反省を促すものだ、と申しております。 もっともこの詩自体が新しい視点を提供しないわけではありません。少なくとも漢詩の読み書きがこれほどまでに下火になった現在において、古典ではなくいま書かれている漢詩を読むこと自体が新鮮であり、そのような営みを続けている方のお話を聞けること自体はめったにないチャンスです。 ただ私にあまりにも素養がないためお伺いしたいのですけれども、いま漢詩を書くということのなかに酔翁さんはどのような意義を見出しておられるのでしょうか。例えば私が読んできた詩を振り返ると、カルドゥッチは大学で西洋古典を教えながらギリシャ・ローマの韻律法や修辞に倣った詩をイタリア語で書き、決して置き換えられないものを模倣するという努力を通じてそれまでイタリア語の詩にはなかった全く新しい韻律を発明し、伝統的韻律法からの離反を自由詩の普及に先駆けて促しました。またダンヌンツィオはカルドゥッチからさらに踏み込んで、古代ギリシャの語彙をイタリア語に移植することで新しい言葉を生み出しました。翻って、明治時代の日本の翻訳者たちが豊かな漢文の教養をベースとして今日にまで受け継がれる新語を次々に生み出したことも、経緯をもって思い出されることです。そのようにして古典の教養をベースに単なる模倣ではないものを生み出し、新しい時代を築いていくということ。その営みは、この詩のなかではどのように行われているのか、よろしければこの無教養な私に教えていただけませんか?
0やりとりが非常に興味深いので横から失礼します。 原口昇平さん 「なるほど現実社会とほとんど関係がないこの詩は漢詩ではないのだな」と受け取っていらっしゃるのですが、おそらく「現実感=現実社会」を敢えて切る「隠逸」という手法があると酔翁さん自身が書いていらっしゃいますので、これは「隠逸」によって書かれた漢詩なんだと思います。 酔翁さんのレスにある ②ですので今回の作品では現実感を敢えて切ってあります(いわゆる隠逸です) かと。
0みなさま レスありがとうございます。 なんだか私、伝統芸能の人みたいなイメージなんでしょうか笑 私自身は楽しみで漢詩を作っています。折角のご縁ですし、あまり気張らず一緒に楽しんでいただければ幸いです。 羽田恭さま ・「上から目線」「地に足を」「感触や痛み」について すでに田中修子さんがご指摘の点と関わりますが、上記私のレス中①〜③にありますように、今回はそうした点については敢えて切ってあります。ご了承ください。(下記原口さんへのレスもご覧ください)。 ・「漢詩を読む人間の裾野を広げるような作品」について 上記④で書きました通り、作ることはできます。 というより、作り方はお伝えしますからどうぞお作りください笑 ご興味ありましたらツイッターアカウントまでご連絡ください。 原口昇平さん ・「規範と事実」について 田中修子さんのご指摘の通りです。 原則としては社会と密接に関係しますが、陶淵明みたいに嫌になって辞めるというのもよくある話ですし、その陶淵明を尊ぶのは一連の伝統になっています。実は本作もそれに倣ったわけですが、まあ、身過ぎ世過ぎには古来色々あったのでしょう笑 ・「「世」への反省」ないし「いま漢詩を書くということ」について 私自身は楽しいから漢詩文を作っています(もちろん漢詩文の約束事には則ります)。したがって私が楽しいことが第一義であり、「「世」への反省」は目指していません。また何らかの革新も目指していません。 ただ結果的に反省する人もいるかもしれませんし、同じく結果的に新しいものが生まれるかもしれません。そういうことがあれば、それも面白いですね。(アカウントに見えてます通り今度皆で同人誌を出しますけれど、それもその一環になるかもしれません)。 私にとって漢詩文が楽しい理由は、書籍の中にさまざまな人々の人生と経験が詰まっているからです。色々な人間の姿を目にすることができるというのはとっても贅沢です。そして幸いに私に教えてくださる方も分かり合える方もいるのですから、これほど楽しいことはないというわけです。 田中修子さん いつもお世話になっております。 はい、ご指摘の通りです。ありがとうございます。
0鈴木海飛さんにレスする前に、ちょっとトンだ話をしなくてはなりません。 実は漢詩にはいくつかルールがあるのですが、どういうわけか今回ルールに見落としがありました。そういうことはしないように普段気を付けているつもりなのですが、お恥ずかしい次第です(ルールの解釈次第ではこのままでも可ですが、ともあれ律詩ではありません)。 詩想については自分なりに悪くないと思いますので、当面このままとさせていただきます。よろしくお願いします。 鈴木海飛さん ながらく置きっぱなしですみません。 のんべんだらりとしたいものですね。 綵箋、佳句、毫端玉。棋声、篆影、紙上烟。 どれもそのまま並列で述べていますので、文法事項はとくにありません。 直接イメージを起こしていただければと思います。
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